1950年代 - 1970年代
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「ハードディスクドライブの歴史」の記事における「1950年代 - 1970年代」の解説
詳細は「IBMのディスク記憶装置」を参照 IBM 350ディスクファイルは、Reynold Johnsonにより発明され、1956年にIBM 305 RAMACコンピュータの一部として発表された。このドライブは50枚の24インチのプラッターを持ち、合計で500万文字を格納できた。1つのヘッドアセンブリー(部品)は2個のヘッドを持ち、全てのプラッターにアクセスしたが、平均アクセス時間は非常に遅く1秒未満だった。 IBM 1301ディスク記憶装置は、1961年に発表され、ヘッドが各記憶面の上を空力的に自力浮上するフライングヘッドを導入した。 最初のリムーバブルディスク装置はIBM 1311で、200万文字を格納できる IBM 1316 ディスクパックを使用した。 1973年には、IBMはIBM 3340 "ウィンチェスター" ディスクドライブを発表したが、記憶メディアへのヘッドのアクセスを円滑化して削減し、商業的に大成功した。現在の全てのディスクドライブは、この技術や派生技術を使用している。
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1950年代~1970年代
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「プロッター」の記事における「1950年代~1970年代」の解説
1959年の Calcomp 565 のような初期のペンプロッターは、紙をローラーの上に置き、ローラーの回転で紙を前後に動かしてX軸方向の動きとし、ペンはY軸方向にだけ動かしていた。この場合、紙の両端には穴が並んでいて、ローラー両端のスプロケットで紙がずれないようにしている。 Computervision の Interact I という機種は、製図用パンタグラフのような機構にボールペンを取り付け、それを動かす電動機をコンピュータで制御する方式だった。動きが遅いという欠点があり、紙を平らに広げて描くため広いスペースを必要としたが、デジタイザーを兼ねることができた。後にペンを取り付ける部分が改良され、自動的に複数のペンを入れ替えて描画できるようになった。それによって多色描画が可能となった。 HPやテクトロニクスは小型のデスクトップサイズのフラットベッド型プロッターを1960年代末から1970年代にかけて発売した。移動するバーにペンが取り付けられていて、バーがX軸方向に動き、ペンはバーに沿ってY軸方向に動くようになっている。バーに重さがあるため、動きは比較的遅かった。
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1950年代~1970年代
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「スカイダイビングの事故の一覧」の記事における「1950年代~1970年代」の解説
1959年11月16日 - アメリカ 場所 : 被害 : 不明 事故概要 : 当時、アメリカ空軍は航空機乗組員が成層圏から機外脱出の可能性確認の実験「プロジェクト・エクセルシオ」を行っていた。その最初の実験で被験者のジョゼフ・キッティンジャーは、ヘリウム気球のゴンドラで高度23,300 mから降下。スピン対策用のパラシュートが早く開きすぎたため、体がスピンした。これによりキッティンジャーは意識を喪失したが自動的に高度3,000mで減速パラシュートが展開したため命に別状は無かった。 1967年4月24日 - ソビエト連邦 場所 : 被害 : 死亡1 事故概要 : アメリカとの宇宙開発競争を急ぐソビエト連邦は、多数の問題を抱えていたソユーズ1号の有人飛行を強行した。ウラジーミル・コマロフを乗せたカプセルは操作不能のまま大気圏に突入。パラシュートは、「想定した通り」に開かず、地面に激突し死亡。 1969年12月15日 - 日本 場所 : 埼玉県桶川町(当時) 被害 : 死亡1 事故概要 : 日本で初めてのスポーツ・スカイダイビングでの死亡事故。セスナで、高度700mから降下したところ、パラシュートが開かず墜落。死亡者はスカイダイビング6回目だった。 事故詳細 : 埼玉桶川スカイダイビング墜落事故 (1969年)を参照 1970年8月27日 - 日本 場所 : 宮城県大和町、陸上自衛隊王城寺演習場 被害 : 死亡1 事故概要 : 陸上自衛隊の空挺訓練でV-107に搭乗し、高度2,200mから降下。習志野第一空挺団所属の三曹のパラシュートが開かず墜落し、地面に激突。まもなく死亡。 1971年5月17日 - 日本 場所 : 埼玉県川島町 被害 : 死亡1 事故概要 : この日、セスナ機をチャーターし7名でスカイダイビングをしていた。午後12時30分ごろ、カナダ人男性のパラシュートが開かず墜落し、地面に激突。死亡。 1971年11月24日 - アメリカ 場所 : ワシントン州とオレゴン州の境界、コロンビア川付近 被害 : 行方不明1 事故概要 : ノースウエスト航空の11便がダン・クーパーを名乗る男にハイジャックされた。シアトル・タコマ国際空港に緊急着陸後、身代金・パラシュートと乗客全員・一部客室乗務員を交換したあと、再離陸。ボーイング727の後部ドアより身代金とともにパラシュート降下した(D.B.クーパー事件)。犯人は行方不明、事件も未解決である。 1972年1月26日 - チェコスロバキア 場所 : 被害 : 重体1 事故概要 : デンマークのコペンハーゲンからユーゴスラビアのザグレブへ向けて飛行していた、JATユーゴスラビア航空364便がテロリストにより仕掛けられた爆弾が炸裂し空中分解(JATユーゴスラビア航空機爆破事件)。この旅客便で客室乗務員の ヴェスナ・ヴロヴィッチ(当時22歳)は、巡航高度の約10,000mからパラシュートなしで落下したが奇跡的に一命を取りとめた。 1972年3月31日 - 日本 場所 : 群馬県千代田村、利根川 被害 : 死亡1 事故概要 : 午後5時ごろ、スカイダイビングのため大学生2名と高校生が大西飛行場を離陸したセスナ機から飛び立った。高度1,000mから利根川河川敷を目標とした降下を開始。最後に降下を始めた高校生はパラシュートが流されて、利根川の中央付近の水深3m程度の場所に降下着水。この日の夜、警察や消防団300人が捜索したが発見できなかった。4月23日に埼玉県羽生市付近で投網をしに来ていた男性が遺体を発見した。 1974年8月11日 - 日本 場所 : 山形県東根市、山形空港 被害 : 死亡1 事故概要 : 山形空港の開港10周年記念のイベント「山形空港まつり」のアトラクション披露で起きたスカイダイビングの死亡事故。セスナ3機に3人ずつ分乗し、発煙筒を焚きながら降下してくる予定だった。高度600mで2名のパラシュートが絡みあう事態になった。両名ともメインのパラシュートを切り離し、予備のパラシュートを開こうとした。1人の予備パラシュートは開いたが、もう1人のスカイダイバーの予備パラシュートが開かないまま墜落、死亡。 事故詳細 : 山形空港まつりスカイダイビング墜落事故を参照 1975年9月14日 - 日本 場所 : 茨城県、龍ヶ崎飛行場付近 被害 : 重傷2、軽傷1 スカイダイビングの訓練のためスカイダイバー3名(訓練生2名とインストラクター)と機長が乗ったセスナ機が高度約850m(2,800フィート)で2番目に降下する訓練生が降下準備に入ったところ、インストラクターの予備パラシュートが予期せず開いた。この勢いでインストラクターと訓練生1名が機外に。インストラクターはそのまま予備パラシュートで降下し着地。しかし訓練生が機外に放り出された直後にメインのパラシュートが開き、これがセスナ機の右主車輪に引っかかった。セスナ機は急旋回を始め、訓練生を吊り下げたまま飛行場近くの乾田に墜落し、大破。機長と訓練生が重傷。インストラクターも軽傷を負った。 外部資料 : “日本フライングサービス株式会社所属セスナ式172G型JA3261に関する航空事故報告書 (PDF)”. 航空事故調査委員会 (1976年1月29日). 2014年9月21日閲覧。
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