1980年代前半
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「グスタフ・ブルナー」の記事における「1980年代前半」の解説
1983年にATSチームのデザイナーとしてF1でのキャリアをスタートさせ、その後2年間にわたって同チームの車体設計に携わり、1983年のATS D6、1984年のATS D7シャシーをデザインした。同チームは1984年をもってF1から撤退したが、チーム代表のハンス・ギュンター・シュミットとの間で反りが合わなくなったため、ブルナーはチームから去り、翌1985年はRAMレーシングに移り、RAM03シャシーをデザインした。 小規模なチームを渡り歩いたため、大きな結果を残すことはできなかったが、少ない予算のチームで良いシャシーを設計する手腕は他チームの関係者からも高い評価を得ていった。特に最初の作品であるATS D6では、小規模チームながらカーボンモノコックをいち早く採用し、それを実現するためにメス型成型のモノコックを発案し、製造に用いた。オス型成型のモノコックに比べると作業工程は多くなるが、メス型成型はより複雑な形状を型抜きでき、表面も滑らかに仕上がるため、空力設計的にメリットがあった。後にこのブルナーの手法は広まり、以後はレースカーのカーボンモノコック製造においてメス型成型が主流となっていった。
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1980年代前半
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1980年には、資生堂の化粧品のCMソングとなったシングル曲「不思議なピーチパイ」がヒットした。当初は安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていた竹内であったが、自らも作詞・作曲を手がけるようになった。 アイドル的活動には大きな不満を持っていた。心ならずもバラエティ番組や雑誌の表紙やグラビアなどにも引く手数多のアイドル活動をやらされることになった竹内は、歌わせてさえもらえない仕事も数多くこなさざるを得なかった。与えられた仕事を懸命にこなしながらも根本的疑問を抱えていたこの時期の竹内の前にアレンジャー(編曲家)として現れたのが、のちに公私に亘ってパートナーとなる山下達郎であった。 山下と大貫妙子が率いるシュガー・ベイブや山下のライブをアマチュア時代から見に行っていた竹内は、特に自らのデビューライブの直前に見た山下のライブに大きな衝撃を受けていた。竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用された山下は、その後、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際して双方がコーラスに起用されるなど、関わりを密にしていった。アイドル的活動に深く思い悩んで行き詰まった自分に山下は親身になって相談に乗ってくれて、それが結婚に到るきっかけになったと竹内は語る。音楽番組『夜のヒットスタジオ』の同年7月28日放送回に出演した竹内は司会者に問われて山下との交際を認めている(後述参照)。 なお、竹内の結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾といった作家が提供している。 1981年、先述したアイドル歌手としてオファーと自身の希望する活動とのギャップに原因するストレスと過酷なスケジュールが祟って竹内は喉を傷めて入院し、音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言した。 1982年4月、27歳で山下達郎と結婚する。これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、河合奈保子に提供した「けんかをやめて」「Invitation」などがヒットした。しかし同1982年、山下の担当ディレクター小杉理宇造がRVCから独立し、アルファ・ムーンを設立すると、山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍した。 1984年、アルファ・ムーンに移籍し、シングル「もう一度」、そして全曲を竹内自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリースした。このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に竹内が書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下が驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。同作品は最終的に30万枚以上のヒットを記録した。同年、娘が誕生した。
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1980年代前半
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「日本のヒップホップ」の記事における「1980年代前半」の解説
1981年、シングル「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」が発売される。この中で山田邦子がバスガイドネタとともにラップを披露している。 1983年7月30日、映画『フラッシュダンス』が日本で公開される。劇中のROCK STEADY CREWによるストリートダンスに影響されたFUNKY JAM (FUNKY JAM BREAKERS)や、TOKYO B BOYSのCRAZY-A、B ★5 CREWらがブレイクダンスを始める。また、映画『ワイルド・スタイル』が日本で公開され、監督と34名の出演者が来日する。プロモーションとして『森田一義アワー 笑っていいとも!』や『11PM』など、東京の日比谷、大阪ディスコでのショータイム等のイベントやテレビにも出演し、日本のヒップホップシーンを作り出すきっかけとなる。1984年6月23日には、『ブレイクダンス』が日本で公開され、公開初日の上映前に映画館で日本ヘラルドがオファーを受けてB★5 CREWがショーを行い、公開に伴うイベントではFUNKY JAMがナイキをスポンサーに各地のイベントに周った。 1984年5月に佐野元春が、アルバム『VISITORS』を発表。収録曲の「COMPLICATION SHAKEDOWN」をはじめ、メジャーレーベル系ミュージシャンとしては初となる日本語を取り入れたラップである。同年の11月25日に、吉幾三の8枚目のシングル「俺ら東京さ行ぐだ」が発売され、オリコンチャートで年間21位を記録する。12月にはハードコアボーイズが、桑原茂一プロデュースのシングル「ほうらいわんこっちゃねぇMIX」を発売する。これが日本で初めて販売されたリミックス(メガミックス)である。
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1980年代前半
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「ビリー・ジョエル」の記事における「1980年代前半」の解説
『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の成功の後、1980年には『グラス・ハウス』が発表された。これまでのジャズを基調とした洒脱な作風から路線変更し、よりソリッドなサウンドに徹したこのアルバムでジョエルはグラミー賞の最優秀ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞する。3年連続で同賞を受賞した彼は常連の候補者となり、以後1983年の『イノセント・マン』まで連続してノミネートされている。また、『グラス・ハウス』からは5曲がシングルカットされたが、そのうち「ロックンロールが最高さ」は、彼にとって初の全米シングルチャート1位記録曲となった。 1981年には、初のライヴ盤『ソングズ・イン・ジ・アティック』をリリース。ブレイク前の初期の作品のライヴテイクを集めたこのアルバムは、アメリカと日本でトップ10ヒットとなり、ライヴ盤としては極めて大規模な成功を収めた。 『ストレンジャー』のヒット以降順調に活躍していたジョエルにとって、1982年は数多くのトラブルに見舞われた年となった。『ナイロン・カーテン』の制作を開始した4月にはオートバイ事故を起こし、左手首に重傷を負う。1か月の入院を要した彼はアルバムのレコーディングを一時休止せざるを得なくなった。また、マネージャーとしてもビリーを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーとの夫婦仲も拗れていた。結局、ビリーの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に、彼とウェーバーは1983年7月に離婚に至っている。これらの私生活での様々なトラブルが影響してか、1982年の9月にリリースされた『ナイロン・カーテン』は、アメリカが当時抱えていた社会問題をテーマにした、極めてシリアスな作品となっている。また、彼は80年代も前作が100万枚以上のミリオン・セラーとなっても、次のアルバムが70万枚程度におわると憂鬱になってしまうような、心の問題を引きずっていた。 数々の災難が続いた彼だが、1982年に行われたツアー後のオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと交際を始める。彼女がプロモーション・ビデオにも出演して話題となった1983年のシングル「アップタウン・ガール」は、これまで彼にとって主要なマーケットではなかったイギリスで大ヒットし、初の全英チャート首位に輝いた。この曲は、2001年にはウエストライフによってカヴァーされ、再びイギリスのヒットチャートの1位を記録している。 「アップタウン・ガール」が収められた1983年の『イノセント・マン』は、彼が10代の頃に慣れ親しんだ1950年代から60年代にかけてのオールディーズを基盤とした楽曲を中心に構成された極めてポップな作品である。このアルバムからは収録曲の半分以上の6曲がシングルカットされ、すべて全米トップ40ヒットになっている。『イノセント・マン』は、アメリカや「アップタウン・ガール」で人気に火がついたイギリス、日本などを中心にセールスを伸ばし、最終的に全世界で800万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。 1985年には初めてのベスト盤となる『ビリー・ザ・ベスト』をリリース。彼の12年のソロ・アーティストとしての軌跡を総括するこの2枚組アルバムは、アメリカで歴代4位の2,300万枚を売り上げたとされる。
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1980年代前半
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1980年 1月14日、コンサート・ツアー『CONCERT '80』スタート。全5公演。 3月19日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80』スタート。全15公演。 3月21日、79年夏にプロモート用で制作されたLPが評判となり、『COME ALONG』のタイトルでリリース(カセットのみ)。DJ入りコンピレーション・アルバムの先駆けとなる作品。 5月1日、シングル「RIDE ON TIME」リリース。自らも出演したmaxellカセットテープのCMソングとして初のトップ10ヒットを記録。 5月21日、山下プロデュースによる、水口晴幸『BLACK or WHITE』リリース。COOLS ROCKABILLY CLUBから独立後、初のソロ・アルバム。 7月27日、『80's JAM OVER JAPAN』(西武球場)に出演。 8月2日、神奈川県の葉山マリーナ・エメラルドプールで『RIDE ON TIME CONCERT in HAYAMA』開催。この年の冷夏の影響を受け、寒さと豪雨という最悪のコンディションの中、約4時間決行されたため、山下にとって最も印象深いコンサートの一つになっている。 9月17日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80-'81』スタート。全38公演。 9月19日、アルバム『RIDE ON TIME』リリース。アルバム・チャート1位を記録、ソロ・デビュー4年目にしてブレイクを果たす。 10月21日、アルバム『RIDE ON TIME』の収録曲「MY SUGAR BABE」が日本テレビ系ドラマ『警視-K』主題歌に使用され、リカット・シングルとしてリリース。楽曲を気に入った番組プロデューサー兼主演の勝新太郎が山下に電話で直接交渉し、ほぼ強引に使用を決めた。後に行われた番組の制作発表会見では他の出演者と共に同席させられ、後日の芸能紙やスポーツ新聞には、会見で憮然とした表情の山下の写真が掲載された。 12月5日、一人ア・カペラ・アルバム『ON THE STREET CORNER』を10万枚限定でリリース。一人多重録音のア・カペラによるドゥーワップ作品。これ以降、山下の一人ア・カペラはその認知度を増していく。 12月31日、前年10月リリースのアルバム『MOONGLOW』が第22回日本レコード大賞のベストアルバム賞を受賞。 1981年 3月13日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81』スタート。全27公演。 3月17日、初の自社スタジオ「スマイルガレージ」がオープン。港区芝浦にある倉庫(横浜倉庫株式会社芝浦事業所)を一部改装したもので、ガレージ・スタジオの草分け的存在。ただし、改修に時間がかかり、自身の作品では1986年のアルバム『POCKET MUSIC』レコーディングから使用開始。 9月7日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81-'82』スタート。全17公演。 1982年 1月21日、アルバム『FOR YOU』リリース。オリコンチャートで1位、年間アルバムチャートでも2位となり、評価を確立。 4月5日、シングル「あまく危険な香り」(TBS系金曜ドラマ『あまく危険な香り』主題歌)リリース。 4月6日、竹内まりやと結婚。竹内には楽曲提供だけでなく、同じRVC所属シンガーのレコーディングにコーラスとして揃って駆り出されるなど、関わる機会が多くなる中で懇意となり、既に結婚のおよそ2年前から山下のマンションで同棲生活を送っていた。 4月10日、TBSラジオ『サウンズウィズコーク』レギュラー開始(1983年4月2日まで)。 6月21日、山下作詞、作・編曲、プロデュースによるフランク永井のシングル「WOMAN」リリース。 6月30日、松本隆作詞、山下作・編曲による近藤真彦の7枚目のシングル「ハイティーン・ブギ」リリース。カップリングの「Momoko」も松本作詞、山下作・編曲作品。近藤主演の同名映画の主題歌。近藤もディレクター小杉の担当するシンガーの一人であった。 7月21日、初のベスト・アルバム『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』リリース。RVC最後の作品。 秋、RVCとの契約を解消。小杉がRVCから独立、アルファレコードの村井邦彦とヤナセの梁瀬次郎の資金援助の下に設立したレコード会社、アルファ・ムーンに役員兼ミュージシャンとして移籍。 11月2日、コンサート・ツアー『Sparkling '82-'83』スタート。全18公演。 1983年 4月7日、NHK-FM『サウンド・ストリート』木曜日のレギュラー開始(1986年3月20日まで)。 4月23日、ムーン・レコード移籍第一弾シングル「高気圧ガール」(全日空沖縄イメージソング)リリース。 5月21日、山下プロデュースによる村田和人のアルバム『ひとかけらの夏』リリース。 6月8日、移籍後初のオリジナル・アルバム『MELODIES』リリース。作詞も自ら手掛けるようになる。 9月28日、シングル「スプリンクラー」リリース。同日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '83-'84』スタート。全38公演。 12月14日、シングル「クリスマス・イブ」を12インチの限定ピクチャー・ディスクでリリース。 1984年 4月、小杉が所属事務所社長に就任。これを受けて社名を「ワイルド・ハニー」から、それまで系列出版社名として使用していた「スマイルカンパニー」に変更。同時に出版社名を「スマイル音楽出版」とし、企業グループ名を「スマイルグループ」に統一する。社名の「スマイル」はビーチ・ボーイズ1967年の未発表アルバム『スマイル』から。これ以降ワイルド・ハニーの名称はオフィシャルファンクラブ設立後、通信販売CDのプライベート・レーベル名として使用されている。 5月、小杉が「スマイル音楽出版」の社長も兼務となり、スマイルグループ代表に就任。同時期、小杉の勧めでスマイル音楽出版とは別に、山下は自身の楽曲の著作権管理等を目的とした個人事務所「テンダベリーミュージック(Tenderberry Music)」を設立。竹内まりやも「有限会社ミュージック・ハーヴェスト」を設立、後に夫婦共同の事務所として「テンダベリー & ハーヴェスト」に改称。ただし「有限会社ミュージック・ハーヴェスト」は竹内の実家である島根県出雲市の旅館「竹野屋」内に事務所が置かれている。名前はローラ・ニーロのアルバム『NEW YORK TENDABERRY』とニール・ヤングのアルバム『Harvest』から。 4月25日、竹内まりやのムーン・レコード移籍第一弾アルバム『VARIETY』リリース。81年の活動休止から2年半、竹内が結婚前から書き溜めていた曲を聴いた山下がアルバム化を提案、全曲竹内のオリジナル曲による初のアルバム。この復帰作で、アルバム・チャート1位を記録。以後、竹内の楽曲アレンジとプロデュースを手がける。 5月25日、シングル「THE THEME FROM BIG WAVE」(日本ヘラルド配給映画「ビッグウェイブ」テーマソング)リリース。 6月20日、アルバム『BIG WAVE』リリース。ビーチ・ボーイズのカバーを含む全曲英語詞による、同名映画のサウンドトラック。 12月10日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '84-'85』スタート。全30公演。 この年、娘が誕生。
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1980年代前半
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「日本の漫画の歴史」の記事における「1980年代前半」の解説
この時代には子供の人口が増え、1960年代後半生まれが中高生になり、1970年代前半生まれが小学生になった。また、1974年にセブン-イレブンの1号店ができて以来着実に店舗数を増やしていたコンビニエンスストアは1981年に全国総店舗数が15000軒を超え、書店と並ぶ漫画雑誌の供給源として重要な存在になった。 このような社会状況を背景に、週刊少年漫画雑誌の熾烈な売上競争が起こる。1980年に『週刊少年ジャンプ』が300万部を突破した一方で、翌年には少年週刊誌の発行部数は前年比-8.6%、少女週刊誌も-7.1%と、全体的な部数を落とした。特に『ブラック・ジャック』が連載を終えた『週刊少年チャンピオン』は売り上げを大きく落とし、部数減に拍車がかかった。1982年には、深刻な部数低迷が続いていた『少年キング』が休刊に追い込まれた。そんな中、サンデーの『タッチ』とジャンプの『Dr.スランプ』がテレビアニメ化により大ヒットを記録した。このうち『Dr.スランプ』は単行本第6巻が日本のコミックで初めて初版で200万部を記録するなど、社会現象になった。サンデーは左記『タッチ』のあだち充や、高橋留美子らのラブコメディ(ラブコメ)漫画が隆盛を極め、最盛期を迎える。一方で、これらの少年漫画の一ジャンルを長年築いてきた「スポ根もの」は下火となった。1984年には漫画雑誌の総発行部数が10億部、単行本の販売金額が1000億円の大台を突破した。特に人気作に恵まれた『週刊少年ジャンプ』では同年、『キャプテン翼』『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』が同時に連載されており、年末最終号は400万部を超えた。 この時代には、『週刊ヤングマガジン』『ビッグコミックスピリッツ』『グッドコミック』『コミックモーニング』などの青年男性向け漫画雑誌や、『ビッグコミックフォアレディ』など若い女性向けのレディースコミック誌(レディコミ)が相次いで創刊された。反面、幼年誌・学年誌の売り上げは落ち込み、子供にとっての漫画への入り口が漫画雑誌からテレビアニメへと移っていく。
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1980年代前半
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「ジム・クロケット・プロモーションズ」の記事における「1980年代前半」の解説
1980年、ジム・クロケット・ジュニアはNWAの会長になる。しかし1980年代初頭、プロレス業界は著しく変化しつつあった。ビンス・マクマホンのワールド・レスリング・フェデレーション(WWF、現在のWWE)は全国展開への動きを見せ始め、ジョージア・チャンピオンシップ・レスリングを買収した。当時ビンスは全国放送のTBSの時間枠を得てWWFの放映をし、この番組は結局視聴率が上がらず失敗したにせよ、マクマホンはMTVでもいくつかの番組を放映していた。さらに、マクマホンは当時プロレス界で最も人気のあるレスラー、ハルク・ホーガンと契約していた。かつてのNWAのテリトリー制は、WWFの人気によって崩壊しつつあった。 1982年、ボブ・ガイゲルがサム・マソニックのセントルイス・レスリング・クラブを買収してNWA内での発言力を増しNWA会長に就任。ジム・クロケットのNWA会長職は2期で終わった。 1983年、当時WWFがシェイ・スタジアムで行っていた大興行『ショーダウン・アット・シェイ(Showdown at Shea)』(1980年までに3度行なわれた)に対抗するべく、クロケットはNWAとしての新しい一大イベント『スターケード』を仕掛けて成功を収めた。 1984年には、全国的な組織を作ろうというクロケットの最初の試みもみられた。JCPは、バーン・ガニアのアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)やオレイ・アンダーソンのチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージア(ジム・バーネットが主宰していたジョージア・チャンピオンシップ・レスリングから分かれた団体)、メンフィスを拠点としたジェリー・ジャレットのコンチネンタル・レスリング・アソシエーション(CWA)と共同で『プロレスリングUSA』を設立。この団体は、当初はWWF以外の錚々たるプロモーターたちが揃った合弁事業組織であった。 プロレスリングUSAの全盛期は、シカゴのコミスキー・パークで行われた『スーパークラッシュ』であった。1985年9月28日、2万1000人以上の人々が会場を埋めた。興行のメインカードは、リック・フレアー対マグナムTAのNWA世界ヘビー級王座戦と、リック・マーテル対スタン・ハンセンのAWA世界ヘビー級王座戦であった。このように同じ試合でAWAとNWA世界王座戦を組めることが、プロレスリングUSAのメリットでもあった。 プロレスリングUSAの興行は各メンバーのテリトリーで行われ、さらには、WWFに対抗するべく、元WWFのテリトリーの中心地であったニュージャージー州など北東部でも興行が行なわれた。しかし、プロモーター間、主にガニアとクロケットの不和の結果、この団体は数ヶ月程度しか存在できなかった。クロケットはこの共同事業から撤退し、その後数ヶ月のうちに、プロレスリングUSAは単にAWAの焼き直しのような団体になってしまった。1986年1月にこの団体は解散した。
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1980年代前半
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ほとんどの車両が緑と黄色の標準塗色であった。一部車両にはワンマン化当時ワンマン改造済であることを示す白帯が入っていた。一部の800形については上半分が朱色がかった桃色・下半分が白色に塗装された。広告車両については、2007年現在に見かけるような全面広告車は存在せず、下半分を白色としてその上に広告を塗装したものであったが、これは全面広告車が都市景観上批判を浴びたことを受けて市が広告規制を行ったためである。
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1980年代前半
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「日本における被死刑執行者の一覧」の記事における「1980年代前半」の解説
事件名(仮名または氏名)事件発生日一審判決二審判決最高裁判決執行日備考1981年(1人執行)1982年(1人執行)藤沢市女子高生殺害事件 (S) 1967年1月13日 1969年3月18日 1971年11月8日 1972年7月18日 1982年11月25日 第一審は無期懲役判決だったが、控訴審で逆転死刑判決。神奈川県藤沢市で下校途中の女子高生を暴行して殺害。死刑執行時に執行を拒絶して暴れ、50分にわたり刑務官たちと格闘した。 1983年(1人執行)1984年(1人執行)
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1980年代前半
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デビュー直後や映画『ねらわれた学園』(1981年7月)出演時には、所属事務所から歌手デビューも提案されていたが、薬師丸は無理だと思って断っていた。そのため、〔1978年のスクリーンデビューから1981年11月の歌手デビューまでの3年間には〕"歌わない(最後の)アイドル"と形容されることもあった。また、ポスト山口百恵が騒がれていた頃、「薬師丸は歌わないから……」と否定されていた。『セーラー服と機関銃』の宣伝を担当した遠藤茂行によれば、映画ファン限定のスターだった薬師丸が主題歌を歌うことで同世代のアイドルにもなった。歌手デビューに至った詳細はセーラー服と機関銃 (曲)#経緯を参照。 角川映画時代にリリースしたシングル「セーラー服と機関銃」(1981年)・「探偵物語」(1983年)・「メイン・テーマ」(1984年)・「Woman "Wの悲劇"より」(1984年)は、すべて主演映画の主題歌である。「メイン・テーマ」が最高位2位だったため、シングル連続首位記録は途切れたが、他の3曲はオリコン1位を獲得している。 セカンド・シングル「探偵物語」の両A面である「すこしだけやさしく」(1983年)は、TBS系『わくわく動物ランド』のエンディングテーマになっている。 再度、映画主題歌を歌うことになった「探偵物語」で作詞家の松本隆や作曲家の大瀧詠一に出会ったことで、歌うことやアルバム作りの楽しさを知り、今後も歌い続けたいと思った。もし、二人に出会っていなかったら、歌手との両立など考えずに、女優だけをしていたかもしれないと話している。松本は一連の薬師丸作品に関して、流行を狙うような俗っぽいビジネスライクなものとは違うものを作ろうとした。そして、松本は薬師丸に書いたすべての曲に満足していると答えている。 薬師丸の代表曲の1つである「元気を出して」は、竹内まりやが薬師丸のために書き下ろした。47.7万枚の売上を記録したファースト・アルバム『古今集』(1984年)に収録されているが、これまで、シングルカットされたことはない。その後、1987年に竹内まりやがアルバム『REQUEST』でセルフカバーした時に、山下達郎と共にコーラスに参加している。2人のコーラスは絶品と竹内まりやは賞賛している。
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