1991年10月以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:51 UTC 版)
「アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91」の記事における「1991年10月以後」の解説
1991年10月3日、台座への傘の取り付けが本格的に開始される。この作業にはプロジェクトで契約した設置請負会社の作業員の他、日本側では600人、アメリカ側では960人の学生、アーティスト、農民等が参加している。彼らには揃いのユニフォーム、ヘルメットが渡され、トレーニングを受けた後、傘設置の作業に参加した。 なお、彼ら一般参加者は無償のボランティアでは無く、『アンブレラ』以外のプロジェクト同様、彼らには賃金が支払われている。これはクリストとジャンヌ=クロードの、プロジェクトは一切の資金援助を受けず行う、との姿勢の徹底した表れである。 1本203キログラムの傘本体は展示現地近くまではトラックやヘリコプターを使って運ばれたが、最終段階は人力による運搬であった。傘本体を包んでいたカバーには10個の取っ手が付けられており、それを持って台座まで運び、台座に取り付けてロープ等を使って直立させる作業が10人程度で行われた。 傘本体の台座への取り付けが終わり、青又は黄の柱が林立する景観へと変貌した茨城とカリフォルニアの開催地は8日の開花予定日を待っていた。しかし開花予定日の3日ぐらい前から茨城県北地域は不順な天候が続いていた。また10月4日に発生した台風21号が日本接近の様子を見せており、今後天候がどうなるかの予想は立たなかった。 開花予定日の前夜、クリストとジャンヌ=クロードは常陸太田市民交流センター(パルティホール)で開催されたレセプション後の記者会見で日本側での悪天候を理由に翌日の開花を日米とも延期することを発表した。この時クリストはプロジェクトに対する信念を次のように述べている(一部仮名化)。 何者にも屈しない。僕が最も楽しめる時にプロジェクトを行うつもりだ。作業責任者のAさんは明朝、傘を開くことも出来るが、僕が望んでいない。僕のプロジェクトは美の観点が大事なんだ。完全に自由な作品だから、誰のいいなりにもならない。 — クリスト、映画『アンブレラ』 開花予定日だった8日の日本側では延期を知らず集まった観客もいたが特別の混乱は無かった。開花作業の為、集められていた作業員達もこの日は待機することになった。 9日、雨があがった朝、日本側での開花作業が始まった。青いカバーが外され姿を現した傘本体は、支柱下部に取り付けたハンドルが回されるとゆっくりと開いていった。午前9時にはほとんどの傘が開いた。クリストとジャンヌ=クロードは傘が開いた光景を車で見て回った。この時クリストはアメリカ側の開花を見るために急いで成田空港へヘリコプターで向かわねばならない状況であったが、開花の光景に興奮した様子で各所で車を止め、青い傘と茨城の水と緑の調和に感嘆の言葉を漏らした。 一方のアメリカ側は現地時間で9日となる朝に開花作業が始まり、日本からカリフォルニアに飛んだクリストはアメリカ側の開花にも立ち会うことが出来た。この日米同時による壮大な作品開催のニュースはアメリカの主要メディアの他、イギリス、ドイツでも報じられた。 しかし、この時の日本側では開花した9日の夜から強風と大雨、また接近する台風21号で緊迫した状況になっていた。台風21号は9日の時点では沖縄県南南東にあったが、日本接近の進路予想を見せ、今後強まる風雨で多大な危険性が予想されていた。実際、既に9日の夜には強風で破損した傘が出るなどの被害が発生しており、倒れた傘の布を破り被害拡大を防ぐなど懸命の措置が行われた。この状況でクリストとジャンヌ=クロードは日本側の傘を一旦閉じる判断を下した。10日の午前中から傘を閉じる作業が開始され、午後2時には、閉じると却って危ないと判断された里川内に設置された傘を除いた全ての傘が閉じられた。この時の閉じる作業には代官山に「アートフロントギャラリー」を設立していた北川フラムの、友人である柳正彦の求めに応じてスタッフを連れて駆けつけ、作業員不足を補う等の協力もあった。 13日、クリストが茨城に戻り、台風が過ぎた15日に再び日本側の傘は開かれ、日米とも満開の状況となった。17日にはジャンヌ=クロードがアメリカに渡り、カリフォルニアの谷に咲く黄色い傘を見た。 日本側では15日の再開以後は順調に展示は進み、傘を見るために県内外から多くの観光客が訪れた。国道349号は期間中最大17キロメートルの渋滞を起こし、沿道では特産の巨峰が売られるなどされた。また常陸太田、佐都(常陸太田市)、町屋(同左)、中里(日立市)、里美の各郵便局は臨時出張所を開設し各所を巡るスタンプラリーを実施したり、里美村は地元とカリフォルニアの物産展を開くなど、『アンブレラ』にあやかった催しも会期中行われた。 一方のアメリカ側は9日の開花日当初が40度を越える季節外れの猛暑日となる中、多くの観客が訪れていた。10日のロサンゼルス・タイムズは、『アンブレラ』を見に1万人が訪れ交通量は平日の約40パーセント増になっていた、と報じている。ヘリコプターを使っての上空からの鑑賞や、記念Tシャツなどの土産物の販売等便乗ビジネスも盛んに行われ、ユニークなイベントとして、傘の下での結婚式というのも行われていた。 日米とも、来場者には日米の開催地が書かれた両面印刷の地図と、傘の布地裁断の段階で生じた余り布がサンプルとして渡された。20日、アメリカ側では強風発生の恐れがあった為、多くの傘を閉じる措置がとられた。翌日には再び開かれた。また、アメリカ側では開催期間前半に傘の展示場所から1.6キロメートル離れた場所にいた人が落雷で怪我をするという事故も起きている。林立する傘の金属フレームは落雷を誘発する危険性があり、ロサンゼルス郡の消防士は暴風雨の時は傘に近づかないようにすべし、との警告を出していた。 10月26日(日本時間は27日)、アメリカ側会場で強風で吹き飛ばされた傘により観客が死亡する事故が発生した。 事故が起きたのは午後5時頃で、吹き飛ばされた傘は州立フォートテホン歴史公園の北の"デッドマンズカーブ(英語版)(Dead Man's Curve .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度53分12秒 西経118度54分20秒 / 北緯34.886703度 西経118.905641度 / 34.886703; -118.905641)"と呼ばれる場所近くのデイジーロード(Digier Road)沿いに建っていた。この場所はアメリカ側での『アンブレラ』の見所場所のひとつであった。事故発生の前週から続いていた強風で傘本体と土台を固定する部分が緩んでいた所に、事故発生時に起きた毎秒20メートル(アメリカ報道では時速40マイル)の風が傘を吹き飛ばした。吹き飛ばされた傘は道を横切って飛び、30代の女性に後ろから当たり、更に彼女を近くの岩に打ち付けた。彼女は現場で死亡した。遺骸には背骨、頭蓋骨、顔面の骨折や脳挫傷などが刻まれていた。事故発生時には、女性の死の他、数人のけが人も出ていた。アーティスト側の弁護士は傘は死亡した女性に当たったとの証拠は無い、とも申し立てていたが、カーン郡検察庁は傘は被害者に当たっていたと結論づけた。 アメリカの事故の知らせは日本時間の27日正午前に、日本に居たクリストとジャンヌ=クロードに届いた。それを聞いたクリストは壊れて泣いた、という。そしてクリストとジャンヌ=クロードは即座に『アンブレラ』の中止を決定し、日米とも傘を直ぐに閉じることを命じた。午後5時半からの緊急記者会見でクリストとジャンヌ=クロードは遺族への弔意を示した後、両名ともカリフォルニアへ向かった。 アメリカ側会場は何百本もの傘が風で壊された姿をさらしている状況であった。そして、27日の傘の閉鎖作業は強風に悩まされ、その日の内には作業を終えることが出来なかった。 一方、日本側の傘の撤去作業は28日から始まり31日には傘本体部分の撤去は終わる見込みであった。が、31日午前11時50分頃、日本側での傘撤去作業中に50代の男性作業員の死亡事故が発生する。事故が起こったのは常陸太田市町屋地区の国道349号から約90メートル奥へ入った農道。この辺りは日本側の『アンブレラ』の最大の見所であった町屋会場の中央部であった。ここで、水田にあった傘をクレーン付きトラック車の荷台に積み込む為、クレーン操作をしていた作業員が感電し、収容先の病院で死亡した。感電の原因は地上から高さ約7.5メートルにあった特別高圧線にクレーンのアームが接触したか、或いは近づきすぎた為、である。この事故で周辺の32000戸が約20秒間停電した。 日本側の事故の報告を受けたクリストとジャンヌ=クロードは日本へ戻り、作業員の家族を見舞った。 アメリカ側の事故については発生からほぼ1年後、アーティストと被害者家族の間で和解が成立したとの報道がなされている。 ジャンヌ=クロードは『アンブレラ』で67回の来日をした、と語っている。
※この「1991年10月以後」の解説は、「アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91」の解説の一部です。
「1991年10月以後」を含む「アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91」の記事については、「アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91」の概要を参照ください。
- 1991年10月以後のページへのリンク