3歳時(2018年)
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「スタディオブマン」の記事における「3歳時(2018年)」の解説
3歳初戦は重賞初挑戦となるラフォルス賞(G3)であったが、2着に敗れた。しかし、続くグレフュール賞(G2)では、2着に3馬身半差をつけて完勝し、重賞初制覇となった。次走は英ダービー(G1)とジョッケクルブ賞(G1)が候補に挙がったが、ジョッケクルブ賞(G1)に出走。道中は中団を進み、直線で先頭に立つとそのまま粘り、2着を半馬身差抑えて勝利し、同年の東京優駿(G1)の勝ち馬ワグネリアンと合わせて、ディープインパクト産駒の日仏ダービー制覇となった。その後、ギヨームドルナーノ賞(G2)3着を挟んで挑んだアイリッシュチャンピオンステークスでは同世代のディープインパクト産駒で当年の2000ギニー馬サクソンウォリアーと対戦したが5着。10月の凱旋門賞ではエネイブルの9着に終わり、この年を終えた。
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3歳時(2012年)
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「ユニオンラグズ」の記事における「3歳時(2012年)」の解説
ユニオンラグズの3歳シーズンはフロリダ戦線から始動し、初戦の2月26日のファウンテンオブユースステークス(G2・ガルフストリームパーク競馬場・ダート8.5ハロン)に登録された。前年手綱を取ったカステラーノに替わって、新たにジュリアン・ルパルーを鞍上に迎えて出走、2着馬に4馬身差をつける楽勝で年内初戦を飾った。続いて3月31日にフロリダ戦線の最重要競走であるフロリダダービー(G1・ガルフストリームパーク・ダート9ハロン)に登録されたユニオンラグズは、当日最終オッズで1.4倍という断然の人気を集めていたが、道中5番手で進んでいたユニオンラグズは最終コーナーから追い上げたものの、逃げていたテイクチャージインディとレベロンの2頭を捕らえることができずに3着に敗れている。 同年のケンタッキーダービー(G1・チャーチルダウンズ・ダート10ハロン)は5月5日の開催で、1番人気にはアーカンソーダービー勝ち馬のボーディマイスターが選ばれ、前走で敗れこそしたもののユニオンラグズは2番人気に据えられていた。レースが始まると人気のボーディマイスターが先頭に立ち、一方でユニオンラグズは最後方に控える競馬となった。コーナーから追い上げを図ったもののすでに遅く、勝ち馬アイルハヴアナザーから大きく離された7着に敗れている。 ダービーの敗戦後、ユニオンラグズ陣営は2冠目のプリークネスステークスを回避して、6月9日のベルモントステークス(G1・ベルモントパーク競馬場・ダート12ハロン)に狙いを絞り、新たな乗り役としてジョン・ヴェラスケスを迎え入れた。同年のベルモントステークスでは、プリークネスステークスも制したアイルハヴアナザーの三冠挑戦がかかっていたが、そのアイルハヴアナザーが前日に屈腱炎が見つかって出走を取消、それに押し上げられる形でダービー3着馬のデュラハンが1番人気に、ユニオンラグズが単勝オッズ3.75倍の2番人気になっていた。85,811人の観衆が見守るなか行われたこの競走で、ユニオンラグズはスタートから11頭立ての5番手とやや先団後方につけて道中を進め、コーナーから内側を回りつつ徐々に前へと持ち出し、最後の直線に向いて3番手に出る。そして逃げていたペインターと、同じく追い上げてきたアルガンの2頭に壁を作られるものの、ペインターと柵の間をすり抜けてゴール、クビ差で最後の1冠を手にした。 その後7月29日のハスケルインビテーショナルステークスに向けて調整を行っていたが、左前肢の提靱帯に損傷が見つかり、このため7月20日に引退が宣言された。総合成績は8戦5勝、獲得賞金は1,798,800ドルであった。
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3歳時(1866年)
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「ロードリヨン」の記事における「3歳時(1866年)」の解説
1866年から1867年の冬、ロードリヨンはダービーステークスの有力候補とされていたが、一部の識者は本馬のスタミナを疑っていた。他の有力候補の中には、かつての同厩馬であるラスティックがいた。 3歳初戦は2000ギニーステークスで、約1.57倍(4/7)で15頭中1番人気となった。負傷したカスタンスの代わりに騎乗したR・トーマスの手綱で、モナークオブグレンを破って勝利した。 25頭立てのダービーステークスでは再び1番人気となったが、不正な発走によりスタートが30分遅延した。ロードリヨンは先行集団の後ろでレースを進め、最後の直線で先頭に立ったリダンをかわした。ここで後にセイヴァーネイクと命名される無名馬にかわされたが、最後の1完歩ではこれを捉え、2着に入った無名馬にアタマ差、3着ラスティックに3馬身差をつけて勝利した。ロイヤルアスコット開催で出走したプリンスオブウェールズステークスでは129ポンドの斤量を背負い、125ポンドの斤量で出走したラスティックの2着となった。 9月のセントレジャーステークスではセイヴァーネイクをアタマ差で下して勝利した。このレースは長年見られた中で最もエキサイティングなレースの1つといわれた。当時はそのような言及はなされなかったが、現代基準において「三冠」とされるレースを全て勝利したこととなった。セントレジャーステークスの翌日、彼はドンカスターカップ(2.5マイル)においてラマの2着となった。10月にニューマーケット競馬場でセレクトステークスとグランドデュークマイケルステークスを勝利し、オールエイジドステークスでは2歳牡馬のフリポニアの2着となった。ニューマーケット競馬場では他にラスティックとのマッチレースも行われ、ロードリヨンが20馬身差で勝利して1000ポンドの賞金を得た。
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3歳時(2020年)
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「トルカータータッソ」の記事における「3歳時(2020年)」の解説
デビューは遅く、3歳になった2020年5月9日のミュールハイム競馬場でのスペルドルフ賞(未勝利戦・芝2000メートル)で初出走を迎えて4着、続く6月14日のケルン競馬場でのジョージアルヌルレネン(一般戦・芝2200メートル)で初勝利を挙げた。初勝利から間もなくの7月12日にハンブルク競馬場でのドイチェスダービー(G1・芝2400メートル)に登録される。ここでは単勝オッズ23.2倍(222/10)という穴馬扱いであったが、最後の直線で追い上げて勝ち馬インスウープに3/4馬身差の2着に入った。 9月13日にはバーデンバーデン競馬場でのバーデン大賞(G1・芝2400メートル)に出走、1番人気に支持されたが、イギリスからの遠征組バーニーロイとコミュニケの2頭に敗れ3着となった。その次に出走した10月3日ホッペガルテン競馬場でのベルリン大賞(G1・芝2400メートル)で、再び1番人気に支持されると、2番人気のディカプリオを短アタマ差の接戦で破って優勝、初のG1勝ちを収めた。 続く11月8日のミュンヘン競馬場でのバイエルン大賞(G1・芝2400メートル)でG1連勝を狙ったが、単勝23.7倍の伏兵サニークイーンにクビ差の2着と敗れた。
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3歳時(1898年)
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「プローディト」の記事における「3歳時(1898年)」の解説
3歳時の5月、プローディトはその年の初戦に第24回のケンタッキーダービーに出走、4頭立ての2番人気に支持された。スタートで先頭に立ったのは3番人気イザベイであったが、間もなく1番人気リーバーカールが先頭を奪った。プローディトはウィリー・シムズ騎乗のもと後ろで待機し、最後の直線に入ったところで追い込みをかけた。猛然とした追い込みによってゴール線の目前でリーバーカールを追い抜き、プローディトはハナ差で優勝を手にした。この時の2着と3着の着差は、20馬身差があったとされている。 その後、クラークステークスで再びリーバーカールを破り、オークツリーダービーにも勝って連勝、翌戦バックアイステークスでは対戦馬が出なくなり単走を経験した。 この頃、当時競走馬の所有・生産に興味を示し始めたウィリアム・コリンズ・ホイットニーが、プローディトを25,000ドルで購入したいという商談をマッデンに持ちかけた。マッデンもこれに応じ、翌戦のローレンスリアライゼーションステークスにはホイットニー所有のもと出走している。しかし、ここではかつての同僚ハンバーグに敗れて2着となり、さらにその次の競走でも2着になった上、その競走によってプローディトは故障してしまった。このため、マッデンはホイットニーに12,000ドルを支払い、プローディトを買い戻している。 この年は8戦をこなし、うち4戦で勝利、残り4戦は2着に入る優秀な成績を収めた。プローディトは3歳で引退し、マッデンがケンタッキー州レキシントンに開設した牧場・ハンバーグプレイスファームでの初期種牡馬の1頭となった。
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3歳時(1914年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:08 UTC 版)
ダーバーの1914年の春シーズンは非常に使い詰めのスケジュールで、フランス国内で6戦した。 まずは2000メートルの競走を2連勝し、ラグランジュ賞に挑んだ。ラグランジュ賞(Prix Lagrange)はサルダナパルが勝ち、ダーバーは2着に入った。次にダーバーはビエンナル賞(Prix Bienniale)を勝ち、ノアイユ賞(2400メートル)も勝った。次走は距離が短くなって1600メートルのプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)に出たものの、スタートで後手を踏んで着外に敗れた。 このあと、ダーバーはイギリスダービーを目指してエプソム競馬場へ向かった。ダービーには、史上最多の部類になる30頭が出走し、ダーバーの単勝馬券は21倍になった。出走馬がこれほど増えたのは、「ダメもと」で登録した馬の登録料の合計が巨額になったからで、それを狙って「ダメもと」で出走するものが多かったからだと、当時の新聞は伝えている。 前年(1913年)のダービーでは、女性参政権論者エミリー・デイヴィソンが競走中に乱入し、最終コーナーで国王所有のアンマー(Anmer)の頭絡を掴んで落馬させるという事件が起きたが、1914年のダービーも女性参政権論者のエイダ・ライス(Ada Rice)の妨害によってスタートが大幅に遅延した。この女性参政権論者は、ダービーの発走寸前に、走路を警備していた警官の足を銃撃した。空砲だったが、警官の制服が焦げ、警官は軽傷を負った。このために発走が20分以上も遅れた。2000ギニーの優勝馬でダービーでも本命になっていたケニーモア(Kennymore)は気性の荒い馬で、さんざん待たされたせいでイレ込んでしまい、他馬を蹴り始めた。 ダーバーの騎手は、フランスを本拠とするアメリカ人騎手のマット・マクギー(Matt MacGee)だった。マクギー騎手は、道中半ばでダーバーを先頭に立たせると、そのまま3馬身差で逃げ切った。2着と3着にも人気薄のハプスバーグ(Hapsburg、単勝34倍)とピーターザハーミット(Peter the Hermit、単勝101倍) が飛び込んで大波乱となり、競馬場の大観衆は声も出せずに固まったままだった。勝ったダーバーはフランス産馬でフランス調教馬だったが、馬主がアメリカ人だったので、アメリカではアメリカ馬が優勝したかのように沸き返った。 エプソムでの勝利の後、ダーバーはフランスへ帰国して2度出走したが、ダーバーは優れた馬であることは示したものの、フランスの最強クラスには劣るという印象を固めることになった。というのも、シャンティイ競馬場でのフランスダービーではサルダナパルの前に4着に敗れ、続くロンシャン競馬場でのパリ大賞典ではサルダナパルとラファリナの前に3着に沈んだのである。パリ大賞典当日(1914年6月28日)、貴賓席で観戦中のフランス大統領レイモン・ポアンカレのもとに、1通の電報が届き、それを見た大統領は執務室に戻ると、貴賓席には戻らなかった。その電報はボスニア・ヘルツェゴビナの外交官から送られてきたもので、この日、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫妻が暗殺されたこと(サラエボ事件)を急報してきたのである。まもなく第一次世界大戦が始まり、フランス国内の競馬は取りやめになった。ダーバーもこれが最後の出走になった。 ダーバーは、アフリカ系アメリカ人の馬丁に護られてパリからノルマンディーへ避難した。ダーバーは星条旗に身を包み、次のような但し書きが添えられていた。 「 英国ダービー優勝馬ダーバーである。本馬は中立である。(This is Durbar II, the English Derby winner. He is neutral) 」
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3歳時(2018年)
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「ユーエスネイビーフラッグ」の記事における「3歳時(2018年)」の解説
4月14日のアイリッシュ2000ギニートライアルステークスで始動したが最下位の4着。続くプール・デッセ・デ・プーランでも5着に終わる。中1週で挑んだアイリッシュ2000ギニーでは2着と逃げ粘ったが、セントジェームズパレスステークスでは8着と勝ち切れないレースが続いた。7月14日のジュライカップではゴール前で豪快に抜け出してG1レース3勝目を飾った。 夏以降はオーストラリア遠征を敢行。しかし、ジ・エベレスト9着、マニカトステークス14着、スプリントクラシック13着と全く振るわず、この遠征をもって現役を引退した。
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3歳時(1991年)
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3歳シーズンの初戦はレパーズタウン1000ギニートライアルステークス(L)から始動して勝利、その後ニューマーケット競馬場に送られて1000ギニーステークス(G1)に出走、レスター・ピゴット鞍上のもとシャダイードの2馬身差2着に食い込んだ。 その後クーヨンガはアイリッシュ1000ギニー(G1・カラ)に登録された。この競走では前走で手綱を握ったピゴットがヴィンセント・オブライエン厩舎のルアドーロを選択したため、クーヨンガは新たにウォーレン・オコナー騎手を迎えて出走、単勝オッズ5倍の支持のもと、2着馬ジュリーラルースに3馬身差をつけて優勝、初のG1勝ちを収めた。この競走後、クーヨンガは日本のオーナーブリーダーである芳賀満男に120万ドルで繁殖牝馬の候補として購入された。 次に出走したアスコット競馬場でのコロネーションステークス(G1)では英1000ギニー以来のクーヨンガとシャダイードの再戦が行われた。オコナーはクーヨンガを先頭を行くグッシーマーロウの後ろにつけて進み、最後の直線で先頭にクーヨンガを先頭に押し出した。シャダイードもそこに果敢に詰め寄っていったが、クーヨンガは3/4馬身先にゴールに飛び込み、前走の借りを返して優勝した。 9月に入って、クーヨンガはメイトロンステークス(G3)に出走、2着馬ブルーデイジーに1馬身差をつけて勝利した。その後出走したクイーンエリザベス2世ステークス(G1・アスコット)にはライバルのシャダイードのみならず、ヘクタープロテクター、セルカーク、セカンドセットなどの強力な面子が揃っていた。クーヨンガはシャダイードの広報2番手につけてレースを進め、直線に向いてシャダイードを追い抜いて先頭に立ったが、最後の1ハロンでセルカークに1馬身半差追い抜かれて2着に敗れた。 同年の最後にはアメリカ合衆国に遠征、ブリーダーズカップ・マイル(G1・チャーチルダウンズ)に出走したが、この競走では14頭中の13着と大敗している。
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3歳時(2001年)
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「コンガリー (競走馬)」の記事における「3歳時(2001年)」の解説
コンガリーの復帰戦は2001年の2月28日で、サンタアニタパーク競馬場で行われた8ハロンの未勝利戦において、2着馬を5馬身突き放す競馬で初勝利を手にした。バファートはこの勝利後にコンガリーの才能をポイントギヴン並であると言い放っている。 その後同競馬場での一般戦(3月17日・8.5ハロン)において8馬身差の圧勝を見せたのち、ケンタッキーダービーの前哨戦のひとつであるウッドメモリアルステークス(G2・アケダクト・9ハロン・4月14日)に登録された。この競走で1番人気に支持されていたのは、フロリダダービー(G1)優勝馬のモナーコスであった。このほかゴーサムステークス(G3)勝ち馬のリッチリーブレンディドなどを含む6頭が出走し、コンガリーは単勝オッズ2.7倍の2番人気に支持されていた。この競走でスタートから飛ばしたのはリッチリーブレンディドで、大外から先頭を奪い取ると、同じく外を回るコンガリーに2馬身差をつけて先を進み、一方でモナーコスは先頭から7馬身離れた後方に待機していた。バックストレッチからコーナーに差し掛かるあたりで、コンガリーの鞍上ヴィクター・エスピノーザはコンガリーを動かし、リッチリーブレンディドのすぐ後ろにつけていった。リッチリーブレンディドは再び距離を空けるもコンガリーに再び詰め寄られ、残り5/16マイルの標識地点でついにコンガリーが先手を奪い取ると、後方のモナーコスにも鞭が入れられた。残り1ハロンの標識地点でモナーコスはコンガリーに3馬身半差まで迫ったが、コンガリーはついに捕らえられないままゴールに到達、モナーコスに2馬身3/4差をつけて重賞初制覇を飾った。勝ちタイムは1分47秒96。モナーコスから7馬身離された3着にはリッチリーブレンディドが入線した。 しかし、クラシック本番のケンタッキーダービー(G1・5月5日・チャーチルダウンズ・10ハロン)では一度は先頭に立ったものの、モナーコスの追い上げに屈して4馬身3/4差の3着に敗れている。続くプリークネスステークス(G1・5月19日・ピムリコ・9.5ハロン)でもポイントギヴンの3着に敗れ、三冠最終戦のベルモントステークスには出走しなかった。 コンガリーが再び競馬場に現れたのは7月15日のハリウッドパーク競馬場で行われたスワップスステークス(G1・9ハロン)においてであった。この競走でコンガリーは序盤で先頭を奪うと、そのまま効率の良いコース取りで他馬を寄せ付けないまま、2着に4馬身差をつける逃げ切り勝ちを決め、G1初制覇を成し遂げた。しかし、その翌戦に挑んだジムダンディステークス(G1・8月4日・サラトガ・9ハロン)で3着に敗れ、さらにコンガリーが右前肢の膝に怪我をしていることが発覚、このため年内の休養が決定した。
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3歳時(1964年)
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この年は4月から始動して、初戦こそ4着と落としたが、3戦目のコロニアルハンデキャップ(グレーヴセンド・6ハロン)から5連勝するなど再び調子を取り戻した。この年は3歳戦のみならず古馬とも対決し、牝馬路線の古豪オールドハットなどを破りながら14戦10勝2着3回と大活躍、出走した競走もアーリントンクラシックステークス(アーリントンパーク・8ハロン)やベルデイムステークス(アケダクト・9ハロン)、マスケットハンデキャップ(アケダクト・8ハロン)など内容の濃いものであった。 これらの戦績から、トスマーは同年の最優秀3歳牝馬に選出され、また『Daily Racing Form』紙は同馬を最優秀ハンデキャップ牝馬にも選出している。
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3歳時(1975年)
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トウショウボーイとグリーングラスは4歳デビュー故に、3歳時のTTGの対戦は無い。なお、テンポイントはこの時点で阪神3歳ステークスを制しステークスウィナーの仲間入りを果たしている。
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3歳時 (1980年)
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デトロワのデビューは3歳5月末と遅かったが、サンクルーの2100mのメイドンレースを2着馬Kotkieに5馬身差をつけてデビュー勝ちを収めた。春のクラシックレースであるプール・デッセ・デ・プーリッシュやディアヌ賞には出走できなかったが、6月のサンクルーのG3フィユドレール賞(2100m)ではゴールドリヴァー(Gold River)に2馬身半差、7月のエヴリ競馬場のG3クロエ賞(1800m)ではLicaraに1馬身半差、8月末のドーヴィルのノネット賞(2000m)ではIndia Songに2馬身差と、2着馬に差を付けて中距離重賞を3連勝した。デトロワは、9月には凱旋門賞と同じロンシャンの2400mで行われるフランス牝馬クラシック最終戦のG1ヴェルメイユ賞に駒を進め、プール・デッセ・デ・プーリッシュ優勝馬Aryenne、ディアヌ賞優勝馬Mrs Penny、愛1000ギニー優勝馬Cairn Rouge、ゴールドリヴァーなどと対決した。ヴェルメイユ賞ではレースがスローペースで進むなか、馬群に閉じ込められたデトロワはMrs Pennyから半馬身差、2着のLittle Bonnyから3/4馬身差の3着に敗れ、タイムフォーム誌などはデトロワにはつきがなかったと評価した。前走で連勝は止まったものの、大目標とした10月の凱旋門賞に出走したデトロワは、エクリプスステークスとキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを連勝した1番人気エラマナムー(Ela-Mana-Mou)、2番人気のガネー賞優勝馬Le Marmot、3番人気で前年優勝馬のスリートロイカス(Three Troikas)に続いて、4番人気であった。凱旋門賞は、前走ヴェルメイユ賞とは打って変わって、数頭のペースメーカーに引っ張られてハイペースで進み、早い段階で外に持ち出されたデトロワはラスト200mで内のエラマナムーとスリートロイカスを抜き去り、後から来たアーギュメント(Argument)を半馬身抑えて2:28.0のレコードで優勝した。この成績が認められ、この年のタイムフォームレイティングでは、牝馬首位の131ポンドと評価された。
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3歳時(1955年)
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8月13日、札幌開催の条件戦でデビューし初戦勝利を挙げる。続く札幌ステークス2着、オープン戦勝利を経て、11月の優勝戦でハクチカラと初対戦。同馬は名門・ヤシマ牧場において、名牝系とされる星旗系から産まれ、好馬体を備え、当時の東京優駿(日本ダービー)1着賞金を上回る価格で取引され、当代一の尾形藤吉厩舎で管理されていた。この競走でキタノオーはハクチカラに敗れての3着となったが、その後2連勝し12月には関東の3歳王者戦・朝日盃3歳ステークスに臨んだ。当日は再び顔を合わせたハクチカラが圧倒的な1番人気に支持され、キタノオーは離れた2番人気であった。スタートが切られると、勝尾キタノオーは先頭に立ったハクチカラを見る形でレースを進め、最後の直線では同馬を追走して競り合い、4分の3馬身退けての優勝を果たした。当年、キタノオーは啓衆社選定の最優秀3歳牡馬となった。
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3歳時(1961年)
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「リユウフオーレル」の記事における「3歳時(1961年)」の解説
3歳時の1961年11月5日、厩舎のある京都競馬場の新馬戦でデビューし、逃げてゴール前でアタマ差だけ捕まって2着になった。2戦目の新馬戦(1000メートル)は重馬場になり勝ちあがった。 1勝クラス(50万条件)の三歳中距離特別(1600メートル)を1分39秒1で勝ち、阪神3歳ステークスに出走したが、チトセハーバーが勝ち、リュウフォーレルは5着だった。
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3歳時(1880年)
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「ロバートザデヴィル」の記事における「3歳時(1880年)」の解説
ロバートザデヴィルはオフシーズンの間もダービー有力候補として注目を集め続けたが、とりわけ競馬関係者のなかで広く人気を集め、シーズン前の3月6日の時点で、前売り単勝馬券の倍率は約7.66倍になったと報じられている。 ロバートザデヴィルの3歳緒戦は4月13日のニューマーケット競馬場でのバイエニアルステークス(Biennial Stakes、賞金575ソブリン)で、9頭中1番人気になった。騎手はトム・キャノン(Tom Cannon)である。しかし、ロバートザデヴィルは「非常に激しい争い」の末に、アポロ(Apollo)という馬にアタマ差で敗れた。アポロの負担斤量はロバートザデヴィルよりも4ポンド(約1.81kg)軽かった。この敗戦を受けて、ロバートザデヴィルのダービーの前売り馬券の人気が下がり、倍率は13.5倍にまで上がった。
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3歳時(1964年)
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「デリングドゥ」の記事における「3歳時(1964年)」の解説
デリングドゥは1964年(3歳時)には5回出走した。7月にグッドウッド競馬場のサセックスステークスでは、ローンロケット(Roan Rocket)に次ぐ2着になった。そのあとデリングドゥはニューベリー競馬場のハンガーフォードステークス(7ハロン≒1408メートル)に2対1(3倍)の人気で出て、この年の唯一の勝利を上げた。9月にはアスコット競馬場のクイーンエリザベス2世ステークスに出走し、アイルランドのリネカー(Linacre)に次ぐ2着になった。
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3歳時(1927年)
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「コールボーイ」の記事における「3歳時(1927年)」の解説
コールボーイは3歳になっても春のクラシック前哨戦に全く出なかった。2歳チャンピオンのザサトラップはリタイヤしてしまったし、デイモンやマネーメーカーといった2歳時の有力馬も信頼性に欠いていた。主要な前哨戦は次々と勝ち馬が変わり、3歳クラシック戦は混戦模様となった。 フランク・カーゾンは世代5番手の低評価に憤り、コールボーイが3歳になってからの調教をすべて一般公開した。公開調教で、コールボーイは半兄のコメディキングと併せ馬を行い、これに先着してみせた。コメディキングは前年のエクリプスステークスでダービー馬コロナックと争って2着に入った馬である。この調教をみた人々によって、この年1度も出走していないにも関わらず、コールボーイは2000ギニーでの人気を高めた。
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3歳時(1995年)
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「サカモトデュラブ」の記事における「3歳時(1995年)」の解説
1995年水沢競馬場でデビュー。圧倒的スピードで逃げ切るレーススタイルで3連勝、初めてのJRA挑戦となったダリア賞で2着、G3の新潟3歳ステークスで3着、福島3歳ステークスで5着の好成績を残したが、1600mの距離で戦った地元のレースではことごとく惨敗を喫する。
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3歳時(1970年)
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3歳の時は、春にジュドランジュ賞(Prix Jus d'Orange、2000メートル)、ラク賞(Prix du Lac、2400メートル)に勝ち、3100メートルのパリ大賞典に挑み大敗した。このあと、中距離に戻ってG2コートノルマン賞2着、続くラロシェト賞(Prix La Rochette、1850メートル)に勝った。
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3歳時(2017年)
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「エアウィンザー」の記事における「3歳時(2017年)」の解説
3歳となった2017年は初戦として500万円下の福寿草特別に出走し1番人気に推されるも、先に抜け出した出走馬9頭中8番人気の伏兵サトノリュウガに4分の3馬身差及ばず、2着に終わる。重賞初挑戦となった共同通信杯では、新馬戦で先着を許したムーヴザワールド、東京スポーツ杯2歳ステークスの2着馬スワーヴリチャードに次ぐ3番人気に支持された。陣営ではレースに先立ってシャドーロールを装着するなど、これまでの3戦で力を出し切れていないもどかしさの解消に努めた。しかしレースでは武豊曰くペースについていくのが精いっぱいで脚色も伸びず、スワーヴリチャードの6着に敗れた。レース後は戦列からしばらく遠ざかり、皐月賞、日本ダービーのクラシック戦線には姿を見せなかった。7月札幌競馬場の500万下北辰特別で戦列に復帰し、福永祐一騎乗で3着。以後、500万下、1000万下の両条件をそれぞれ2着、1着として準オープンクラスに上がり、2017年を終える。 3歳時に勝ち味が遅かったことについて陣営では、時々ゴール前で走る気をやめてしまうことを理由に挙げていた。
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3歳時(2013年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 16:18 UTC 版)
アンテロの3歳初戦には、イギリスのニューマーケット競馬場で行われる準重賞フィールデンステークスが選ばれた。これまで良馬場でのレース経験が無かったアンテロが、良馬場でどのような走りをするのか試してみたいと考えていた調教師のファーブルは、良馬場開催を求めて、あえてこの時期のイギリス遠征を計画したのである。このレースには、この年の2000ギニーで2着に入るグローリーアウェイツも出走していたが、アンテロはこれらを全く寄せ付けず優勝。このレース振りに満足したファーブルは、アンテロの目標をジョッケクルブ賞に定め、まずはプール・デッセ・デ・プーランに出走することになった。 プール・デッセ・デ・プーランでは17番枠という不利な枠を引いてしまい、後方からの競馬を余儀なくされる。さらに最後の直線でも進路を確保するのに時間を要し、ゴール前で猛然と追い上げたものの半馬身届かず3着に敗れた。 前走の負けてなお強しのレース振りから、続くジョッケクルブ賞では1番人気に支持された。今度は枠にも恵まれたアンテロは、3番手追走から直線で早めに抜け出し、2馬身差で優勝した。これを受けてブックメーカー各社は、アンテロの凱旋門賞の前売りオッズを即座に引き下げたが、レース翌日に陣営は、次の目標はマイルのG1ジャックルマロワ賞であることを発表し、凱旋門賞に関しては「決断を下すには早すぎる」と述べるにとどまっている。 前哨戦として出走したメシドール賞(G3)でも勝利し、満を持して迎えたジャック・ル・マロワ賞では、豪華メンバーの中1番人気に支持された。しかしトラックレコードを叩き出すムーンライトクラウドに迫ることができず、3着に敗れた。 その後、9月のプランス・ドランジュ賞(G3)を勝利し、10月の凱旋門賞ではトレヴの3着となった。このレースを最後に現役を引退し、2014年からはイギリスのチェヴァリーパークスタッドで種牡馬入りすることとなった。 イギリスのレーシングポスト(電子版)によると、2014年から2年間はイギリスで、2016年から2年間はフランスで供用されるという。
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3歳時(2011/2012年)
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「バラエティクラブ」の記事における「3歳時(2011/2012年)」の解説
3歳になると、バラエティクラブはケープギニー(Cape Guineas)に勝ち、そのあと馬齢戦のクイーンズプレート(Queen's Plate)で2着になった。これに続き、1月28日の喜望峰ダービー(Cape Derby、2000メートル)に出て、優勝馬ジャクソン(Jackson)に次ぐ2着になった。4月になって、バラエティクラブはケニルワース競馬場のウィンターギニー(Winter Guineas、1600メートル)に登場、1対5(1.2倍)の人気になり、2馬身1/4差をつけて優勝した。 6月にはクレアウッド競馬場で行われる馬齢戦のライジングサンゴールドチャレンジ(Rising Sun Gold Challenge)に出ると、11年ぶりの3歳馬による優勝を遂げた。 しかしこの競走で、バラエティクラブは運動誘発性肺出血を発症した。ラムスデン調教師は、これは競馬場の馬房の埃が原因だと考えている。 このほか、バラエティクラブは3歳時にセランゴールカップ(Selangor Cup)、KRAギニー(KRA Guineas)、マッチェムステークス(Matchem Stakes)にも勝った。
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3歳時(2014年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 14:05 UTC 版)
3歳初戦を8着に敗れると、続く重賞も2連敗し、G1初挑戦となったデルマーオークスでは勝ち馬から10馬身半差の8着に敗れ、この年を4戦未勝利で終えた。
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3歳時(1976年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 01:01 UTC 版)
「ボールドフォーブス」の記事における「3歳時(1976年)」の解説
サンミゲルS2着、G3サンヴィセンテS3着と敗れた後、G2サンハシントS、G3ベイショアS、G1ウッドメモリアルSと3連勝でG1ケンタッキーダービーに挑み、9連勝中(うちG1競走6連勝)で1番人気のオネストプレジャーを振り切って逃げ切り勝ち。二冠目のG1プリークネスSも逃げたが、追走するオネストプレジャー(5着)と共倒れの形となり、エロキューショニストの3着に敗れる。三冠レース最終戦のG1ベルモントSにオネストプレジャーは出走せず、大逃げから首差で際どく逃げ切った。 このあと、一般戦1着、G2ヴォスバーグハンデキャップ2位入線3位降着と言う成績で、3歳時は10戦6勝。エクリプス賞最優秀3歳牡馬に選出された。
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3歳時(1981年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:25 UTC 版)
1981年、陣営は2000ギニーには出走せず目標をダービーステークス一本に絞った。4月のクラシックトライアルで10馬身、5月のチェスターヴァーズで12馬身差の着差をつけて優勝し、単勝オッズ1番人気(1.9倍)で6月3日のダービーステークスに出走した。シャーガーは好位からレースを進め直線入り口で先頭に立つと、そのまま優勝。2着馬につけた着差は、公式の記録に残されるようになって以来ダービーステークス史上最大となる10馬身であった。騎乗していたウォルター・スウィンバーンはレース後「あんな大差が付いてるとはちっとも気づかなかったよ。」というコメントを残している。6月27日にはアイリッシュダービーを勝ち、イギリス・アイルランド両国のダービーを勝った史上7頭目の競走馬となった。翌7月25日にはキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを優勝した。 キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス優勝後、陣営はセントレジャーステークス出走を表明した。この当時ダービーステークス優勝馬がセントレジャーに出走することはめずらしくなっており、この発表は競馬関係者を驚かせた。陣営は凱旋門賞のステップレースとしてセントレジャーステークスを選んだのだと説明した。シャーガーは単勝1.4倍の1番人気に支持されたがレース終盤に伸びを欠き、4着に敗れた。レース後陣営は凱旋門賞出走を取り消しシャーガーを引退させると発表した。シャーガーはこの年のイギリス年度代表馬に選出された。
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3歳時(1899年)
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「ホロコースト (競走馬)」の記事における「3歳時(1899年)」の解説
年が明けると、4月に春緒戦のラグランジュ賞(2000m)で、ホロコーストはミー(Mie)という穴馬に不覚を取って2着に敗れてしまった。しかしその後は危なげなく、ビエンナル賞、ラロシェト賞を連勝し、リュパン賞では2着のヴェラスケス(Velasquez)に6馬身も差をつけて楽勝した。 対するパースは、オカール賞(2500m)、ダリュー賞(2100m)、プール・デッセ・デ・プーラン(1600m)と連勝し、ともに3連勝で両者はフランスダービーで対決することになった。 前年チャンピオンのホロコーストは1.5倍の大本命で、挑戦者パースは4.5倍の2番人気だった。ホロコーストは、なぜかスタートで少し不自然に立ち遅れた。エデュアール騎手は、序盤の遅れを挽回しようとして無理に馬群に突っ込んでいった挙句、取り囲まれて行き場を無くしてしまった。その間にパースが抜け出し、ホロコーストがやっと馬群から抜けだした頃には既に大きな差が開いてしまっていた。結局、フランスダービーはパースが勝ち、半馬身差の2着にヴェラスケスが入った。ホロコーストはそこからさらに6馬身離れた3着に終わった。リュパン賞でホロコーストがヴェラスケスに6馬身差で勝ったことを思えば、まともに走りさえすればホロコーストがパースに何馬身も差をつけて勝っていたはずだと考えられ、ホロコーストのエデュアール騎手はたいへんな批難を受けた。 陣営はホロコーストの名誉を取り戻すため、3日後のイギリスダービーへの出走を決めた。エプソム競馬場のダービーで必勝を期すため、当時の世界的な名騎手トッド・スローンに騎乗を依頼した。 イギリスダービーでライバルになりそうなのが、ウエストミンスター公爵のフライングフォックスだった。フライングフォックスは3歳になって本格化し、2000ギニーを勝ってきた。地元のフライングフォックスは3.5倍の本命だったが、フランスからやって来たホロコーストも単勝6倍の対抗馬に支持された。 ダービーの前夜、ホロコーストの脚に腫れがあることがわかったが、治療を行なって出走した。レースはスタートの失敗で何度もやり直しになり、レースが成立するのは1時間ほども遅れた。このスタートの時点で既にホロコーストが明らかに跛行していたと伝える報道もある。 レース序盤から、この年三冠馬となるフライングフォックスと競り合って2頭の一騎討ちになった。勝負どころで、ホロコーストのスローン騎手は、ホロコーストはまだ本気で走っておらず、フライングフォックスに勝てると確信していた。しかし、ホロコーストは突然転倒し、フライングフォックスはそのままキャンターでゴールへ向かい優勝した。ホロコーストは前脚の繋を骨折しており、予後不良となった。解剖によって、ホロコーストはフランスダービーのスタートで出遅れた時に既に骨に亀裂が入っていたのだろうと結論づけられた。しかし、ダービー直前の調教では、そのような様子もみせずに6ハロンの調教をこなしていた、とする報道もある。また、トッド・スローン騎手の「モンキー乗り」と呼ばれる騎乗スタイルが、ホロコーストの前脚に余計な負担をかけて骨折に至ったのだとして、スローン騎手の騎乗スタイルを批判する者もあった。 ダービー当日の朝、ホロコーストの馬主のブルモンは、ホロコーストを1万ギニー(約11,000ポンド)で売って欲しいという話を断っていた。ダービーの賞金はその約半額の6000ソブリン(=6000ポンド)である。ダービーのあと、ホロコーストの遺骸は解体され、肉(犬や猫の餌として)、骨、皮が売却され、ブルモンはその合計額2ポンド17シリングを受け取った。
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3歳時(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 16:37 UTC 版)
「ヘニーヒューズ」の記事における「3歳時(2006年)」の解説
1月中旬にドバイに移動し、シェイク・ラシッドの所有馬を管理するアレック・レアード調教師のもとで調教を再開する。春の目標をUAEダービーに設定し、距離不安からケンタッキーダービーへの参戦は考慮されていなかった。ただ、輸送などに時間を要したことから、この時点でレースへの復帰の目処は立てられない状況であった。結局、調整が間に合わず、春は全休することとなった。 その後マクラフリン厩舎に戻り、2006年初戦は7月1日のジャージーショアーブリーダーズカップステークス(米G3)で短距離路線を選択。このレースを10馬身差の大差勝ちを収める。デビュー戦にも騎乗したジョー・ブラーヴォ騎手は当時と比較して「体に身が入って大人になった」と成長の跡を指摘している。続くキングスビショップステークスを5・1/4馬身差で勝利し、G1初制覇を飾る。この勝利に対し、鞍上のジョン・ヴェラスケス騎手は「私はただ乗っていただけだ」と、楽勝ぶりを語っている。古馬との初対決となったヴォスバーグステークスも、2・3/4馬身差をつけて当時のレースレコードで快勝し、G1を連勝した。 G1連勝で臨んだ大一番のブリーダーズカップ・スプリントでは、スタートでつまづき、馬群に包まれて先手を取れず、そのまま見せ場なく最下位に敗れ、生涯で唯一連対を外してしまう。この敗戦に対し、マクラフリン調教師は騎乗したヴェラスケス騎手の話として、「チャーチルダウンズ競馬場に適応できなかった」と敗因を述べている。レース後、「この世代で最高の競走馬であることはすでに明らかであり、繁殖としても魅力的である」として、3歳での引退と種牡馬入りが決まった。結局ブリーダーズカップ・スプリントの敗戦が仇となり、エクリプス賞最優秀短距離馬の受賞はならなかった。
※この「3歳時(2006年)」の解説は、「ヘニーヒューズ」の解説の一部です。
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3歳時(2015年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:17 UTC 版)
3歳初戦は英1000ギニー(G1)を予定していたが、怪我のため出走を取り消してアサシステークス(G3)に出走したが、2着に敗れた。次走の愛1000ギニー(G1)も2着に敗れたファウンドは、英オークス(G1)及び英ダービー(G1)を回避してコロネーションステークス(G1)に出走したが、再び2着となった。 次走のロイヤルウィップステークス(G3)を勝利し、ファウンドはアイリッシュチャンピオンステークス(G1)に挑んだが、ゴールデンホーンに1馬身差及ばず2着に敗れた。続く凱旋門賞(G1)では勝ち馬ゴールデンホーンに更に突き放されて9着となった。 凱旋門賞後、チャンピオンステークス(G1)でファシネイティングロック(Fascinating Rock)の2着となったファウンドは、ブリーダーズカップ・ターフ(G1)に出走した。レースでは先行集団を見る形で追走し、最終コーナーで仕掛けると、直線ではゴールデンホーンを差し切ってG1競走2勝目となった。レース後、鞍上のR.ムーア騎手は「彼女はとても良い牝馬だ。勝つに相応しい馬だし、今日は勝ててうれしい」と述べた。
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3歳時(2017年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:51 UTC 版)
「ウィンター (競走馬)」の記事における「3歳時(2017年)」の解説
3歳初戦は1000ギニートライアルステークス(G3)であったが、2着に敗れた。しかし、G1初挑戦となった1000ギニー(G1)では、一度先頭に立つと、1番人気のロードデンドロン(Rhododendron)の追撃を振り切って勝利した。更に、ライアン・ムーア騎手に乗り替わって挑んだアイリッシュ1000ギニー(G1)ではローリーポーリー(Roly Poly)に4馬身3/4差をつけて圧勝し、続くコロネーションステークス(G1)でもローリーポーリーに2馬身1/4差をつけて勝利した。次走は古馬初挑戦となるナッソーステークス(G1)に出走し、直線で前の馬を交わすとそのまま突き放して完勝した。古馬相手にも勝利したウィンターはメイトロンステークス(G1)に出走し、直線では一旦先頭に立つも、同厩の3歳馬ハイドレンジア(Hydrangea)に頭差交わされて2着に敗れた。その後、凱旋門賞に出走するも9着に終わり、現役を引退し繁殖入りした。
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3歳時(2012年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/29 14:10 UTC 版)
「ハンセン (競走馬)」の記事における「3歳時(2012年)」の解説
2012年の初戦は1月29日のガルフストリームパーク競馬場で行われたホーリーブルステークス(G3・ダート8ハロン)で、スタートでつまづきながらも先頭に立っていたものの、不良馬場に脚をとられて失速、2番手につけていたアルゴリズムという馬に5馬身遅れて2着でゴール、初めての敗北を喫した。 続く3月3日のアケダクト競馬場におけるゴーサムステークス(G3・内馬場ダート8.5ハロン)では、ハンセンはそれまで着けていたブリンカーを外して競走に臨んでいる。スタートから先行集団につけて進んだハンセンは、バックストレッチからコーナーに入ったところでドミンゲスが指示を出すとすぐさま先頭に立ち、直線でも勢い衰えぬままゴールして、2着馬マイアドニスに3馬身差をつけて勝利した。 ハンセン陣営はハンセンのフィギュアを配るなどたびたび過度にプロモーションを行っており、その中でもひと際物議をかもしたのが4月14日のブルーグラスステークス(G1・オールウェザー8.5ハロン)出走時に尻尾を青く染めたことであった。この行為は開催地であるキーンランド競馬場の裁決委員から咎められ、発走前に染料を落とすように指示された。この処分には馬主のケンダールはひどく失望したと語っている。レースにおいてはいつも通り先頭を保持していたものの、最後の直線でケント・デザーモの乗るデュラハンという馬に追い抜かれて1馬身1/4差の2着に敗れた。 5月5日のチャーチルダウンズ競馬場で迎えたケンタッキーダービー(G1・ダート10ハロン)では先頭に立つボーディマイスターのやや後ろ3番手につける競馬で進めていたが、直線で失速して9着と大敗した。ケンタッキーダービー後はクラシック路線から離れ、6月30日にプライリーメドウズ競馬場のアイオワダービー(G3・ダート8.5ハロン)に出走、これを10馬身差をつけて圧勝した。 8月4日にマウンテニア競馬場で行われるウェストヴァージニアダービー(G2・ダート9ハロン)に際して、馬主のケンダールは主催者に再びハンセンの尻尾を染めたいと願い出ており、競馬場側もこれを承諾している。レースでは先頭に立って進めるものの、3コーナーで後続集団に捕まり、勝ち馬マッチョマッチョから2馬身以上離された4着に敗れた。 その後8月25日のトラヴァーズステークスに向けて準備されていたが、22日に屈腱炎が発覚、引退か続行かで揺れ動いたが、結局9月17日に引退が報じられた。
※この「3歳時(2012年)」の解説は、「ハンセン (競走馬)」の解説の一部です。
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3歳時(2000年)
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「ディキシーユニオン」の記事における「3歳時(2000年)」の解説
ブリーダーズカップの後に膝に骨片ができていることが発覚し、除去手術のために3歳シーズンの始動は遅れ、2000年5月7日の一般競走(ハリウッドパーク・ダート6.5ハロン)が年内初戦となった。この競走でスウェプトオーヴァーボードを1馬身半差で破って初戦を飾ると、続くラザロバレラメモリアルステークス(L・ハリウッドパーク・ダート7ハロン)でコーラーワンに2馬身差の2着、アファームドハンデキャップ(G3・ハリウッドパーク・ダート8.5ハロン)ではティズナウのクビ差2着と惜しい競馬が続いた。 ディキシーユニオンは8月6日のモンマスパーク競馬場で行われたハスケルインビテーショナルハンデキャップ(G1・ダート9ハロン)で久々にG1競走に登録された。この競走ではおもにスワップスステークスを制してきたキャプテンスティーヴなどが人気を集めており、ディキシーユニオンも単勝オッズ5.7倍とそこそこの人気となっていた。9頭立てのなか、ディキシーユニオンは中団6番手につけてレースを進め、コーナーから前方へと進出、最後の直線で4番手まで順位を上げると、そこから前をゆくモアザンレディ・ディスタイラントハズクラス・キャプテンスティーヴの3頭を内側から抜き去り、2着キャプテンスティーヴに3/4馬身差をつけて初のG1勝利を手にした。 8月26日のトラヴァーズステークス(G1・サラトガ競馬場・ダート10ハロン)ではディキシーユニオンが1番人気を背負って出走したが、この競走中にディキシーユニオンの左前肢の蹄鉄がどこかに落ちてしまい、その影響もあってか勝ち馬アンシェイデッドから9馬身近く離された4着に敗れた。また、落鉄したまま走ったことで裂蹄を発症、再び休養を要するようになった。 復帰戦となったのは12月26日のサンタアニタパーク競馬場で行われた年内最後の3歳G1競走であるマリブステークス(G1・ダート7ハロン)であった。ここでは久々にコーラーワンとの対決となり、1番人気こそコーラーワンに譲ったものの、ディキシーユニオンは先行するコーラーワンのやや後方3番手につけて機を窺い、第3コーナーから捲り上げると、最後の直線でコーラーワンを捉えて1馬身差で差し切り勝ちをきめた。しかし、この競走後に腱に異常を生じたため、ついに引退が決まった。
※この「3歳時(2000年)」の解説は、「ディキシーユニオン」の解説の一部です。
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3歳時(1879年)
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「スペンドスリフト」の記事における「3歳時(1879年)」の解説
スペンドスリフトの転厩初戦は、当時の3歳戦の主要競走であったウィザーズステークス(ジェロームパーク・8ハロン)であった。ここではジョージ・ロリラード所有の強豪ハロルドや、同厩舎のダンスパーリングなどが登録されていた。スペンドスリフトはハロルドこそ破ったが、ダンスパーリングに敗れて2着、初めての敗北を喫した。しかし、それから5日後のベルモントステークス(ジェロームパーク・12ハロン)では再びハロルドを破って優勝している。続くロリラードステークス(ジェロームパーク・11ハロン)ではスタート時に他馬に蹴られるアクシデントが起きるが、それでもハロルドを1馬身差で破って勝利した。さらに続くジャージーダービー(モンマス・12ハロン)でも優勝するなど絶好調であった。 夏、トラヴァーズステークス(サラトガ・14ハロン)ではハロルドやダンスパーリング、さらにケンタッキーダービー2着馬のファルセットと対戦した。スペンドスリフトはこの頃脚の調子を悪くしており、それもあってかここはファルセットに2馬身差をつけられて2着に敗れた。続くケナーステークス(サラトガ・16ハロン)でもファルセットに2馬身差で敗れている。 その後、スペンドスリフトはチャンピオンステークス(モンマス・12ハロン)で古馬ブランブルらと対戦し、これに勝利した。このあとジェロームパークでの1戦で敗れたのち、脚の具合がさらに悪化したためシーズン途中で同年の競走を終えた。
※この「3歳時(1879年)」の解説は、「スペンドスリフト」の解説の一部です。
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3歳時(2011年)
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「フランケル (競走馬)」の記事における「3歳時(2011年)」の解説
2000ギニーに前哨戦なしで挑むのを好まないセシル師の意向により、フランケルのシーズン初戦にはグリーナムステークスが選ばれ、のちに5回にわたって対戦するエクセレブレーションに4馬身差をつけて優勝した。
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3歳時(1954年)
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「ヘイスティロード」の記事における「3歳時(1954年)」の解説
3歳になったヘイスティロードの始動はフロリダ州のハイアリアパーク競馬場からで、2月14日のセントバレンタインパース(7ハロン)でクビ差2着であった。2週間後のフラミンゴステークスではターントゥ相手に5着と敗れている。ほか、軽微な怪我が続いてその調整は思うようにいかなかったという。 ヘイスティロードは4月16日のキーンランド競馬場で行われた一般戦で復帰した(5着)。それから9日後のチャーチルダウンズ競馬場で行われたダービートライアルステークス(8ハロン)でカリフォルニアの雄であるディターミンと初の対戦となった。この競走でヘイスティロードは初めてブリンカーを着用すると、久々によい動きを取り戻し、ディターミンをアタマ差抑えて優勝、1分35秒00のトラックレコードも記録した。この競走は前2年のケンタッキーダービー勝ち馬ヒルゲイルとダークスターも勝っていた出世レースで、これによりヘイスティロードは1番人気の座を確たるものとした。 4日後のケンタッキーダービー(チャーチルダウンズ・10ハロン)当日、ヘイスティロードは単勝オッズ6倍の4番人気で迎えられた。スタートからヘイスティロードは先頭に立ついつものスタイルを貫いたが、そこにディターミンが果敢に挑んでいった。残り半ハロンというところでディターミンがヘイスティロードをかわし、最終的に1馬身半差でヘイスティロードは2着に敗れた。アダムスは後に、直線に入った時に観衆の騒ぎにヘイスティロードの気が散ってしまったのが敗因だと語っている。 ヘイスティロードはダービーの後、5月18日のピムリコ競馬場で行われたプリークネスプレップという前哨戦に出走、ここでも先頭に立って逃げる戦法で挑んだが、最後の直線でコーリレイションにアタマ差捕らえられて敗れている。6日後のプリークネスステークス(ピムリコ・9.5ハロン)は29,604人の観衆の中行われ、そこで1番人気になったのはコーリレイションで、ヘイスティロードは2番人気5.5倍であった。レースが始まると、ヘイスティロードはスタイルを崩さず先頭を奪って逃げに徹し、一方でコーリレイションは最後の直線で猛然と迫った。勝利が確定するまで15分もの間審議が行われていたが、最後にはヘイスティロードのクビ差での勝利が確定した。39歳にして初めてクラシックを制したアダムスは、のちにこの競走で鞭を一度しか振るわなかったと明かし、また「ブルドッグにしがみついているみたいだった」とも語った。 このあとヘイスティロードはベルモントステークスに向かう予定であったが、馬主のルーベンの意向により出走を取り消して地元シカゴへと戻った。6月26日にウォーレンライトメモリアルステークス(アーリントンパーク・7ハロン)で1馬身差の優勝を手にしたが、続く7月のアーリントンクラシックステークスは出遅れが響いて5着に敗れている。翌月のアメリカンダービーでも前走で敗れたエラードキング相手に3着と敗れ、また10月のベンジャミンフランクリンハンデキャップでも3着、11月のピムリコスペシャルでは着外に終わっている。
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3歳時(2013年)
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「オーブ (競走馬)」の記事における「3歳時(2013年)」の解説
オーブは2013年1月26日のガルフストリームパーク競馬場での一般戦(ダート9ハロン)で年明け初戦を迎え、これを勝利した。続いて2月23日のファウンテンオブユースステークス(G2・ガルフストリームパーク・ダート8.5ハロン)で初のグレード競走を経験、ここではキャッシュコールフューチュリティ勝ち馬のヴァイオレンスが断然の単勝人気1.6倍であったが、オーブは同馬を最後の直線で半馬身差で捉えて優勝、番狂わせを演じた。 3月30日のフロリダダービーはケンタッキーダービーへ向けての重要なプレップレースであり、オーブにとってはG1競走初挑戦でもあった。当日の1番人気はホーリーブルステークスを勝ってきたイッツマイラッキーデイで、ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル勝ち馬シャンハイボビーが2番人気、オーブは単勝3.9倍の3番人気に支持されていた。スタートするとオーブは中団につけて進み、最終コーナーを回ったところで先頭に立っていたイッツマイラッキーデイに3馬身差まで迫ると猛然と追い上げ、残り1/16マイルの標識でオーブが交わしてそのままイッツマイラッキーデイを突き放し、2着に2馬身3/4差をつけて優勝、G1初制覇を手にした。 5月4日、この年のケンタッキーダービー(G1・チャーチルダウンズ・ダート10ハロン)は不良馬場のなか行われ、2013年時点で史上9番目動員数となる151,616人の観客が詰めかけていた。オーブは単勝オッズ6.4倍の1番人気に支持されていた。発走のベルが鳴るとまずは先手を奪ったブルーグラスステークス(G1)2着馬のパレスマリスが単独で先頭に立ち、次いでサンタアニタダービー(G1)勝ち馬のゴールデンセンツがそれを2番手で追いかけ、そこにフォーリングスカイ(Falling Sky)・ヴァイジャック(Vyjack)・ヴェラザノ・オクスボウらがそれに追走していった。一方でオーブは後方集団に入り、ゴールデンソウル(Golden Soul)という馬と隣りに並んで外側に立ち、前から16番手につけて前半を進んでいった。パレスマリスはホームストレッチに入る手前でノルマンディーインヴェーション(Normandy Invasion)に先頭を奪われたが、コーナーを大外まくりで飛んできたオーブがすでに6番手まで順位を上げており、そのままの勢いで先頭集団を残り200ヤードの標識で抜き去った。そして同じく後方から追いかけてきたゴールデンソウルに2馬身半差、2:02.89のタイムでゴール、ケンタッキーダービー優勝の栄誉を手にした。鞍上を務めたジョエル・ロサリオ騎手はケンタッキーダービー初勝利、調教師のマゴーヒーも7回目の挑戦にして初の戴冠となった。 しかし、この勝利以降はオーブから勝ち星が遠のいていった。5月18日の2冠目プリークネスステークス(G1・ピムリコ・ダート9.5ハロン)では後方から差を詰めるも伸びあぐねてオクスボウの4着、6月8日の3冠目ベルモントステークス(G1・ベルモントパーク・ダート12ハロン)はパレスマリスの3着に終わった。 休養を挟み、8月のトラヴァーズステークスは3着、9月のジョッキークラブゴールドカップステークスは8着に敗れた。2013年11月5日に引退が発表され、クレイボーンファームへ移動し種牡馬になった。
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3歳時(旧4歳・2000年)
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「レジェンドハンター」の記事における「3歳時(旧4歳・2000年)」の解説
この年、春は中央の芝クラシックを目指す。ただ当時地方所属馬が中央のクラシック競走に出走するには、地元のステップレースを勝ってトライアルに出走しそこで出走権を獲得する必要があった。本馬の場合皐月賞トライアルに出るには地元のステップレース・1月23日のゴールドジュニアに勝たねばならなかったが、球節の捻挫でここを使えず皐月賞出走が不可能となる。その後は東京優駿(日本ダービー)を目指し3月の名古屋のスプリングカップに出走、2着に8馬身差の圧勝で重賞3勝目を挙げてダービートライアルへの出走権を得たが、故障により春の中央クラシックへの挑戦は叶わなかった。半年間の休養を経て出走した東海クラウンでも7馬身差の圧勝を見せ、再びの中央参戦が決まり、スワンステークスに出走することとなった。ここでも1番人気に支持されたが、レースは3着以内が6番人気以下の3頭で決まる波乱となり、レジェンドハンターは16着と大敗、初めて連対を外すことになった。その後全日本サラブレッドカップにも1番人気で挑んだが、ここでも8着と惨敗。この年はこれ以上出走しなかった。
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3歳時(2013年)
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「ラキシス (競走馬)」の記事における「3歳時(2013年)」の解説
3歳になったラキシスは、2月のすみれステークス(オープン)、4月のフローラステークス(G2)と格上挑戦を続けたが、いずれも着外に敗れた。この時期には食欲が悪く、体重が減るために十分な調教ができなかった。 ラキシスは夏場は出走せず、9月に自己条件(1勝クラス)の甲武特別(500万条件・芝2000m)に出走した。ラキシスにとっては初めての古馬との対戦だったが、中団からスムーズに抜け出すと、後続を2馬身半離して勝った。最後の直線では内にもたれて真っ直ぐ走らない面も見せたが、ゴール前では川田騎手が手綱を抑える余裕があった。 次走は3歳牝馬三冠戦の最終戦である秋華賞と同日の鳴滝特別(1000万条件・芝2200m)になった。鳴滝特別は秋華賞の2つ前のレースで、ラキシスは1.8倍の本命になった。スローペースになって向こう正面では落ち着かない素振りもみせたが、直線へ向くと一番外から余裕をもって抜け出し、ゴール前は余裕を残しての勝利だった。秋2戦は、春に懸念されていた食欲と馬体減の問題が解消し、十分な調教を行っても体重が増えていることが、成果につながったとの評価がなされている。 ラキシスは2連勝で11月のエリザベス女王杯に出走した。春にフローラステークスで大敗した相手であるデニムアンドルビーがオークス3着、秋華賞4着の実績だったのに対し、ラキシスはG1初挑戦だったが、「鳴滝特別の勝ち方を見ると秋華賞に出ても勝っていたのではないか」と評するむきもあり、6番人気になった。父ディープインパクトと母の父ストームキャットという配合の組み合わせは、同世代の日本ダービー馬キズナや桜花賞馬アユサンと同じということも、人気を後押しした。 スタートすると、ラキシスは外枠から先行し、人気馬は中団から後方へ控える展開になった。なかでも本命のヴィルシーナと2番人気のメイショウマンボは中団にいた。3コーナーから最終コーナーでメイショウマンボが外から追い上げ、ラキシスは2番手で直線に入った。メイショウマンボはゴールまで残り200メートルになったあたりから抜け出し、2着争いは接戦になったが、後方から追い込んだアロマティコを抑えてラキシスが2着に粘りきった。優勝馬メイショウマンボとの着差は1馬身1/4(0.2秒差)で、ラキシスはメイショウマンボより3ポイント低い110ポイントのレートを得た。
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3歳時(2013年)
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「ビホルダー (競走馬)」の記事における「3歳時(2013年)」の解説
年明け2戦目からGIを2連勝して迎えたケンタッキーオークスでは、伏兵プリンセスオブシルマーにゴール前で差し切られ、半馬身差の2着となる。 前哨戦のゼニヤッタステークス1着を経て挑んだブリーダーズカップ・ディスタフでは同期のプリンセスオブシルマー、前年の覇者ロイヤルデルタとの三強対決を制して優勝し、プリンセスオブシルマーに並ぶ同年のGI4勝目を挙げた。エクリプス賞最優秀3歳牝馬の選考では207票を獲得して42票のプリンセスオブシルマーに大差をつけて1位となり、2年連続のエクリプス賞受賞を果たした。
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3歳時(1973年)
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「アレフランス」の記事における「3歳時(1973年)」の解説
1973年4月29日、アレフランスは前哨戦を走ることなくフランス牝馬三冠の第1戦プール・デッセ・デ・プーリッシュに出走。最後方から追い込みを決めて優勝した。 プール・デッセ・デ・プーリッシュ優勝後に馬主のヴィルデンシュタインがダービーステークスに出走させてみようかと発言したところたちまちイギリスのブックメーカーが賭けの対象とし、前売りの1番人気となった。このことがきっかけとなり、牡馬との能力差を計るために5月13日のリュパン賞に出走したが結果は7着に終わった。ヴィルデンシュタインはそれでもダービーステークス出走を諦めず、アレフランスをイギリスへ移送しようとしたが馬運車の中で暴れて(それまで移送中に同行させていた羊を同行させなかったことが原因といわれている)脚を痛め、遠征は中止となった。6月10日にフランス牝馬三冠第2戦のディアヌ賞に出走し、2着のダリアに2馬身半の着差をつけて優勝、フランス牝馬二冠を達成した。 ディアヌ賞出走後は休養を取り、9月2日にG3ノネット賞に出走し4着に敗れた後、同月23日にヴェルメイユ賞に出走。2着馬に2馬身の着差をつけて優勝し、フランス牝馬三冠を達成した。続いて10月7日に凱旋門賞に出走。1番人気に支持されたアレフランスは直線で追い込んだがラインゴールドに2馬身半差及ばず2着に敗れた。この後アレフランスは直線2000mのコースでスピードを発揮させてみたいというヴィルデンシュタインの希望からイギリスのG1チャンピオンステークスに遠征したがここでも2着に敗れた。この年のフランス3歳フリーハンデでは牡馬を抑えて最も高い評価(63.5キロ)が与えられた。
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3歳時 (2021年)
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「サトノレイナス」の記事における「3歳時 (2021年)」の解説
トライアル競走を使わずに阪神JFから桜花賞へ直行するルートを選択。牝馬クラシック初戦となった桜花賞では、同じくぶっつけ本番を選択したソダシとの再対決が注目された。その他にもチューリップ賞を制したメイケイエール、クイーンカップを制したアカイトリノムスメなど18頭が出走、その中でサトノレイナスはソダシと人気を分けあい、最終的に3.3倍の1番人気に支持された。レースでは後方16番手に控え、直線ではメンバー最速となる上がり32.9秒の末脚を繰り出すも先に抜け出したソダシにクビ差及ばず2戦連続してソダシの2着に終わり、リベンジとはならなかった。 日本ダービー挑戦 馬主であるサトミホースカンパニーの代表・里見治は当初、オークスへの出走でもかまわないと考えていたという。しかし、調教師の国枝は早い時期から本馬の能力を高く見積もっており、2歳時にクラシック三冠(皐月賞・日本ダービー・菊花賞)の出走登録を済ませてあった。里見は過去にサトノダイヤモンドで日本ダービーでハナ差の2着(勝ち馬はマカヒキ)と悔しい思いをしており、いわばリベンジを果たしてほしいという気持ちから挑戦を決め、4月21日、牝馬としては2014年のレッドリヴェール以来となる出走が陣営より発表された。 迎えた5月30日、日本ダービーは紅一点ながら、無敗の二冠と横山武史のダービー史上最年少制覇に挑むエフフォーリアに次ぐ2番人気となる。レースは外枠から好スタートを切るが、前に馬を置けず、好位外の位置取りになる。結果、4コーナーで先頭に立つかたちとなってしまい、得意の末脚勝負に持ち込めず、5着に敗戦。初めて連対を外す結果とはなったが、着差0.2秒で紅一点ながら掲示板は確保した。 秋は秋華賞からジャパンカップへの出走を予定していると報道されていたが、夏の放牧中に右トモを骨折していたことが判明し、秋に予定していたプランを白紙に戻すことを発表した。
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3歳時(2015年)
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「グレンイーグルス」の記事における「3歳時(2015年)」の解説
シーズン初戦となった2000ギニーは残り1ハロン付近で先頭に立つと後続に2馬身差をつけ快勝。続くアイリッシュ2000ギニーでは道中中団待機から直線でエンドレスドラマとの追い比べを制し英愛2000ギニー制覇となった。6月16日に行われたセントジェームズパレスステークスは5頭立ての少頭数であったが4番手追走から抜け出しLatharnachに2馬身半差をつけG1レース4勝目を飾った。その後、予定していたサセックスステークス、ジャック・ル・マロワ賞、インターナショナルステークス、アイリッシュチャンピオンステークスは馬場悪化を理由に出走回避。10月17日のクイーンエリザベス2世ステークスで復帰、後方追走も直線で伸びきれず6着。その後アメリカに遠征し、ブリーダーズカップ・クラシックに出走するも8着に終わり、このレースを最後に現役を引退した。
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3歳時(1985年)
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「メジロラモーヌ」の記事における「3歳時(1985年)」の解説
1985年10月13日、東京競馬場の3歳新馬戦(芝1400mからダート1400mに変更)で、小島太を鞍上にデビュー。このころにはひ弱さは消えており、直前の調教では1000mで60秒を切る好タイムを記録、調教パートナーを4、5馬身突き離していた。こうした情報がファンにも伝えられ、初戦から単勝オッズ1.4倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースもスタート直後から先頭に立つと、最終コーナーからは後続を突き離す一方で、2着に約20馬身差、3秒1の大差を付けて圧勝した。 次に重賞の京成杯3歳ステークス(11月3日)に出走。デビュー以来圧勝を続けていたダイナアクトレスとの対戦が注目を集めたが、同馬は故障で出走を回避、当日は牡馬ダイシンフブキを抑え単勝1番人気に支持された。しかし、スタートで他馬と衝突して興奮した影響から終始掛かり通しとなり、直線で失速。5頭立ての4着に敗れた。 競走後には疝痛、さらに骨膜炎(ソエ)を発症して調教を控える。しかしすぐに回復し、4週間後には条件戦に出走、小島が同日に阪神競馬場で騎乗していたため、本競走から柏崎正次が騎手を務めた。レースではほとんど追うところなく、2着に1馬身弱の差で勝利を収める。2週間後、当年の最終戦としてテレビ東京賞3歳牝馬ステークス (GIII) に出走。当日は単勝2番人気であったが、2着ダイナフェアリーに3馬身半の差を付けて勝利。人馬ともにキャリア初の重賞制覇を果たした。走破タイムの1分34秒9は、当時の3歳牝馬としては破格の好記録であり、この時点で3歳馬で1600メートルを1分35秒を切るタイムを記録したのはメジロラモーヌとマルゼンスキーのみだった。当年、通算4戦3勝の成績で、翌年1月には当年の最優秀3歳牝馬に選出された。
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3歳時(1985年)
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「スリップアンカー」の記事における「3歳時(1985年)」の解説
4月にニューマーケット競馬場のジェリーフェイルデンステークス (9f) でP.J.エデリー騎乗で3着になると、5月には同じくニューマーケット競馬場の準重賞ヒーソーンステークス (10f) を4馬身差で勝利した。この時から鞍上はコーゼンとなった。続いて、リングフィールド競馬場のG2ダービートライアルステークス (12f) に出走すると、2着馬Lord Grundyに10馬身差を付けて逃げ切って優勝した。この勝利は調教師セシルも予想していなかったことで、ダービーの有力馬として目されることになった。ダービーでは9/4というオッズがつけられ、2000ギニー優勝馬シャディード、後のアイリッシュダービー馬ローソサイエティ、シアトリカルを抑えて1番人気となり、競馬場にはエリザベス2世を含む25万人もの人々が集まった。コーゼンとスリップアンカーはスタートから先頭を走ってレース半ばで他馬を置き去りにし、直線でも競りかけられることもなく2着のローソサイエティに7馬身差を付け、1926年のコロナーク以来の逃げ切りで優勝した。ローソサイエティから3着馬まではさらに6馬身差がついていた。ダービー後にはキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを目指したが、左前脚を負傷したために出走できなかった。なお、レースではダービーで11着に負かしたペトスキが優勝した。その後、スリップアンカーは9月にはケンプトン競馬場のセプテンバーステークスで復帰を果たしたが、シャーガーの半弟シェルナザールに半馬身及ばなかった。10月にはシーズン最終戦としてチャンピオンステークスに出走したが、1000ギニー優勝馬ペブルスに敵わず2着であった。
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3歳時(1969年)
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8月30日に阪神でデビューし、6番人気ながら2着に6馬身差の快勝。2着馬は後に優勝牝馬でも2着に来るケイサンタであった。2戦目の3歳ステークスも連勝するが、3戦目のデイリー杯3歳Sは10着と大敗。ここから3連敗を喫するが、いずれも勝ち馬はタニノムーティエであった。
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3歳時 (2010年)
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「ワークフォース」の記事における「3歳時 (2010年)」の解説
2000ギニー、ダービーともに、前売りで上位人気となっていたワークフォースだが、結局2000ギニーには出走せず、ダンテステークスから始動することになった。そのダンテステークスでは、ケープブランコから3馬身4分の1差の2着に敗れた。関係者は、キャリアの浅さによる幼いレースぶりと、堅すぎた馬場を敗因に挙げている。この敗戦により、陣営はダービーへの出走を一時的に保留としたが、1週前の追い切りでの満足いく動きを見て、ダービー出走を決めた。こうして迎えたダービーでは、最後の直線で一頭だけ異次元の末脚を繰り出し、7馬身差で圧勝した。勝ちタイムの2分31秒33は、従来のレコードタイムを1秒近く更新する驚異的なものであった。騎手を務めたライアン・ムーアはこれがダービー初制覇となった。 ダービー制覇後、古馬との初対戦となったキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは単勝オッズ1.7倍の1番人気に推されたが、見せ場なく5着に敗れた。その後ぶっつけで凱旋門賞に出走し、最後の直線で馬群に包まれたものの内から追い込み、ナカヤマフェスタとの叩き合いの末にアタマ差で勝利した。ブリーダーズカップ・ターフには出走登録をしたものの、馬場状態が堅すぎる (Firm) と判断し、出走を取り消した。
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3歳時(1984年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:21 UTC 版)
1984年9月2日、函館競馬場の新馬戦で津曲忠美を鞍上にデビュー。初戦は道中中団のまま9着と大敗した。しかし東信二に乗り替わった2戦目でスタートから逃げ切り、初勝利を挙げる。次走には連闘で函館3歳ステークス前日のオープン特別出走が予定されていたが、登録頭数が施行規定に足りず不成立となり、急遽函館3歳ステークスに出走した。津曲、東ともに他馬への騎乗が決定しており、本競走から木藤隆行(現:根本康広厩舎調教助手)を鞍上に迎えた。当時は開催当日に騎手が競馬場へ移動することが可能だった時代で、木藤が移動のため飛行機に乗ったところ隣席にオーナーの小畑がおり「木藤君、今日うちの馬に乗ってくれるんだって?頑張ってね」と激励をうけた。レースは前走と同様に逃げ切り、重賞初勝利を収める。これは木藤にとっても、デビュー10年目で初めての重賞勝利であった。以降、引退まで一貫して木藤が騎手を務める。 次走のオープン戦では1番人気に支持されたが、逃げることができず最下位と大敗する。これを受け、続くテレビ東京賞3歳牝馬ステークスでは14頭立て11番人気と評価を大きく落とした。しかしスタート直後から先手を取ると、タカラスチール以下を1馬身半退けて重賞2勝目を挙げた。この競走を最後に当年のシーズンを終える。重賞2勝は同期牝馬の最多勝であったが、最優秀3歳牝馬には通算4戦3勝・2着1回、関西のラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークスを制したニホンピロビッキーが選出されている。
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3歳時(1995年)
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「ダンスインザダーク」の記事における「3歳時(1995年)」の解説
橋口は初戦の段階から東京優駿(日本ダービー)を見据えたローテーションを企画、12月3日の阪神競馬第4競走で初戦を迎えた。レースは後方待機から、直線で終始内側に斜行を続けながらも先行馬を差し切って勝利を挙げた。続いて、デビュー前から予定していたラジオたんぱ杯3歳ステークスに向かう。本競走には、同じく武が騎乗して新馬戦を勝ったサンデーサイレンス産駒・ロイヤルタッチも出走していたが、武は本馬を選択した。当日はやはりサンデーサイレンス産駒のイシノサンデーに次ぐ2番人気に支持された。しかし最後の直線でロイヤルタッチ、イシノサンデーに突き放され、両馬から3馬身半差の3着に終わった。
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3歳時 (1945年)
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「シャモセール」の記事における「3歳時 (1945年)」の解説
3歳時は初戦でハイピーク(High Peak)、ロイヤルチャージャー(Royal Charger)に敗れ3着となったあと、2000ギニーに出走した。 この年の1000ギニー開催当日にドイツは降伏した。しかし、多くの競馬場はすぐに再開が出来る状態になく、クラシックレースを含む多くの競走がこの年も開催地を変えて行われた。 2000ギニーは、いつもの直線路のローリーマイルコースではなく、ジュライコースで行われた。本命のダンテにはアクシデントがあり、勝ったのはコートマーシャル(Court Martial)だった。ダンテが2着で、3着にロイヤルチャージャー、シャモセールは4着だった。 次戦のダービーもニューマーケット競馬場で代替となり、2000ギニーと同じジュライコースで行われた。『2000ギニーの4着馬はダービーに勝つ』というイギリスのジンクスを引き合いに出し、シャモセールの長距離適性に期待する向きもあったが、下馬評通りダンテが巻き返して2着に2馬身差で優勝した。2着争いは接戦になり、シャモセールは頭差、クビ差で4着だった。 シャモセールは夏にも出走し、プリンセスオブウェールズステークス(Princess of Wales's Stake、12f)でスターリングキャッスル(Stirling Castle)に次ぐ2着の後、キャベナムステークス(Cavenham Stakes、12f)で勝利した。 夏には日本も降伏して第二次世界大戦は終わったが、ドンカスター競馬場はすぐに競馬を再開できる状況になく、セントレジャーはイギリス中北部のヨーク競馬場で行われることになった。戦争が終わったことで競馬の賞金は以前の水準まで戻り、この年のセントレジャーの賞金は10000ポンドを超え、結果的にこの年の最高賞金レースとなった。ダービー馬のダンテがリタイヤしたため、人気になったのはオークスで2着だった牝馬のナイシャプール(Naishapur)だった。夏に敗れたスターリングキャッスルが先頭で直線を迎えたが、シャモセールは残り1ハロンで先頭に立つと、後続を2馬身抑えて優勝した。 このあとシャモセールは14ハロンのジョッキークラブステークス、2マイルのジョッキークラブカップの両方で2着になった。
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3歳時(1853年)
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「レキシントン (競走馬)」の記事における「3歳時(1853年)」の解説
ダーレイは5月23日にキーンランド競馬場で行われたアソシエーションステークス(1マイルのヒート戦)でデビューした。このレースに勝利(1回目と2回目のヒートを連勝)したダーレイはその4日後に行われた2マイルのシチズンステークス(ヒートレース)も勝利(1回目のヒート2着、2回目と3回目のヒートを連勝)した。 2戦目のヒートレースを観戦していたリチャード・テン・ブルークはダーレイを気に入り、シンジケートを組んでウォーフィールドに2500ドルでの購入を申し込んだ。この時ウォーフィールドは高齢で競馬に対する情熱を失いかけており、共同所有者(解放奴隷。当時解放奴隷の名義で競走馬を所有することはできなかった)が金に困っていたこともあって売買契約が成立した。ダーレイを購入したブルークは競走馬名をレキシントンと改名し、テネシー州の厩舎へ移送した。年末にサリーウォーターズ(Sallie Waters)とのマッチレースに勝利したレキシントンは3戦3勝でこの年を終えた。
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3歳時(2018年)
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「メンデルスゾーン (競走馬)」の記事における「3歳時(2018年)」の解説
3月9日、ダンドーク競馬場で行われたオールウェザーのパットンステークス(準重賞)で始動し、圧倒的1番人気にこたえ快勝。ドバイに遠征し、3月31日のUAEダービーでは好スタートからハナを奪うと、直線で後続馬に18馬身もの差をつけ圧勝した。大一番のケンタッキーダービーでは前走に引き続き鞍上にムーアを迎えて臨むことになった。この時ムーアは同じ週にイギリスで行われる2000ギニーにも同じ馬主で同じオブライエン厩舎のサクソンウォリアーが出走登録をしていたが、ムーアはこちらを選び、ドナカ・オブライエンに乗り替わりとなったサクソンウォリアーは2000ギニーを制した。一方メンデルスゾーンは前走の圧勝ぶりが評価され本場アメリカの強豪馬と共に有力馬の一頭に推される。欧州馬初のケンタッキーダービー制覇が期待されていたがスタート直後に他馬にぶつけられる不利を受けた事や不良馬場から20着の殿負けを喫する。その後、7月のドワイヤーステークスでは1番人気に推されるも勝ち馬から9馬身半差の3着。8月25日のトラヴァーズステークスは人気薄ながらカトリックボーイの2着と逃げ粘った。秋に入り、ジョッキークラブゴールドカップ3着、ブリーダーズカップ・クラシック5着、そしてシガーマイルハンデキャップ4着を最後に現役を引退。アッシュフォードスタッドで種牡馬となる。
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3歳時(2001年)
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「エクストラヒート」の記事における「3歳時(2001年)」の解説
エクストラヒートは前年から休むことなく1月から出走を始め、ルースレスステークス(L・6ハロン)、ディアリープレシャスステークス(L・6ハロン)、シケイダステークス(G3・7ハロン)、ストーナーサイドビューモントステークス(G2・約7ハロン)と連勝を繰り広げていった。5月のナッソーカウンティステークス(G2・7ハロン)はハナ差で2着に敗れたが、続くアークティッククラウドステークス(6ハロン)では再び勝利している。 そして7月4日のベルモントパーク競馬場で行われたプライオレスステークス(G1・6ハロン)で再びG1競走に挑戦した。レースが始まるとエクストラヒートは勢いよく飛び出し、先頭を走るアバブパーフェクションのそばにつけて道中を進め、直線で同馬を追い越すと、最後にはクビ差で先にゴールに飛び込んでG1初制覇を果たした。 続くテストステークス(G1・7ハロン)ではヴィクトリーライドに3馬身1/4差をつけられて2着に敗れるが、その後はストレイトディールブリーダーズカップハンデキャップ(L・6ハロン)、エンダインステークス(G3・6ハロン)、スウィートアンドサッシーステークス(L・6ハロン)と3連勝を挙げた。 10月27日のブリーダーズカップでは牡牝混合戦のブリーダーズカップ・スプリント(G1・6ハロン)に出走するが、ここでは単勝オッズ18.50倍の穴人気をつけられていた。レースが始まるとエクストラヒートは最初から先頭に立って逃げ続け、最後の直線でスクワートルスクワートに半馬身差追い抜かれるも2着と健闘した。その後11月にフランク・J・ドフランシス記念ダッシュステークスに出走、3着に入ってこの年を終えた。この年13戦して9勝の戦績を挙げ、エクリプス賞最優秀3歳牝馬として選出された。
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3歳時(1964年)
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「ボールドリック」の記事における「3歳時(1964年)」の解説
3歳になったボールドリックは、精神面での成長が見られた。3歳緒戦になったのは春のジェベル賞(Prix Djebel)(1400メートル)で、この競走は*タカウォークが勝ち、ボールドリックはジェル(Djel)とともに2着を分け合う同着2着となった。ジェルはこのあとフランスダービーで3着になる。 イギリス2000ギニー挑戦 ボールドリックはこのあと、4月末のイギリスの2000ギニーへ遠征した。この年の2000ギニーは賞金が大きく積み上げられ、1着賞金はイギリス競馬史上最高賞金となる40,301ポンドになり、27頭が出走した。 2000ギニーで有力視されていたのは、2歳の時にミドルパークステークスやコヴェントリーステークスを勝ってイギリスの2歳チャンピオンになっていたショウダウン(Showdown)と、前哨戦の一つフリーハンデキャップを勝ったポートメリオン(Port Merion)だった。ショウダウンは単勝6倍の1番人気になった。しかし一部のブックメーカーではポートメリオンが極端に売れていて、単勝1.07倍にまで倍率を下げている業者までいた。ボールドリックには、オーストラリアから呼び寄せられたビル・パイアーズが乗ることになったが、パイアーズ騎手は2000ギニーの開催地であるニューマーケット競馬場での騎乗経験は無かった。ボールドリックの単勝は21倍で人気薄だった。 1マイル(約1609メートル)の直線コースで行われたこの競走で、本命のショウダウンはゴールまで残り400メートルのあたりで、一度は先頭に立った。しかしあと200メートルのあたりで、パイアーズの巧みな騎乗によってボールドリックが先頭を奪い、そのまま後続を抑えて勝った。走破タイムは1.38.4/5で、2馬身差の2着にはこれも人気薄の*ファバージが入った。人気のショウダウンは離された4着どまりだった。 アメリカ産馬、馬主がアメリカ人、調教師はオーストラリア出身でフランスの厩舎、騎手もオーストラリア人と、国際色に富む結果になり、近代競馬の国際化を象徴するような結果になった。しかし、この年いちばんの高額賞金を外国人に持って行かれた格好になり、多くのイギリス人は落胆した。イギリスのブックメーカーだけは、大波乱の結果に大喜びだった。というのも、もしも人気馬が勝っていれば、ブックメーカーは80万ドル相当の大損をするところだったのである。イギリス競馬史上、外国の馬がクラシック競走を勝つのは史上5頭目という記録になった。が、それ以上に、馬主のジャクソン夫妻は、イギリスのクラシック競走に3回挑戦して3回とも優勝という素晴らしい好成績となった。 イギリスダービー挑戦 2000ギニーのレース後すぐに、馬主のジャクソン夫人によって、ダービー挑戦プランが発表された。 この年のダービーで強力な本命となったのがアイルランドのサンタクロースである。サンタクロースは2歳シーズンの最後に地元のレイルウェイステークスを8馬身差で圧勝し、ダービーの本命との下馬評が広がっていた。3歳になると、本場イギリスの2000ギニーを避け、アイルランド2000ギニーを勝ってきた。本格的なスタミナのある血統で、1マイル半(約2414メートル)で行われるダービーでは実力を発揮しそうだった。3.5倍の1番人気としてイギリスに乗り込んできたサンタクロースには、昼夜を問わず厳戒態勢が敷かれ、居場所すら公表されなかった。当時は、エリザベス女王やチャーチル首相ですら、サンタクロースの居場所を知ることはできないだろう、と報じられている。ダービーではしばしば、本命馬が勝つと大損をすることになるブックメーカーによるとみられる、本命馬への毒物投与や傷害行為などの妨害工作が行われてきたからである。アイルランド人が大量に馬券を買ったせいで、サンタクロースの単勝倍率は、最終的には2.8倍まで下がった。 サンタクロースに対抗できるものがいるとすれば、2000ギニーに勝ったボールドリックだろうという雰囲気がしだいに高まった。ダービーの2週間前のグラスゴー・ヘラルド紙は、ボールドリックは「アメリカ最高の血統に裏打ちされた、強さに満ち、勇敢で立派な牡駒(a game, resolute colt, full of quality,and endowed with the best American blood)」ともちあげ、サンタクロースを負かすとしたらその最有力候補だと書き立てた。ボールドリックは2000ギニーのあと一度フランスへ帰国し、イギリスダービーの2日前に現地入りした。ボールドリックがイギリスの水を嫌ったため、わざわざフランスから飲み水を輸送してきた。 ボールドリックは血統的に距離適性に不安がなかったわけではない。父のラウンドテーブルは10ハロン(約2011メートル)のケンタッキーダービーで負けており、イギリスダービーと同じ12ハロン(約2414メートル)の競走では2度惨敗している 。ラウンドテーブルの母の父は短距離血統として名高いザボス系である。ボールドリックと似た血統だったプリンスシモン(Prince Simon)もイギリスで走り、10ハロン以上の距離では1勝もできなかった。母のトゥーシティーズは7ハロン(約1408メートル)の競走をどうにか勝ったことしかなかった。しかし、ボールドリックの母系にはサーギャラハッドの強い近親交配があり、これがボールドラッドのスタミナを支えるだろうとみなされた。最終的に、ボールドリックの単勝は11倍となった。 6月3日のダービー当日に出馬を表明したのは17頭で、ダービーとしては異例の少頭数になった。観客は、エリザベス女王を筆頭に22万5000人が集まった。 スタートすると、サンタクロースは17頭の最後尾につけ、最終コーナーを回るまで後ろのままで、馬主とファンをやきもきさせた。最後の直線でボールドリックは一度先頭にたったが、残り200メートルでばてて*インディアナにかわされた。そこへサンタクロースが最後方から追い込んできて、ゴールまで残り90メートルの地点で一気にインディアナを差しきり、さらに1馬身突き放して優勝した。ボールドリックは5着に終わった。 大本命のサンタクロースが勝ったことでブックメーカーは大変な額の払い戻しをする羽目になり、被った損失は17年ぶりの巨額になった。サンタクロースの騎手は優勝したにもかかわらず、馬主をはらはらさせたことで不興を買い、若手騎手と交代させられた。2着のインディアナは秋にセントレジャーを勝ち、のちに日本で種牡馬として成功する。 初の古馬との対戦(エクリプスステークス) ボールドリックは、1か月後のエクリプスステークス(約2011メートル)に向かった。エクリプスステークスは、それまで3歳馬同士で争ってきた若馬が初めて古馬の一流どころと対戦するように企画された競走で、この年はアイルランドの古馬ラグサ(Ragusa)が強敵になった。ラグサは前年にアイルランドダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、セントレジャーを勝ち、前年のイギリス最強馬だった馬である。 この競走では、ボールドリックはラグサに屈し、1馬身半差の2着に敗れた。ラグサはこの勝利によって、イギリスの現役最強馬の座をサンタクロースから奪い返した。敗れたとはいえ、ボールドリックにとってみても、3着の古馬ターコガン(Tarqogan)に対しては6馬身の差があり、最強馬ラグサとの着差やターコガンの実績からすると、ボールドリックも古馬の一流馬を相手にじゅうぶんやっていけるということが証明されたとも言えた。これ以後、ボールドリックには1マイル半(約2400メートル)は長すぎるとの判断で、中距離の路線へ進むことになった。 ところで、同世代のダービー馬サンタクロースは、この間にアイルランドのダービーへ凱旋して優勝していた。サンタクロースとラグサは、7月半ばのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで対戦し、イギリス最強馬の座を争う予定だった。しかし直前になってラグサが堅い馬場を嫌って回避してしまった。もともと2強の争いと考えてほかの多くの馬も出走を見送っていたため、たった4頭で行われるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスはサンタクロースが史上空前の1.15倍の大本命になった。ダービーを勝った時のベテラン騎手は馬主の不興を買って降ろされており、サンタクロースには若手騎手が乗って出走してきた。ところがこの若手騎手の経験不足のため、人気薄の穴馬にまんまと逃げ切られてしまい、イギリス競馬史上に残る大波乱の汚名を残してしまった。これを逃げ切ったのが、馬主ハウエル・E・ジャクソン夫人、調教師アーネスト・フェローズ、騎手ビル・パイアーズというボールドリックと同じチームのナスラム(Nasram)で、ボールドリック陣営にとってはダービーの仇を討った格好になった。 秋(チャンピオンステークス) ヨーロッパの一流馬にとって、秋の大目標はフランスの凱旋門賞(2400メートル)やイギリスのチャンピオンステークス(約2011メートル)で、まだ余力があるものはそのあとイタリアのジョッキークラブ大賞やアメリカのワシントンDC国際へ向かう。ダービーでの成績からボールドリックにとって2400メートルは距離が長すぎると考えられ、秋は10ハロン(約2011メートル)のチャンピオンステークスに向かうことになった。そのステップとしてフランスでパース賞(サンクルー競馬場・1600メートル)(Prix Perth)に出て勝った。 チャンピオンステークスのイギリスの代表馬は古馬のリナクル(Linacre)で、前年はチャンピオンステークスで2着に入り、この年はクイーンエリザベス2世ステークスを勝って勢いにのっており、1.8倍の堅い本命になった。ボールドリックは4.5倍の2番人気で、アガ・カーンのジュールエニュイ(Jour et Nuit)が5倍でこれに続いた。 2000ギニーと同じパイアーズ騎手が乗ったボールドリックは、古馬勢を破って1馬身差で優勝した。チャンピオンステークスはイギリスの秋の大一番だが、これで15年の間に11回外国馬が勝ったことになった。 この勝利によって、ボールドリックはこの年のヨーロッパの中距離チャンピオンと目されるようになった。オーストラリアからやって来たばかりのパイアーズ騎手は、イギリスでのデビューの年に2000ギニーとチャンピオンステークス、そしてキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに勝ったことで名を上げ、これ以降ヨーロッパを代表する騎手と見られるようになった。ボールドリックがチャンピオンステークス優勝で獲得した賞金は27,000ポンドあまりにのぼり、この年イギリスで走ったラウンドテーブルの産駒はボールドリックただ1頭で、イギリスでわずか2勝しただけにもかかわらず、ラウンドテーブルは全英種牡馬ランキングで3位になった。さらに、馬主のジャクソン夫人は、ボールドリックでの大レース2勝とナスラムでのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス優勝によって、年間の獲得賞金が98,262ポンドに達し、この年のイギリスの馬主ランキング1位になった。女性が馬主チャンピオンになるのはエリザベス女王以来のことだったし、アメリカ人女性としては史上初のことだった。 フェローズ調教師も名を高めたが、この秋はフェローズにとってはがっかりすることもあった。フェローズ調教師は、この秋にイタリアの3歳チャンピオンの*プリンスロイヤルの移籍を引き受けて凱旋門賞に挑むことに決まっていたのが、同馬のフランスでのお披露目レースになったロワイヤルオーク賞で同馬が惨敗したのをみて、この約束を反故にしたのである。プリンスロイヤルはしかたなく別の調教師に引き取られたが、そのあと凱旋門賞でサンタクロースを破って優勝したのだった。
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3歳時(1984年)
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「デヴィルズバッグ」の記事における「3歳時(1984年)」の解説
1984年はフロリダで行われる3歳戦から始動し、2月20日のハイアリアパーク競馬場で行われたフラミンゴプレップステークス(ダート7ハロン)において7馬身差の圧勝で年初を飾った。翌戦にフロリダ路線における最大の前哨戦である3月3日のフラミンゴステークス(G1・ハイアリアパーク・ダート9ハロン)に出走、32,240人の観衆が詰めかける中で断然の1番人気に推されたが、超ハイペースのなか強引に前に行く競馬が祟ってずるずると後退、勝ち馬タイムフォーアチェンジから7馬身差の4着に沈み、初の敗北を喫してしまった。鞍上を務めたメイプルは「何が起こったのかわからない」と語り、またスポーツ・イラストレイテッド誌の記者ウィリアム・ナックは3月12日の同誌において「近年の競馬における、1973年のセクレタリアトのそれ以来の衝撃的な事件であった」と評している。 初の敗戦後、デヴィルズバッグはその後アケダクト競馬場のゴーサムステークスに登録していたが、馬場状態の悪さを理由にこれを回避、その先4月19日のキーンランド競馬場で行われたフォアランナーパース(ダート7ハロン)に出走してこれを15馬身差で圧勝、依然として力のあるところを見せつけた。さらに、4月28日のチャーチルダウンズ競馬場のダービートライアルステークス(ダート8ハロン)でも2着馬ビロクシインディアンに2馬身1/4差をつけて快勝している。 しかし、ケンタッキーダービーを4日後に控えた5月1日にスティーヴンスはダービーの回避を発表し、プリークネスステークスより本戦に加わるとした。ダービーには同厩舎のスウェイルが参戦し、これに勝利している。その後、デヴィルズバッグの右前脚の膝に亀裂が入っていることが発見され、これによってクラシック出走を目前としながら引退が決定した。
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3歳時(1877年)
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5ヶ月の休みを挟みブラチスラヴァのトライアルステークスで復帰しこれに勝利すると、ブダペストのネムゼティ賞(ハンガリー2000ギニー)、ハザフィ賞(ハンガリー1000ギニー)といったハンガリーのクラシックに相当するレースを連勝した。特にハザフィ賞は母子制覇であった。さらに、中央ヨーロッパの強豪馬たちが出走するレースだったジョッケクルブ賞(オーストリアダービー)を大差で圧勝した。この後ウィーンのトライアルステークスとカイザー賞に連勝してドイツに渡り、初の古馬とのレースとなったハノーファー大賞、続いてレナードレネン、バーデン大賞、ヴェルトヒェン賞に勝った。地元ハンガリーに帰ってショプロンのアラームディーユを2連勝した後、ブダペストのハンガリーセントレジャーに楽勝した。さらにカンツァディーユも勝った。この後キンチェムはウィーンのフロインデナウアー賞に単走で勝利、続いてプラハのカイザー賞を連勝し3歳のシーズンを終えた。3歳時は17戦17勝をあげた。
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3歳時(2013年)
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「フリントシャー (競走馬)」の記事における「3歳時(2013年)」の解説
2013年にシャンティイ競馬場の未勝利戦でデビューし、勝利した。次走の条件戦は2着に敗れるも、続くリス賞(G3)で重賞初制覇、パリ大賞典(G1)でG1競走初制覇となった。 5戦目はニエル賞(G2)であったが、1番人気ながら4着に敗れ、続く凱旋門賞(G1)も8着に敗れた。
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3歳時(2009年)
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「シーザスターズ」の記事における「3歳時(2009年)」の解説
ステップレースを使わずに直行した2000ギニーには前哨戦のG3クレイヴンステークスを制したデレゲーター、前年のカルティエ賞最優秀2歳牡馬マスタークラフツマンなどの強豪が出走しており、良血とはいえそれほど実績を残していなかったシーザスターズは6番人気だった。しかし、レースではデレゲーターを差し切り1馬身半差で優勝。イギリスクラシックの一冠目を制した。 そしてイギリスクラシック二冠目、ダービーに出走。レース前は血統などから距離延長が不安視されており、ジョン・オックス調教師も、雨で馬場が重くなれば近年の2000ギニー優勝馬のように同レースを回避する可能性も示唆していた。しかし結局、リフューズトゥベンド以来6年ぶりに2000ギニー優勝馬としてダービーに出走した。レースでは内ラチ沿いで逃げたゴールデンソード、エイジオブアクエリアスを窺いながらレースを進め、最後の直線で逃げ粘るゴールデンソードを交わすと、追い込んできたフェイムアンドグローリー以下を退けて優勝。兄ガリレオとの兄弟制覇を達成した。2000ギニー、ダービーの二冠を達成したのは、1989年のナシュワン以来20年ぶりである。 次走にはアイリッシュダービーが予定されていたが、馬場状態が悪化したことから回避。古馬との初対戦となるエクリプスステークスに参戦した。前年のセントレジャーステークス・ブリーダーズカップターフを制したコンデュイットら強豪古馬勢も出走していたが、単勝オッズ1.6倍の圧倒的1番人気に支持された。レースでは早めに抜け出し先頭に立つと、このレースのあとにサセックスステークス・クイーンエリザベス2世ステークスとGIを連勝するリップヴァンウィンクル、同じくこのレースのあとにキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを制するコンデュイットを振り切って優勝した。 続くインターナショナルステークスはマイケル・スタウト厩舎のタータンベアラーが回避したことにより4頭立てで行われ、シーザスターズ以外はエイダン・オブライエン厩舎の管理馬という構図になった。レースは2000ギニーの敗戦後にアイリッシュ2000ギニーとセントジェームズパレスステークスのGIを連勝してきたマスタークラフツマンとの事実上の一騎討ちとなった。シーザスターズは先に抜けだしたマスタークラフツマンをゴール前で差し切り、1馬身の差をつけ優勝。G1競走4連勝を達成した。 中2週で臨んだアイリッシュチャンピオンステークスには、前走に続きマスタークラフツマンが出走してきたほか、英ダービーの敗戦後アイリッシュダービーを5馬身差の圧勝で制したフェイムアンドグローリーも参戦し、実質的にこの3強の対決となった。シーザスターズに敗戦続きのオブライエン厩舎は、前記2頭のほか3頭を出走させ、計5頭によるシーザスターズ包囲網を形成して必勝を期したが、レースでは先頭に躍り出たフェイムアンドグローリーを並ぶ間もなく交わし、2馬身2分の1差をつけて快勝。G1競走5連勝を達成した。 4週間後、シーザスターズは凱旋門賞に出走した。馬場状態によってはこのレースを回避、チャンピオンステークスに向かう可能性もあったが、結局出走した。このレースにはコンデュイット、フェイムアンドグローリーらこれまでに対戦した馬のほか、2007・2008年の凱旋門賞2着馬ユームザイン、GI3連勝を含む6戦全勝のキャリアで出走してきたスタセリタ、そのスタセリタに前走で先着するも降着となった2009年GI2勝のダーレミ、パリ大賞典・ニエル賞と凱旋門賞と同じロンシャン競馬場の2400メートルの重賞を連勝中のキャヴァルリーマン、前年のジョッケクルブ賞勝ち馬で2009年もGIを2勝しているヴィジョンデタと強力なメンバーが揃ったが、現地ではレース前から最有力候補と目されており、ブックメーカーの単勝オッズも2.0倍を切る圧倒的な支持を得た。レースでは好スタートを決めるが、その影響で行きたがるそぶりを見せ、キネーンが必死に抑えて徐々にラチ沿いの中団グループまでポジションを下げる。レースはそのまま進み、最後の直線残り200mの地点でインコースから馬群を割って先頭に立ち、ユームザイン以下の追撃を封じるとそのまま先頭で押し切り2分26秒3の好タイムで快勝、G1競走6連勝を達成した。2000ギニー、ダービー、凱旋門賞を同一年にすべて制覇したのは史上初の快挙であった。また、1980年優勝馬デトロワ・1994年優勝馬カーネギー母仔に次ぐ2組目となる母・アーバンシーとの母仔制覇を成し遂げた。レース後、キネーンが「シーザスターズが凄いのは、わずか3歩でトップギアに入るところです。そんな加速の仕方は他の馬では味わったことがない」と語った。さらにガリレオやモンジュー、ロックオブジブラルタル、ジャイアンツコーズウェイなど自らの跨った数多の世界的名馬と比較し「生涯最高のパートナー」とこの馬を評した。 その後はブリーダーズカップ・クラシックなどに出走するプランも検討されていたが、10月13日にオーナーサイドから引退することが正式に発表された。10月27日には、種牡馬としてアイルランドのギルタウンスタッドで繋養されることが発表された。11月17日には、2009年度のカルティエ賞年度代表馬および最優秀3歳牡馬を受賞した。2010年1月13日に発表された2009年度のワールド・サラブレッド・ランキングでは、アイリッシュチャンピオンステークスのパフォーマンスに対して136ポンドが与えられ、年間世界1位となった。135ポンドを超えるレーティングは、1997年の凱旋門賞馬パントレセレブルの137ポンド以来12年ぶりであった。
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3歳時(2017年)
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「レディオーレリア」の記事における「3歳時(2017年)」の解説
3歳初戦となったリステッドレースのジャイアンツコーズウェイステークスを勝利したレディオーレリアは、再びアスコット競馬場に遠征。キングズスタンドステークス(G1)に出走すると、前年の同レースの勝ち馬で5歳牡馬のプロフィッタブル(Profitable)に3馬身差をつけて勝利した。次走はヨーク競馬場のナンソープステークス(G1)に出走。4歳馬マーシャ(Marsha)との競り合いになり、ゴール後は鞍上のL.デットーリ騎手が手を上げて勝利の喜びを表すも、写真判定の結果、ハナ差の2着に敗れたことが判明した。その後、ブリーダーズカップ・スプリント(G1)に出走するも、10着に敗れた。
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3歳時(1908年)
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2歳のレイルウェイステークスのあとは長い休養に入り、3歳の5月に復帰して2勝した。2000ギニーやダービーには出なかったが、キングズプレートという小さなレースで9ストーン10ポンド(約61.6キログラム)を背負い1マイル1/4(約2011メートル)を2分12秒で走って優勝すると、3歳の上がり馬としてにわかに脚光を浴びた。 というのも、この世代のクラシック戦線には、イギリス産の牡馬は活躍馬がいなかったのである。 イボアの世代の主要な世代限定戦 競走名条件距離勝馬備考シャンペンS 2歳 1200 レスビア(Lesbia) 牝馬 ミドルパークS 2歳 1200 レスビア(Lesbia) 牝馬 デューハーストS 2歳 1400 ロードラ(Rhodora) 牝馬 1000ギニー 3歳牝 1600 ロードラ(Rhodor) 牝馬 2000ギニー 3歳牡牝 1600 ノーマン(Norman) アメリカ産馬 ダービー 3歳牡牝 2400 シニョリネッタ(Signorinetta) 牝馬、イタリア人生産 オークス 3歳牝 2400 シニョリネッタ(Signorinetta) 牝馬、イタリア人生産 コロネーションS 3歳牝 1600 レスビア(Lesbia) 牝馬 セントジェイムズパレスS 3歳牡 1600 ユアマジェスティ(Your Majesty) エクリプスS 3歳牡牝 2000 ユアマジェスティ(Your Majesty) ※距離はおおよそのメートル。 2歳の重要な競走は全て牝馬が優勝した。3歳になっても、2000ギニーを勝ったのはアメリカ馬で、その騎手はハンガリー出身だった。ダービーに出てきたのはそのアメリカ馬をはじめ、フランスから2頭、オーストラリアから2頭、それで勝ったのはイタリア人が生産した牝馬だった。そのシニョリネッタはオークスも勝ち、ほかにも牝馬のロードラが1000ギニーを勝ち、レスビア(Lesbia)もコロネーションステークスを勝ってセントレジャーに狙いを定めていた。 イギリスの牡馬の中ではユアマジェスティ(Your Majesty)とイボアが、セントレジャーの候補と考えられた。シニョリネッタ、レスビア、ノーマン、イボアがセントレジャーの四強だと報じるものもあった。イギリス三冠馬を育てた調教師が10000ギニーでイボアを譲ってくれと申し出たが、馬主はこれを断っている。しかしセントレジャーはユアマジェスティが勝ち、イボアは着外に敗れた。 そのあと、イボアはシアボローステークスを単走で勝ち、10月の末には2000ギニー優勝馬のノーマンを破った。だが、シーズン最後の大レース、ノベンバーハンデでは着外に敗れた。
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3歳時(1971年)
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「タニノチカラ」の記事における「3歳時(1971年)」の解説
1971年9月、阪神開催でデビュー。兄の手綱を執った安田伊佐夫が騎手を務め、初戦は3着だったが、2戦目で2着に5馬身差をつけての初勝利を挙げる。その後、翌年のクラシック競走への出走権を確実に得ておこうと、間隔を詰めたローテーションで出走していたが、4戦目・野菊賞(2着)の競走中に骨折し、休養を余儀なくされた。なお、それから間もない11月8日には馬主の谷水信夫が交通事故で急逝し、所有権は息子の谷水雄三に引き継がれた。 この年末に関東で馬インフルエンザが発生、翌年1、2月の東京、中山開催が中止となったことで春のクラシックは順延される。タニノチカラは7月にずれこんだ東京優駿(日本ダービー)を大目標に調教を再開していたが、その最中に左前種根骨を骨折。獣医師からは予後不良が宣告されたが、カントリー牧場長の西山清一が谷水に治療を訴え、これが容れられてタニノチカラは牧場で療養生活に入った。なお、三冠初戦の皐月賞は野菊賞で先着していたランドプリンスが制し、担当厩務員の近藤昭は「くやしさで夜も眠れなかった」と述懐している。
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3歳時(1972年)
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「ハイセイコー」の記事における「3歳時(1972年)」の解説
1972年6月にデビューする予定であったが、出走を予定していたレースが不成立となった。高橋によるとこれは調教師の伊藤が他の出走馬を見下す発言をしたのに反発した調教師たちが「いくら強くてもレースに出られなければそれまでだ」とお灸をすえる意味で故意に管理馬の出走を回避したためであったが、後になって「ハイセイコーとの対戦に恐れをなして出走を回避した」と解釈されるようになったという。翌7月12日、大井競馬場で行われた未出走戦で辻野豊を鞍上にデビュー。このレースを同競馬場のダート1000mのコースレコードとなる59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけて優勝した。従来のレコードはヒカルタカイが記録した1分0秒3で、ハイセイコーは大井競馬史上初めて1000mを1分を切って走った馬となった。この記録を鞍上の辻野に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4コーナーでは馬体を傾けながら走ったためバランスを取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している。 その後ハイセイコーは大井での最終戦となった11月末の青雲賞にかけて常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成、大井での全6戦で2着馬につけた着差の合計は56馬身、平均着差は9.3馬身に達した。2戦目の条件戦では2着のセッテベロナにおよそ16馬身の大差をつけて逃げ切り勝ちを収め、4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の青雲賞で重賞初優勝を達成した。作家の石川喬司は、連勝中のハイセイコーの評判を聞きつけて競馬評論家の大川慶次郎とともにゴールドジュニアを見に大井競馬場へ出かけ、「こいつは、中央に来ても絶対活躍できる」と話し合っていたことを明かしている。晩秋を迎える頃にはスポーツ紙が「大井に怪物現れる」などと報道し始め、調教師の伊藤は5戦目の白菊特別を勝った頃から「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった。
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3歳時(1988年)
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「カドージェネルー」の記事における「3歳時(1988年)」の解説
カドージェネルーの本領が見られるようになったのは3歳シーズンからで、4月20日のポンテクラフト競馬場での5ハロンの条件戦において、ポール・エデリーに騎乗されたカドージェネルーは「軽妙に」4馬身差をつけて初勝利を挙げた。1か月後のニューマーケット競馬場でのハンデキャップ競走(6ハロン)でも2馬身半差の連勝、6月のヨーク競馬場で行われたゴールデンスパートロフィーハンデキャップ(6ハロン)では単勝オッズ1.8倍の支持を受け、強豪牝馬のシルバーフィリングを半馬身差抑えて勝利した。それから2週間後にはクリテリオンステークス(G3・ニューマーケット・7ハロン)で重賞に初挑戦した。レースでは新しく鞍上に迎えたパット・エデリーの操縦のもと、スタートからしばらくは待ちに徹し、最後の1ハロンで追い上げて先頭に立つと、後から来た1番人気のサルスを短アタマ差抑えて勝利、4連勝で重賞勝ちを収めた。 8月、カドージェネルーは海を渡ってフランス・ドーヴィル競馬場のモーリス・ド・ギース賞(G2・1300メートル)に出走、牝馬ブルーノート相手の2着に敗れた。イギリスに戻って11日後にはウィリアム・ヒルスプリントチャンピオンシップ(G1・ヨーク・5ハロン)でG1初挑戦となったが、ハンサムセーラーが優勝するなか6着に敗れた。 9月24日に迎えたダイアデムステークス(G3・アスコット・6ハロン)では、先日敗れたブルーノートとの再戦となった。鞍上を務めたパット・エデリーは再びカドージェネルーに抑えさせる競馬をし、最後に内側から抜け出して先頭に立つと、2着馬ポイントオブライトを3/4馬身差で破って優勝した。 カドージェネルーの同年最後の競走になったのは、10月2日のロンシャン競馬場のアベイ・ド・ロンシャン賞(G1・1000メートル)であった。この競走でカドージェネルーは、最後の200メートルで内側から抜け出す競馬でハンサムセーラーを抑えて勝利したが、審議により最下位に降着となってしまった。また、パット・エデリーも8日間の騎乗停止処分を受けている。
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3歳時(1996年)
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「シーキングザパール」の記事における「3歳時(1996年)」の解説
1996年7月20日、小倉開催の新馬戦で武豊を鞍上にデビュー。従前から調教での走りが栗東で評判となっており、単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持されると、スタート直後先頭から、2着に7馬身差を付けて初勝利を挙げた。続く中山開催の新潟3歳ステークスではシンコウスプレンダに次ぐ2番人気の支持を受けたが、スタート直後に外側へ大きく逃避したことが影響して後方からのレース運びとなり、直線で追い込むも3着と敗れた。武豊は逸走の原因が分からなかったといい、この時「ちょっと普通のいいコではないなと」感じたという。島田明宏によると後に雑誌のインタビューで武にこの時の逸走の原因について質問したところ「弁当を買いに行きよった(逸走した)んです」と答え、インタビュー室内の笑いを誘ったというが、この頃は怖がりだったと語っていたという。しかし次走のデイリー杯3歳ステークスでは気難しさを見せることなく、後の天皇賞(春)勝ち馬メジロブライトに5馬身差、3歳馬による芝1400メートルの日本レコードタイムを記録して重賞初勝利を挙げた。また、武はこの勝利で兄弟子の河内洋が保持した年間重賞最多勝記録を14に更新し、さらに史上初の4週連続重賞勝利を合わせて達成した。 12月1日に臨んだ3歳女王戦・阪神3歳牝馬ステークスでは、前走に続き単勝オッズ1.5倍を付けて1番人気となった。しかしレースでは先行策から直線で失速し、メジロドーベルの4着に終わった。武は後に「4コーナーまではごく普通に走っていたのに突然手応えが悪くなって、これまた原因不明です」と回想している。調教師の佐々木も「説明がつかない」と語ったが、植中倫子は「きっと初めての荒れた馬場に嫌気がさしたためでしょう」と分析している。当年は4戦2勝でシーズンを終えたが、敗れた2戦の不可解な内容から以後「気性難」というレッテルを貼られることになった。なお、武は2000年春に受けたインタビューで「一番人懐っこい馬」にシーキングザパールを挙げ、「厩にいるときのシーキングザパールは絶対に人を噛まない、暴れない、何をされても嫌がらないという、いい馬」だったものの、「乗ったら変身していた」のだという。
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3歳時(2018年)
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「モノモイガール」の記事における「3歳時(2018年)」の解説
3歳初戦のレイチェルアレクサンドラステークスを制し、初重賞制覇を果たすと、続くアッシュランドステークスも5馬身半差で制してGIタイトルを手にした。迎えたケンタッキーオークスでは、サンタアニタオークス勝ち馬のミッドナイトビスーに1番人気の座は譲ったものの、先行策から早めに抜け出して伏兵ワンダーガドーの追撃を半馬身差抑えて栄冠を手にした。 その後、エイコーンステークスとCCAオークスを連勝してGI4連勝を達成。しかし、ニューヨーク牝馬三冠(トリプルティアラ)達成がかかるアラバマステークスには向かわず、より賞金の高いコティリオンステークスに直行した。コティリオンステークスでは前走でも勝利したミッドナイトビスーとの再戦となり、デッドヒートの結果モノモイガールがクビ差先着して1位入選を果たす。しかし、直線で内を突いたミッドナイトビスーの進路を妨害する場面があり、2着降着となって連勝はストップした。 古馬初対戦のブリーダーズカップ・ディスタフでも前年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬を受賞したエイベルタズマンらを抑えて1番人気に推された。大外11番枠から2番手を追走し、4コーナー手前では楽な手応えで先頭に躍り出る。直線では後続を競り落とし、ゴール前で内から追い上げてきた2着ワウキャットに1馬身差をつけて優勝し、牝馬チャンピオンの座に輝いた。そして、この年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬を受賞した。
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3歳時(2014年)
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「ストップチャージングマリア」の記事における「3歳時(2014年)」の解説
この年の初戦はフロリダ州から始動し、2月22日のデヴォナデールステークス(G2・ガルフストリームパーク・8.5ハロン)で5着、続くファンタジーステークス(G3・オークローンパーク・8.5ハロン)で4着となった。この結果から、陣営はケンタッキーオークスの回避を決定している。代わって登録された5月16日のブラックアイドスーザンステークス(G2・ピムリコ・9ハロン)にストップチャージングマリアは出走、中団に6番手つけて進む競馬から、最後の直線で先頭に立ったヴェロアモーレをクビ差捕らえて勝利を手にした。 その後マザーグースステークス(G1・チャーチルダウンズ・8.5ハロン)に登録されていたが、直前になってこれを回避している。次に登録されたコーチングクラブアメリカンオークス(G1・サラトガ・9ハロン)は6頭立てで行われ、その中でストップチャージングマリアは単勝オッズ2.2倍の1番人気に推され、エイコーンステークス3着から来た2番人気のアンブライドルドフォーエヴァー(単勝オッズ2.6倍)と人気を分け合っていた。1頭落鉄した馬がいたためレースの発走は遅れたが、スタートは問題なく切られ、まず先頭に穴人気のミスビサイルが飛び出していった。先頭はその後ミスビサイルとテイクザオッズという馬が競い合い、その後ろにストップチャージングマリア、またその後ろにアンブライドルドフォーエヴァーが縦に並ぶ展開でレースが進んでいった。ストップチャージングマリアは最終コーナーで進出を開始し、最後の直線に向き直ったところで後続に2馬身半差をつけて先頭に立っていた。そこからストップチャージングマリアはさらに伸び、最終的に2着に追い込んできたアンブライドルドフォーエヴァーに5馬身の差をつけて優勝、初のG1タイトルの座を手にした。 その次に登録された8月16日のアラバマステークス(G1・サラトガ・10ハロン)は9頭立てで行われ、ストップチャージングマリアは単勝オッズ2.0倍の断然1番人気に支持されていた。レースが始まるとサイズという馬とミスビサイルが先頭を争う展開になり、結果サイズが先手に立って進んでいた。ジョン・ヴェラスケスを鞍上に載せたストップチャージングマリアは内ラチ沿いの有利な位置を独占し、下がってきたミスビサイルを寄せ付けずに先頭集団につけていた。1マイルが過ぎたところで先頭に立ったストップチャージングマリアはそのまま先頭を維持し、最後の直線で追い上げてきたジョイントリターンという馬を3/4馬身差抑えてゴール、G1連勝を飾った。またこの勝利によって、プレッチャー調教師は北米で2人目となるステークス競走1000勝の記録を達成している。 その後コティリオンステークス(G1・パークスレーシング・8.5ハロン)に登録していたがこれを直前で回避、その代わりに古馬との混合戦であるベルデイムステークス(G1・ベルモントパーク・9ハロン)に出走したが、ベルギャランティに逃げ切られ8馬身半差の2着に敗れた。 9月30日、馬主のリポールはストップチャージングマリアをファシグ・ティプトンのノベンバーセールに上場することを発表した。そして実際に上場されたものの、落札希望価格であった3,150,000ドルに達しなかったため主取りとなった。それから少し後に、ルイス・コーテリスとキキ・コーテリスの所有するタウン・アンド・カントリーレーシング社に庭先取引で売り渡されている。
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3歳時(2017年)
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「サンダースノー」の記事における「3歳時(2017年)」の解説
1月にはダート未出走ながらアメリカ三冠競走への予備登録を行い、2月のUAE2000ギニーで始動。自身初となるダートを克服し5馬身差で圧勝した。続くUAEダービーでも日本から遠征してきたエピカリスとの叩き合いを制し、優勝。ケンタッキーダービーへの出走馬選定の100ポイントを獲得した。しかし、本番のケンタッキーダービーでは発馬直後に跳ね上がるような歩様になり競走中止となった。 その後立て直し愛2000ギニー、セントジェームスパレスSへ出走、それぞれ2、3着と好走。そして7月にシャンティ競馬場で行われたジャンプラ賞を制覇、G1競走2勝目を挙げる。続くジャック・ル・マロワ賞は1番人気に推されたがアルウケール、インスオブコートに次ぐ3着に敗れ、その後10月のクイーンエリザベス2世Sでは過去最低の15着と大きく崩れてしまった。
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3歳時(2019年)
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「アンソニーヴァンダイク」の記事における「3歳時(2019年)」の解説
3歳時は5月11日のリングフィールド競馬場でのリステッド競走ダービートライアルステークスから始動し、2着パブロエスコバルに2馬身4分の1差をつけて1番人気に応えて3歳初戦を飾った。240回目を迎える英ダービーに、エイダン・オブライエン厩舎からの3本目の矢として向かうこととなる。 2019年6月1日のダービー当日はエイダン・オブライエン厩舎のセカンドジョッキーであるシーミー・ヘファーナン(英語版)を鞍上に迎え、チェスターヴェースを8馬身差で圧勝したサードラゴネット、デリンズタウンスタッドアイリッシュダービートライアルステークス勝ち馬のブルーム、前走のダンテステークスでトゥーダーンホットをねじ伏せて追加登録の上で出走してきたジョン・ゴスデン厩舎のテレキャスターに次ぐ4番人気の支持を得る。エイダン・オブライエン厩舎自体も他にジャパン、ノルウェー、サーカスマキシマス(英語版)およびソヴリン(英語版)の4頭を加えて出走馬13頭中過半数を超える7頭出しとなった。 レースでは中団馬群の後ろから進み、最後の直線半ばに達するや否やインコースを突き、サードラゴネット、ブルーム、ジャパンにプレンダガスト厩舎のマドムーンが繰り広げる2着争いの大接戦をしり目にインコースから抜け出してマドムーンに半馬身差をつけて優勝した。46歳のヘファーナンは12回目の英ダービー挑戦で初優勝、エイダン・オブライエンは史上最多タイ記録の英ダービー7勝目を挙げた。ヘファーナンは「それは時間の問題だった。エイダンの馬に乗るときは自信があるし、その馬が本命だろうが大穴だろうが関係ない。いつだってチャンスがあった。」と感謝の言葉を述べた。続く愛ダービーではムーア騎乗で父ガリレオに続く英愛ダービー二冠を目指したものの、ペースメーカーであったソヴリンの大逃げを捕まえることが出来ず2着に敗れる。7月27日のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは、これも父ガリレオ以来となる英ダービーとキングジョージの同一年度での制覇を目指したが、エネイブルの10着と大敗した。
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3歳時(2014年)
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「オーストラリア (競走馬)」の記事における「3歳時(2014年)」の解説
2014年、オーストラリアは春のクラシック前哨戦に出ることなく、イギリス三冠初戦の2000ギニーにぶっつけ (前哨戦に出走せず、直接本戦に臨むこと) で出走した。5月3日にニューマーケット競馬場のロウリーマイルコース (直線走路) で行われた2000ギニーでは、3.5倍の2番人気になった。スタートすると、馬群は幅の広いロウリーマイルコースを左右2つのグループに分かれて進んだが、オーストラリアはそのうちスタンド側 (騎手の目線からは左手側) の集団にいた。オーストラリアはレースの終盤にこの集団の先頭に出たが、反対側を進んだ集団にいたナイトオブサンダーとキングマンが1、2着となり、オーストラリアは3着だった。 2000ギニーのあと、オブライエンは結果に満足していると述べ、イギリスダービーの早売り馬券の倍率は3.25倍から2.75倍へ下がった。オーストラリアは伝統的なダービーの前哨戦には一切出なかったが、有力馬と目されていたゴドルフィングループのトゥルーストーリー(True Story)がダンテステークスで凡走したため、オーストラリアの馬券の倍率はますます下がった。大手ブックメーカーのコーラル社 (en:Gala Coral Group) はオーストラリアに1.66倍のオッズをつけた。 バリードイルで調教を受けた僚馬のうち、オーケストラ (Orchestra) はチェスターヴェースに勝ったが、この競走は前年の勝馬ルーラーオブザワールドがその後ダービーに優勝していたので、オーケストラの前売り馬券の倍率が下がった。キングフィッシャーはディーステークスに勝ち、この年からG3に格下げされたアイルランドダービートライアルではジェフリーチョーサー (Geoffrey Chaucer) が3着になった。これを受けてブックメーカーは、ダービーの2週間前の時点で、ジェフリーチョーサーの倍率を大きく変え、オーストラリアの倍率を少し上げた。降雨の心配から、ダービー直前には道悪巧者のキングストンヒルの倍率が下がり、オーストラリアの倍率はまた少し上がった。前哨戦に全く出なかったのはオーストラリアだけだった。 6月7日のダービーでは、出走馬16頭中、オーストラリアは最終倍率2.375倍の本命、対抗のキングストンヒルが8.5倍、ゴドルフィングループのトゥルーストーリが9倍となった。オーストラリアは輪乗りでも落ち着いていて、最後にゲート入りした。 人気薄で51倍のアワチャンネル (Our Channel) が飛び出してハイペースを作り出し、キングフィッシャー、キングストンヒルが続き、ジョセフ・オブライエン騎手のオーストラリアはその後方に控えた。最終コーナーの手前からオーストラリアが外から進出をはじめ、直線を向くと、キングストンヒルが先頭に立ち、直線の早い段階でオーストラリアがこの先頭争いに加わった。オーストラリアは残り1ハロン近くでキングストンヒルとの競り合いを制して先頭に出ると、最後は1馬身1/4に差を広げてゴールした。 レース後にエイダン・オブライエン調教師はこう語っている。 「いいかい、ずっと前から我々はオーストラリアがすごく特別だとわかっていたんだ。我々はオーストラリアをここへ連れてくるだけでよかった。だがみんな信じてくれなかった。いろいろあったからね。いいかい、things can go wrong so big credit to everyone at home」 ジョセフ・オブライエン騎手のコメント 「オーストラリアほど乗りやすい馬は初めてだ。最高だよ。」 イギリスダービーの3週間後、オーストラリアはカラ競馬場のアイルランドダービーに出走した。キングストンヒルが堅すぎる馬場を嫌って出走を取り消したので、オーストラリアにライバルと呼べそうな馬はおらず、単勝倍率は1.125倍だった。「普段の運動みたいなもの」というほどの楽なレースでオーストラリアは2馬身半差で優勝した。2着にキングフィッシャー、さらに2馬身半差の3着にはオーケストラが入った。初めての古馬との対戦となったインターナショナルステークスも制しG1・3連勝を飾った。続くアイリッシュチャンピオンステークスではザグレーギャツビーの2着に敗れた。 その後チャンピオンステークスに出走予定だったが、右後肢の蹄に故障を発生し引退。アイルランドのクールモアスタッドで種牡馬入りする。
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3歳時(2015年)
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「オーダーオブセントジョージ」の記事における「3歳時(2015年)」の解説
3歳になると長距離戦に出走するようになった。初戦のカラカップ(G3)は2着に敗れるも、次々走のアイリッシュセントレジャートライアルステークス(G3)では2着に7馬身半差をつけて勝利し、重賞初制覇となった。 トライアルを勝利して挑んだアイリッシュセントレジャー(G1)では、直線入り口で先頭に立つとそのまま後続を突き放し、11馬身差をつけて圧勝した。その後はメルボルンカップ(G1)を予定していたが、堅い馬場は合わないというエイダン・オブライエン調教師の判断により回避となった。
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3歳時(2017年)
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3歳シーズンは鞍上をウィリアム・ビュイックに代えて4月の条件ステークス(1マイル2ハロン)から始動。しかし同厩舎のシャッタースピードから2と3/4馬身を付けられての3着に敗北。続けて5月のチェシャーオークス(英語版)(リステッド、1マイル3と1/2ハロン)にランフランコ・デットーリを乗せて出走。これ以降のレースは全てデットーリが騎乗している。アメリカ産馬アルリングリィに1と3/4馬身差を付けて勝利。ここから連勝街道が始まる。 6月2日に行われたオークスに2番人気で出走。道中好位追走から直線で抜け出すと、残り2ハロンあたりから1000ギニー2着で1番人気のロードデンドロンとの叩き合いとなり、最後は5馬身差をつけて圧勝、G1初制覇を果たした。 また、続く愛オークスでは、2番手追走から直線に入って先頭に立つとそのまま後続を突き放し、2着のレインゴッデスに5馬身半の差をつけ圧勝した。英愛オークス連覇はスノーフェアリー以来7年ぶり。 次走に関しては未定であったが、後にキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスへの出走が決定。レースでは先行しながら逃げ馬との差を徐々に詰め、直線では迫る後続を突き放し、2着のユリシーズ(Ulysses)に4馬身半の差をつけて完勝した。レース後、管理するJ.ゴスデン調教師は「彼女は、私が調教した中で最高の牝馬だと思う」と述べた。その後、凱旋門賞に向かう前にヨークシャーオークスに出走すると、同厩のコロネット(Coronet)に5馬身差をつけて圧勝した。 エネイブルは予定通り、12万ユーロの追加登録料を払って凱旋門賞(G1)に出走。圧倒的人気で出走すると、早目先頭に立ってそのまま後続を突き放し、2着のクロスオブスターズ(Cloth of Stars)に2馬身半差をつけて完勝、英国調教の3歳牝馬として初の凱旋門賞制覇となった。 この勝利によりこの年のカルティエ賞年度代表馬・同最優秀3歳牝馬を受賞。
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3歳時(1971年)
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1971年、初戦のグリーナムステークスに勝利したミルリーフは5月にイギリスクラシック三冠第1戦の2000ギニーに出走した。ミルリーフは1番人気に支持され、2番人気がマイスワロー、3番人気がブリガディアジェラードであった。レースでは逃げたマイスワローを交わしたものの後方からレースを進めたブリガディアジェラードに交わされ、3馬身差の2着に敗れた。 翌6月、ミルリーフはイギリスクラシック三冠第2戦のダービーステークスに出走した。ブリガディアジェラードはこのレースには出走せず、ミルリーフが1番人気に支持された。ミルリーフは中団からレースを進め、残り1ハロンの地点で逃げたリンデントリーを交わし、そのまま2馬身の着差をつけて優勝した。7月3日、メロンの意向によりエクリプスステークスに出走したミルリーフはサンダウン競馬場芝10ハロンのコースレコードを記録して優勝した。24日にはキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走し、2着馬に6馬身の着差をつけて優勝した。 キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス優勝後休養をとったミルリーフは10月にフランスに遠征し、凱旋門賞に出走。ロンシャン競馬場芝2400mのコースレコードを記録して優勝した。この年のシーズンを6戦5勝で終えたミルリーフはヨーロッパ年度代表馬に選出され、ジョッキークラブ作成のフリーハンデで首位(133ポンド)に選ばれた。2000ギニーでミルリーフを破り6戦6勝のブリガディアジェラードは2位(129ポンド)であった。
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3歳時(1971年)
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「ブリガディアジェラード」の記事における「3歳時(1971年)」の解説
1971年5月1日、ブリガディアジェラードは前哨戦を走ることなくイギリスクラシック三冠第1戦の2000ギニーに出走した。ブリガディアジェラードの人気はミルリーフ、マイスワローに次ぐ3番人気であったが、レースでは2頭を後方から差し切り、2着のミルリーフに3馬身の着差をつけて優勝した。ブリガディアジェラードはイギリスクラシック三冠第2戦のダービーステークスには出走せず、セントジェームズパレスステークス、サセックスステークス、グッドウッドマイル、クイーンエリザベス2世ステークスと6月から9月にかけて芝1マイルのレースを4連勝した。10月には初めて芝10ハロンのレース(チャンピオンステークス)に出走し、2着リアリティの追い上げをアタマ差凌いで優勝。6戦6勝の成績でこの年のシーズンを終えた。なお、この年にジョッキークラブが発表した3歳フリーハンデでは2000ギニーで破ったミルリーフが1位(133ポンド)で、ブリガディアジェラードは2位(129ポンド)であった。
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3歳時(1991年)
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「ニシノフラワー」の記事における「3歳時(1991年)」の解説
1991年7月7日、札幌開催の新馬戦で、佐藤正雄を鞍上にデビュー。これより前に骨膜炎を生じており、脚の状態を考慮して負担の少ないダート競走が選ばれた。当日は単勝4番人気であったが、2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。次走にはGIII競走の札幌3歳ステークスに出走。「使える適当な番組がない」からという消極的なレース選択だったが、道中2番手から直線で後続を突き放し、ディスコホールに3馬身半の差を付けて優勝。重賞初勝利を収めた。騎乗した佐藤にとっても、これがデビュー22年目で初めての重賞制覇となった。 連勝で松田も本馬の素質を認め、いったん休養に出された。帰厩後、3歳女王戦阪神3歳牝馬ステークスへの前哨戦として、デイリー杯3歳ステークスに出走。騎乗停止中だった佐藤に代わって田原成貴が手綱を執り、前走と同じく3馬身半差で圧勝した。次走に迎えた阪神3歳牝馬ステークスでは騎手が佐藤に戻り、1番人気に支持された。レースは道中5-6番手から直線で抜け出し、ゴール前で追い込んだサンエイサンキュー、シンコウラブリイを退けて優勝。人馬ともに初のGI制覇を果たした。また、この勝利は西山牧場にとっても開業25年目で初めてのGI優勝となった。当年4戦4勝・うち重賞3勝の成績で、翌年1月には当年の最優秀3歳牝馬に満票で選出された。
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3歳時(1966年)
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「フォルリ (競走馬)」の記事における「3歳時(1966年)」の解説
南半球競馬の1年が明けて3歳となった1966年8月、フォルリはポージャ・デ・ポトリロス(アルゼンチン2000ギニー、ダート1600メートル)に出走した。ここでもフォルリはスタートから単騎で独走し、2着馬アントニトに12馬身差、しかも1分33秒4のレコードタイムで圧勝した。このタイムは当時の南アメリカ大陸レコードで、翌日の新聞には「世界の名馬誕生」という大見出しで報道されたという。 しかし、二冠目のジョッキークラブ大賞(芝2000メートル)では、前走12馬身も引き離したアントニトに2馬身差まで詰め寄られる結果になり、距離延長への不安を露呈する。翌戦のナシオナル大賞ではさらに500メートル距離が伸びたダート2500メートルのレースになるが、ラピストイ調教師は「虫に刺されて1週間調教を休まざるを得なかった。それでも馬なりで勝ったでしょう」と弁護、フォルリをナシオナル大賞に登録した。 10月2日に行われたナシオナル大賞において、サパタ騎手の駆るフォルリはスタートから他馬を引き離すいつものスタイルで10馬身ほどの差をつけて軽快に逃げていた。しかし第3コーナーから後続との距離が徐々に縮まっていき、最後の直線では明らかに脚色が衰えてきたフォルリにサパタは初めて鞭を振るった。苦しみながらもフォルリは先頭でゴールを切り、同厩舎の2着馬プロポーサルに1馬身差をつけ三冠を達成した。しかし最後の1ハロン(約201メートル)は15秒というとても遅いラップタイムで、三冠達成にもかかわらず観客席はまるでフォルリが負けたかのように静まり返っていたという。
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3歳時(1909年)
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「マスケット (1906年生まれの競走馬)」の記事における「3歳時(1909年)」の解説
3歳シーズンの初戦は5月20日に行われた牝馬限定戦のレディーズステークス(ベルモントパーク・8ハロン)で5馬身差の楽勝、その後もガゼルステークス(ハバディグレイス・8.5ハロン)は2馬身差、マーメイドステークス(シープスヘッドベイ・9ハロン)では周りより15ポンド重い126ポンドを積まれながらも3馬身差で勝利している。8月5日のサラトガ競馬場で行われたアラバマステークス(9ハロン)は当日大雨不良馬場のなかの開催で、のちに『Daily Racing Form』紙に「行き脚悪し」と評されるようなスローペースの展開となったが、マスケットは終始その先頭に立ち続けてゴール、1分59秒40のタイムで優勝した。 それから2か月後に出走したピアポントハンデキャップ(ジャマイカ・9ハロン)は久々の牡牝混合戦で、ここでマスケットは牡馬相手ながらもそれらより重い124ポンドを課されたものの、それでも26ポンド差ある2着馬ハックに2馬身差で勝利した。しかし、その翌戦に迎えたアケダクトハンデキャップ(アケダクト・8.5ハロン)では13ポンド軽いファイアストーンという馬に最後の直線でハナ差交わされて久々の2着に敗れた。 この年の戦績は前年と同じく6戦5勝で、この年も後年の選考で最優秀3歳牝馬に選出されている。
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3歳時(1894年)
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「ドミノ (競走馬)」の記事における「3歳時(1894年)」の解説
3歳初戦は当時のアメリカ競馬の2000ギニー競走相当とされていたウィザーズステークス(8ハロン・約1609メートル)から始動し、ここで以降のライバルとなるベルモントステークス勝ち馬のヘンリーオブナヴァルと対面し、これをアタマ差で破った。次いでシカゴのアメリカンダービー(12ハロン・約2414メートル)に出走したが、鞍上のタラルは距離を考えて抑えながら走らせようとしたものの、ドミノは行きたがって消耗し、直線に入ってもまったく伸びずに9着と大敗、初の敗北を喫した。 初めての敗北後、フォックスホールはドミノに2ヶ月の休養を与えた。休養明けの初戦はシープスヘッドベイ競馬場でのフライングステークス(6ハロン)で、ここでは130ポンド(約59キログラム)の斤量を課せられたものの、ペースメーカーを3馬身突き放して1分10秒00の好タイムで快勝した。3日後のオーシャンハンデキャップ(8ハロン)も快勝したのち、4歳最強の古馬クリフォードとのマッチレース(8ハロン)が組まれるも、これを撃破している。その次のキュルヴァーステークス(6ハロン)も勝ち、短距離路線での地位を確たるものにしていた。 キュルヴァーステークスの後、ドミノは今度はヘンリーオブナヴァルとのマッチレースが組まれたが、グレーヴセンド競馬場9ハロン(約1810メートル)とドミノの得意距離から少し長い、一方のヘンリーオブナヴァルからしてもやや短いという絶妙な距離条件で行われた。1894年9月15日、グレーヴセンド競馬場には2万人の観衆が詰めかけた。レースはドミノが2馬身先行する形で始まり、4ハロンを過ぎた時点でヘンリーオブナヴァルが並び掛けていった。一度はヘンリーオブナヴァルが先頭に立ったが、直線に向いてドミノが抜き返し、さらにヘンリーオブナヴァルが追いかけた。2頭はほぼ同時に入線し、同着と判定された。 キーン陣営がこのマッチレースを再度行うことを提案すると、今度はクリフォードの陣営も参加を希望し、10月6日のモリスパーク9ハロンの条件で3頭による頂上決戦が行われることになった。レースでは最初ドミノが先行するが、バックストレッチでヘンリーオブナヴァルに捉えられるとそのままずるずると後退していく。結果、ヘンリーオブナヴァルがクリフォードに3/4馬身差をつけて優勝し、ドミノは10馬身も離された大敗を喫した。競走後、タラルはすぐにドミノから降り、手綱を引いて厩舎に戻っていった。ドミノの持病が再発を見せたのだった。
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3歳時(1992年)
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「ナリタタイシン」の記事における「3歳時(1992年)」の解説
1992年7月11日、札幌での3歳新馬戦で横山典弘騎乗でデビューし、6着だった。デビュー戦後球節に疲労が出たため放牧に出され、10月の福島での3歳未勝利戦で復帰し初勝利を挙げた。その後、きんもくせい特別6着、福島3歳ステークスと千両賞で2戦連続2着になった後、重賞初挑戦となったラジオたんぱ杯3歳ステークスでは4コーナー8番手から差し切って重賞を初制覇した。なお、前週に半姉ユーセイフェアリーが阪神牝馬特別に勝っており、姉弟で2週連続の重賞制覇となった。
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3歳時(2022年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:23 UTC 版)
「チューズデー (競走馬)」の記事における「3歳時(2022年)」の解説
3月27日ナース競馬場の未勝利戦(芝8ハロン)に出走し2戦目で初勝利を挙げる。G1初挑戦となった5月1日の英1000ギニーではカシェイの3着、続く5月22日のアイリッシュ1000ギニーではホームレスソングスから5馬身半差の2着と惜敗する。6月3日の英オークスでは道中後方追走から直線で馬場の内側から脚を伸ばすと最後はエミリーアップジョンの追撃を頭差で退けG1初制覇を飾るとともに、全姉マインディングとの姉妹制覇も果たした。
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3歳時(2015年)
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「ゴールデンホーン」の記事における「3歳時(2015年)」の解説
3歳初戦のリステッドレースに勝利すると、次走はダンテステークス(G2)に出走。1番人気は同じジョン・ゴスデン厩舎のジャックホブスであったが、ゴールデンホーンが2馬身3/4差をつけて圧勝した。ダービー出走はダンテステークスの勝ち方次第とされていたため、この勝利の後に、追加登録料75,000ポンドを支払ってのダービー出走が決まった。 ダービーでの鞍上はランフランコ・デットーリであった。後方からのレースとなったゴールデンホーンは、直線外に持ち出すと、先に抜け出したジャックホブスを差し切り3馬身半差をつけて圧勝した。3着はデビュー戦で負かしたストームザスターズであり、ゴールデンホーンとの着差は8馬身であった。 続けて陣営が選択したのはエクリプスステークス(G1)で、古馬との初対戦となった。ダービーでは後方待機であったがここでは逃げを選択し、古馬最有力のザグレーギャツビーに3馬身半差をつけての逃げ切り勝ちを収めた。ゴールデンホーンはここまで5戦無敗であったが、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(G1)を馬場を理由に回避した後に出走したインターナショナルステークス(G1)で、3歳牝馬のアラビアンクイーンに競り負け、初の敗戦となった。 次走のアイリッシュチャンピオンステークス(G1)では逃げていたが残り150メートル地点で外に大きくよれてフリーイーグルと接触。1着入線で審議となったが到達順位通りに確定、勝利した。ゴスデン調教師は「スタンドの影に驚いたから」だと説明した。 ゴールデンホーンは、緩い馬場や、トレヴの主戦ティエリ・ジャルネが指摘した「年内使いすぎ」などの問題もあったが、追加登録料12万ユーロを支払って凱旋門賞(G1)に出走した。スタートを切ったゴールデンホーンは後方集団の外につけると、出走から約13秒後には馬群から離れ、さらに外を追走した。その後、先頭集団に向かって進んで行き、出走から約50秒後にはトレヴのペースメーカーを見る形の2番手につけると、直線で抜け出し、2着のフリントシャーを2馬身差退けて勝利した。このレースの後、鞍上のデットーリはゴールデンホーンを「今まで騎乗した馬の中で恐らく一番だ」と評価している。 引退レースに選ばれたのはブリーダーズカップ・ターフ(G1)であった。同年のアーリントンミリオンステークス(G1)の勝ち馬ザピッツァマンやG1を4勝しているビッグブルーキトゥンなどアメリカのG1馬が出走していたが、ゴールデンホーンに半馬身差つけて勝利したのは凱旋門賞9着の3歳牝馬ファウンドであった。 この年の活躍を受けて、ゴールデンホーンはカルティエ賞年度代表馬、最優秀3歳牡馬に選出された。
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3歳時(2017年)
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「チャーチル (競走馬)」の記事における「3歳時(2017年)」の解説
3歳初戦の英2000ギニー(G1)は約7か月ぶりの実戦であったが、2着のバーニーロイに1馬身差をつけて快勝した。次走は英ダービー(G1)と愛2000ギニー(G1)の2つの選択肢があったが、結局は愛2000ギニー(G1)に出走し、UAEダービー馬のサンダースノーに2馬身半差をつけて勝利した。 グレンイーグルス以来の英愛2000ギニー両制覇を達成した後にセントジェームズパレスステークス(G1)に出走したが、英2000ギニーで2着に下したバーニーロイの4着に敗れた。サセックスステークス(G1)を回避した後、インターナショナルステークス(G1)に出走。直線でバーニーロイと競り合ってこれに競り勝つも、勝ち馬ユリシーズ(Ulysses)に差し切られ2着に敗れた。続くアイリッシュチャンピオンステークス(G1)では直線伸びずに7着大敗となった。クイーンエリザベス2世ステークス3着のあと、米国に遠征しブリーダーズカップ・クラシックに出走したが7着に終わり現役を引退した。
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3歳時(1975年)
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「テンポイント」の記事における「3歳時(1975年)」の解説
テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩した。8月17日に函館競馬場で行われる新馬戦でデビューすることが決まると、鞍上は小川が騎乗を直接指名した鹿戸明が務めることとなった。3日前に行われた調教で優れた動きを見せたことが評価され、当日は50%近い単勝支持率を集め、単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持された。レースでは好スタートから序盤で先頭に立つとそのまま逃げ2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝した。走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものであった。ただし、鹿戸は調教での走りから「『これくらいは走る』と、決して驚きませんでした」と回顧している。この時のレース内容からテンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになった。 新馬戦の後、調教師の小川は年内の出走予定を2回と決めた。2戦目には当初10月の条件戦りんどう特別が予定されたが発熱したため11月の条件戦もみじ賞に変更となった。もみじ賞でテンポイントは2着馬に9馬身の着差をつけて優勝した。 続いて当時の関西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスに出走。テンポイントは単勝支持率が50%を超える1番人気に支持された。レースでは第3コーナーを過ぎたあたりからハミがかからず3番手から6番手まで後退し、勝利が危ぶまれる場面もあったが、第4コーナーで前方への進出を開始。直線の半ばで先頭に立つとそのまま他の馬を引き離し、2着馬に7馬身差を付けて優勝した。走破タイムは同じ日に行われた古馬のオープン競走よりも速いものであった。阪神3歳ステークスを優勝したことで、テンポイントは名実ともに関西のクラシック候補として認識されるようになった。 テンポイントは3戦3勝で1975年のシーズンを終え、この年の優駿賞最優秀3歳牡馬に選出された。同賞の投票候補はテンポイントと朝日杯3歳ステークスを勝ったボールドシンボリの2頭に絞られ、86名中テンポイントに65票、ボールドシンボリに18票と票数の4分の3を占めての選出だった。
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3歳時(1963年)
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1963年11月3日のデビューを予定していたが、その新馬戦に評判の関東馬ウメノチカラが出走するため、デビューを1週間遅らせた。11月10日、京都競馬場での新馬戦(芝1200メートル)でデビューし、3コーナーで先頭に立つとそのまま2着に4馬身差をつけて初勝利。その後も連勝し、当時の関西3歳選手権競走・阪神3歳ステークスへの出走が可能になったが、武田厩舎からはプリマドンナとオンワードセカンドが出走し、シンザンは回避させられ、3歳中距離特別に進み、3連勝とした。
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3歳時(1935年)
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「ブラックヘレン」の記事における「3歳時(1935年)」の解説
1935年に迎えた3歳シーズンの始動は2月27日のハイアリアパーク競馬場で行われた一般戦で、スタートからゴールまで先を行ったまま競馬で2馬身差で勝利を収めた。次走は3月9日のフロリダダービーで、ブラックヘレンにとっては初となる牡馬相手の競走であった。この競走で先頭に立ったのはブラノンという馬で、ブラックヘレンはその後ろにつけて追走、全体のペースを上げていった。最終コーナーでブラックヘレンが先頭に立つと、今度はマンターニャという馬に競りかけられるが、最後の直線で突き放して4馬身差の勝利を手にした。 当初、馬主のブラッドリーはブラックヘレンをプリークネスステークスに登録して、ケンタッキーダービー優勝馬のオマハと対決させようと考えていたが、直前になって登録は取り消された。その代わりに出走した5月25日のワシントンパークで行われたドレクセルパースという競走でブラックヘレンは勝利を挙げた。 その後、ブラックヘレンは6月1日のコーチングクラブアメリカンオークスに出走、13頭立てで行われたこの競走で、同厩舎のブラッドルート・バードフラワーとともに1番人気に支持された。また、ブラックヘレンはブラッドルートらよりも10ポンド重い121ポンドが課せられていた。発走時刻から7分遅れでスタートが切られたこの競走で、スタートから飛び出したのはエイコーンステークス優勝馬のグッドギャンブルで、ブラックヘレンは同馬に外からぶつかられる形で競走が始まった。この2頭が先手を取ろうと押し上げるなか、ブラッドルートとヴィカレスの2頭が外から競りかかっていった。1マイル過ぎでヴィカレスが失速するなか、ブラッドルートが1馬身半ほど間を空けて先頭に立ち、2番手にグッドギャンブル、その後ろにブラックヘレンという展開が続いていった。そして最後の直線、ブラックヘレンは内ラチ沿いに進路を変更、どんどん差を詰めていいって、ブラッドルートの騎手が手綱を緩めた瞬間にハナ差追い越してゴールした。それから2週間後の6月15日に出走したワシントンパーク競馬場のプロスペクトパースでは逆にブラッドルートが勝ち、一方でブラックヘレンは2着に敗れている。 6月22日にブラックヘレンは再び牡牝混合の競走であるアメリカンダービーに出走した。この競走では2歳時に猛威を振るったネリーフラッグや、その他3歳の有力牡馬らが出走していたが、ブラックヘレンはそれらを相手に最初から最後まで先頭を譲らず独走し、半馬身差で牝馬初のアメリカンダービー優勝を達成した。7月13日にはアーリントンパークでのブラックストーンパースという9ハロンの競走に出走して勝利を挙げている。 7月21日にブラッドルートとともにアーリントンクラシックステークスに出走、ここで三冠馬となったオマハと対決になった。レースではオマハを2頭で追走していたが、疲れて失速し、オマハがトラックレコード勝利する一方で4着(ブラッドルートは3着)に敗れた。 この年の夏のブラックヘレンは取りこぼしが多かった。ポトマックハンデキャップではグッドギャンブル相手に7着と大敗、ハバディグレイス競馬場で行われたローズランドパースでは3着に敗れている。10月15日のローレルパークで行われた一般戦において久々に勝利を挙げると、その後メリーランドハンデキャップでもブラッドルートを2着に破って勝利した。
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3歳時(1916年)
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「テディ (競走馬)」の記事における「3歳時(1916年)」の解説
テディは、エドモン・ブラン氏の調教師であるロバート・デンマンによって管理された。
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3歳時(2014年)
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「サトノアラジン」の記事における「3歳時(2014年)」の解説
3歳になり共同通信杯に出走、早めの競馬で3着となる。続く自己条件のゆきやなぎ賞は1.2倍の人気に応えられず2着に敗退。その後、4か月休養し、休養明けの茶臼山高原特別を完勝、昇級戦の九州スポーツ杯でも3馬身で勝利し連勝。続く、神戸新聞杯は4着となり、菊花賞の優先出走権は獲得できなかったが、抽選により菊花賞への出走が叶い、6着となる。2か月ぶりとなった逆瀬川ステークスは6度目の単勝1倍台となるが6着に敗れる。
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3歳時(2021年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 17:33 UTC 版)
「ホットロッドチャーリー」の記事における「3歳時(2021年)」の解説
年初は1月30日のロバート・B・ルイスステークス(G3)で始動、勝ち馬メディーナスピリットに僅差の3着、その後3月20日のルイジアナダービー(G2)でミッドナイトバーボンやマンダルーンといった強豪馬を破って優勝、ケンタッキーダービーへの切符を手にした。この時の勝ちタイム1分55秒06はフェアグラウンズ競馬場9.5ハロンのコースレコードでもあった。 5月1日に迎えたケンタッキーダービー(G1)ではフラビアン・プラ騎手が騎乗し、メディーナスピリットとマンダルーンに次ぐ3着に入った。その後クラシック2冠目であるプリークネスステークス(G1)は回避し、3冠目のベルモントステークス(G1)に照準を絞った。フラビアン・プラはプリークネスステークスをロンバウアーに騎乗して優勝し、このベルモントステークスにもロンバウアーは出走していたが、プラはホットロッドチャーリーに騎乗することを選択している。レースでは先頭に立ってレースを進め、最後にエッセンシャルクオリティに交わされて1馬身1/4差の2着と敗れたが、3着馬ロンバウアー以下はホットロッドチャーリーから11馬身以上離されての決着であった。 夏季は7月17日のハスケルステークス(G1)に出走、マンダルーンと写真判定の末に1位入線となったが、ミッドナイトバーボン鞍上の騎手を落馬させたことから最下位7着へと降着処分となっている。この競走ではニュージャージー州の法規制により鞭の使用が極限まで規制されており、騎乗したプラは「やはり鞭を使えなかったことが影響している。できる限り制御したつもりだった。左で鞭をひとつ打てればよかったのですが、こればかりは仕方ありません」と語っている。 9月25日に出走したペンシルベニアダービー(G1)ではミッドナイトバーボンを2馬身1/4差で破って優勝、初のG1競走勝ちを収めた。この競走において、ミッドナイトバーボンの調教師であるスティーヴン・アスムッセンはミッドナイトバーボンが再びホットロッドチャーリーによって不利を受けたとして審議を申し出たが、裁定は覆らなかった。次走はブリーダーズカップ・クラシック(G1)が予定されている。
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3歳時(2021年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:30 UTC 版)
「フライトライン」の記事における「3歳時(2021年)」の解説
2021年にサンタアニタ競馬場の未勝利戦でデビューし13馬身1/4身差で楽勝。続く9月の2戦目も圧勝した。 あまりの圧倒的な勝ち方に陣営は3戦目にBCスプリント(G1)を熱望したが馬主が拒否したため、年末のマリブステークス(G1)に出走した。G1レースを2勝にBCスプリント2着の実績があるドクターシーヴェルなども出走したが、逃げて直線に入っても後続との差が詰まることなく2着のベイビーヨーダに11馬身半差をつけ圧勝した。
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3(4)歳時(2000年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:12 UTC 版)
「アグネスデジタル」の記事における「3(4)歳時(2000年)」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 第17回マイルチャンピオンシップ 4歳となった2000年は2月のヒヤシンスステークスから復帰したが、ノボジャックの3着と敗れる。的場によれば未だ線の細さが解消されておらず、この競走の直線では一瞬フォームのバランスを崩し「壊れたか」と思ったほどであったという。 その後は、当時外国産馬の春の最大目標となっていたNHKマイルカップを目指し、芝の競走に復帰。クリスタルカップ3着、前哨戦のニュージーランドトロフィー4歳ステークスも3着となり、陣営は芝でも勝負できるという感触を得て、5月7日のNHKマイルカップに臨んだ。当日は4番人気の支持を受けたが、道中7番手の位置から最後の直線で伸びず、そのまま流れこむ形での7着となった。 のち再びダートに戻り、交流重賞・名古屋優駿に出走しレコードタイムで勝利。7月には大井競馬場で行われる交流GI競走・ジャパンダートダービーに出走し、1番人気に支持される。レースでは最終コーナーまで4番手の位置を進んだが、最後の直線で失速し、15頭立ての14着と大敗を喫した。当時の的場の印象ではアグネスデジタルに2000メートルという距離は長すぎ、さらに厚く敷かれた大井のダートも堪え、直線を向いたときにはすでに体力が尽きた状態であった。競走後2カ月の休養をとり、9月にユニコーンステークスで復帰。新馬戦で敗れたマチカネランに2馬身半差を付けて勝利した。10月、古馬(4〈5〉歳以上馬)との初対戦となった武蔵野ステークスでは2着となる。休養を経て、このころには従来の線の細さが解消されつつあった。 秋の最大目標について、陣営はダートのGI競走・ジャパンカップダートと、芝のGI競走・マイルチャンピオンシップの二つの選択肢を設けた。白井はジャパンカップダートを重視し、馬主の渡辺孝男はどちらか決めかねていた。そこで意見を求められた的場は、「芝は問題ないと思います。距離的に2100メートルのダートはちょっと長いのではないでしょうか。マイルの方がいい」と返答し、マイルチャンピオンシップへ向かうことになった。11月19日に迎えたマイルチャンピオンシップは突出した実績馬がおらず、混戦模様といわれる中にあって、芝での実績に乏しいアグネスデジタルは13番人気の評価であった。白井から好調を聞かされていた的場は、楽に好位につけられると踏んでいたが、スタートが切られると流れについていけず、後方からのレース運びとなった。しかし直線に向いたところから追い出すと鋭く伸び、残り200メートルで15番手という位置から先団を一気に差しきり、1番人気のダイタクリーヴァに半馬身差をつけての優勝を果たした。走破タイム1分32秒6はコースレコード。また、13番人気での勝利、その配当5570円は、いずれもレースレコードだった。白井は「思い通りに調整できたので、ひょっとしたらとは思っていた」と語り、的場は「装鞍所で出来はいいと聞いていましたし、今年のメンバーなら面白いと思っていました。特にマークする馬は決めず、この馬のペースを守ることを心がけましたが、最後の脚はすごかったですね。芝・ダートを問わないし、今後が楽しみです」と語った。なお、当時すでに翌春での騎手引退を示唆していた的場は、これが13勝目にして最後のGI制覇となった。
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3歳時(2017年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:51 UTC 版)
3歳初戦のフォンテンブロー賞(G3)を勝利すると、仏2000ギニー(G1)に向かった。最後方を進んでいたブラムトはゴール前でまとめて差し切り、G1初制覇となった。続くジョッケクルブ賞(G1)も後方からの競馬となったが、ゴール直前でヴァルトガイスト(Waldgeist)を差し切りで勝利し、2冠を達成した。 次走のギョームドルナノ賞(G2)も前走、前々走と同じく後方からの競馬となったが、差し切れずにエミネント(Eminent)から9馬身3/4差の5着に敗れた。その後、凱旋門賞は5着、チャンピオンステークスも6着に敗れ、現役を引退し種牡馬入りした。
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3歳時(1969年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 02:59 UTC 版)
「ギャラントブルーム」の記事における「3歳時(1969年)」の解説
5月のリバティーハンデキャップから始動し、2歳時からの連勝を続けていたギャラントブルーム。一方シュヴィーも絶好調で、2頭目のニューヨーク牝馬三冠馬に輝いていた。再戦機運が高まる中、ギャラントブルームは、モンマスオークスではニューヨーク牝馬三冠ですべて2着したヘイルトゥーパッツィーに12馬身差の圧勝を遂げた。シュヴィーとの再戦となった、デラウェアオークスでは繰り上がりながらも1着となり、最後の対戦となった、9月のガゼルステークスは2番人気を覆し、シュヴィーを6馬身1/2差に圧倒した。快進撃は更に続き、10月のマッチメイカーステークスでは、初の古馬戦、9.5ハロンの距離を克服し、名牝ゲイムリーに7馬体差の圧勝。3歳戦ラストとなった、スピンスターステークスは馬券発売のないエキシビジョンレースとなりここも快勝。これらの活躍が評価され、牝馬三冠馬のシュヴィーを抑えて、この年の最優秀3歳牝馬に選出された。
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3歳時(2008年)
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「スプリングソング」の記事における「3歳時(2008年)」の解説
2008年2月2日、小倉競馬場第4競走の3歳新馬戦で中舘英二を鞍上にデビューし、1番人気に応えるデビュー勝ちを収める。その後、最も同馬に騎乗することになる池添謙一とのコンビで500万下条件、オープンの橘ステークスと連勝を飾った。NHKマイルカップでも池添とコンビを組み、9番人気という低評価ではあったが、この年にダービーを制するディープスカイの6着と健闘した。さらに、4ヶ月の休養を挟み参戦したセントウルステークスでも、武幸四郎を鞍上に、9番人気を覆すカノヤザクラの3着と好走。だが、中舘との再タッグで3番人気で挑んだ次走のペルセウスステークスは、ダートとの相性の悪さからか15着に3馬身差以上も離されシンガリ負けを喫した。この年はさらに使い込み3戦し、池添とのコンビで京洛ステークス勝利、京阪杯3着、阪神カップ4着と疲れを見せることなくいずれのレースでも良い成績を残した。
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3歳時(1957年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 05:28 UTC 版)
「ラウンドテーブル」の記事における「3歳時(1957年)」の解説
1957年、1月から2月にかけて連敗したラウンドテーブルはトラビス・M・カーという名の石油成金に売却され、本拠地をケンタッキー州キーンランドからカリフォルニア州サンタアニタへと移した。売却額は14万5000ドルで、種牡馬となった際には権利の25%を3年間クレイボーンファームが保有するという条件が付けられた。売却後2月16日にハイアリーパーク競馬場で行われた一般競走を勝ち、4月に入りベイメドウズステークスとブルーグラスステークスを連勝。続くアメリカ三冠第1戦のケンタッキーダービーでは2番人気に支持されたが3着に敗れた。 ケンタッキーダービーに敗れたラウンドテーブルはプリークネスステークスとベルモントステークスには出走せず、5月末から7月下旬にかけて西部ハリウッドパーク競馬場で行われたレースに出走、初戦で敗れた後5連勝した。その後東部へ移動したが勢いは衰えず、8月31日のアメリカンダービーでケンタッキーダービーを勝ったアイアンリージを下して優勝するなど11月1日にかけて11連勝を達成した。 この時期のラウンドテーブルはプリークネスステークス優勝馬のボールドルーラーとベルモントステークス優勝馬のギャラントマンとともに3歳3強という評価を得ていたが、11月9日のトレントンハンデキャップでは両馬との対決が実現した。レースは122ポンドを背負ったボールドルーラーが優勝し、124ポンドを背負ったギャラントマンが2着、124ポンドを背負ったラウンドテーブルは3着に敗れた。なお、3強が対決したのはこのレースが最後であった。12月に再び西部へ戻ってサンタアニタ競馬場で1勝を挙げ、22戦15勝の成績でこの年のシーズンを終えたラウンドテーブルは芝コースでの活躍が認められ、1957年度の最優秀芝コース馬に選出された。ちなみにこの年の年度代表馬にはボールドルーラーが選ばれた。
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3歳時(2019年)
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「マグナグレシア」の記事における「3歳時(2019年)」の解説
5月4日の2000ギニーで始動。道中馬場の外目を追走し、残り1ハロンから抜け出して先頭に立つとキングオブチェンジに2馬身半差をつけG1レース2勝目を挙げる。しかし5月25日のアイリッシュ2000ギニーは1番人気に推されるも5着に敗退。休養を挟み、古馬との初対戦となった10月19日のクイーンエリザベス2世ステークスでは14着と大敗し、このレースを最後に現役を引退した。
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