30形(27・28)
京急230形を種車に、昭和51年に行われた長尾線昇圧後の昭和52年から55年にかけて7編成14両が投入されました。230型は京急の前身である湖南電鉄時代に、昭和5年から11年にかけてデ1形としてデビューしました。その後昭和38年から39年に更新工事を受け、側扉が取り替えられるなどの改造を受けました。 ことでん入りにあたって、第1編成入線時は2代目30形(元阪神881形)が在籍していたので昭和53年までは75形を名乗っていました。また、偶数車はTc車化され、昭和55年にパンダグラフも撤去されました。第5編成は39-40となるのが4を忌み番号として避け、20形の続き番号で25-26が与えられ、以下続いて27-28・29-30となりました。第4編成となる37-38からは行先表示板の交換を容易にするため、貫通扉を取り付けました。 平成11・12年の600形投入に伴い、27・28号を残しすべて廃車となりました。 |
30系
30形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 18:59 UTC 版)
1953年(昭和28年)に東京都電の中古車体を日本建鉄で改造して入線した半鋼製ボギー車。東京都電では3000形に改造の際に半鋼製車体を新造して電装品や台車は再利用したので、不要となった車体を譲り受けて高床式台車を組み合わせた。31 - 35が在籍した。このうち31・32は元東京都電3000形3233・3234で元の木造車体をなぞる形での鋼体化を行なった。33 - 35は元都電150形で当初から半鋼製車体である。元来車輪径660mmの低床式台車を装備していた車体に車輪径790mmの高床式台車を組み合わせたため、全高が高かった。車高の上がった分停留所のホームに高さを合わせるためステップを継ぎたし、ドアは交換していた。秋田市電全廃と同時に廃車。33号車は秋田市内の幼稚園に寄贈され図書館として使用されたが昭和60年頃までに老朽化のため解体された。
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30形
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元は開業当時の1形1 - 21号車から改造した32形を戦後改番したうちの10輌。正面切妻形が特徴的な上段固定下段上昇式の側面窓配置D9Dの単車で、1961年に廃車された。 車両番号構造車両定員(座席)全長(mm)全幅(mm)全高(mm)自重(t)車輪径(mm)主電動機ギア比駆動制御定格速度定格引張力台車製造所製造年備考30-39 木造 - - - - - - - - - - - - - - 1945
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30形 (初代)
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「高松琴平電気鉄道30形電車」の記事における「30形 (初代)」の解説
二軸電動貨車(有蓋)で、1912年~1913年梅鉢鉄工所製。長尾線の前身である高松電気軌道の貨1形である。開業の1912年に貨1が、翌年貨2が製造されている。全長7.04メートルで木造、運転台はオープンデッキ構造であった。 高松琴平電気鉄道成立時に、30形31~32に改番された。1945年には長尾線の改軌にあわせ、当形式も台車の改造を国有鉄道多度津工場で受けている。しかし、同年7月4日の米軍による高松空襲により、32は焼失・廃車となった。 残る31は、戦後の車輌不足の際に旅客輸送に使用されたが、東京急行電鉄と山陽電気鉄道から購入したボギー車の使用開始に合わせこれは終了した。旧高松電気軌道の車両としては唯一戦後まで生き残った車両だが(旅客車の1形→20形は一部が戦災で焼失、残りも終戦直後に廃車)、その後はあまり使用されず、1963年に正式に廃車となった。
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30形 (3代)
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「高松琴平電気鉄道30形電車」の記事における「30形 (3代)」の解説
もと京浜急行電鉄230形で、1930年 - 1936年 川崎車輌または汽車製造製。1977年から1980年にかけて順次入線した。最大時、25 - 38の2両編成7本14両が在籍したが、1999年から2000年、および2007年に廃車となった。志度・長尾線用では初の2両固定編成・貫通路及び貫通幌付き車両であった。 入線にあたっては、京急車輛工業で以下の改造が行われた。 全車に対し、弱め界磁付きの自動加速制御器を手動加速方式のHL制御器に変更(直列5段、並列4段)。また、ブレーキ制御弁をM三動弁によるAMM自動空気制動から、電磁SME(非常弁併設電磁弁付直通空気制動)に変更。これに伴い圧力計を変更。ATS、無線アンテナなど保安装置を琴電用に交換。なお、台車は振り替えなどの処置によりすべて汽車製造2HE 形鋼組立釣合梁式台車に一旦統一の上で譲渡されている。 偶数番号車の電装を解除し、制御車(Tc)化した。一方で、電動発電機と空気圧縮機を搭載。当初、パンタグラフを載せていたが、これは使用されなかった。のちに撤去され、琴電在来車のそれを置き換えたが、パンタ台はそのまま残された。また、台車は運用線区の橋梁活荷重の制限から、入線後全車とも軽量化を目的としてJ.G.ブリル社製Brill 27-MCB-2X鍛造釣合梁式台車に順次交換され、特に2007年廃車の28に装着のものは日本に輸入され使用された同台車の中で最後まで現役で運用されたケースとなった。 奇数番号車は、偶数番号車と同様、軽量化の必要から台車・主電動機を主に廃車となった30形 (2代)のものに交換。これにより捻出された三菱電機MB-115AF(端子電圧750V時1時間定格出力93.3kW、定格回転数900rpm)電動機と汽車製造2HE台車は、1020形に搭載されていたが性能の芳しくなかった在来モーター・三菱電機MB-98Aの置き換えに玉突きで利用され、性能向上にセットで役立てられた。1979年以降に入線した37・38、25 - 30は、行き先表示板交換を容易にするため前面に貫通扉を設置。併せて連結器をナックル部の上下寸法の大きな並形自動連結器に交換し、連結面は干渉を回避するため幌枠も移設された。 最初に導入された31・32は当初75形75・76を名乗っていた。これは入籍時点で30形 (2代)の除籍が完了していなかったためである。また、2代と同様の理由により、38まで来たところで29-30、27-28、25-26と編成単位で番号を遡って付番している。なお、車号のうち27 - 29は3代目、25・26は2代目である。 昇圧が完了した長尾線と志度線は車両が共通となり、一時期は、両線の主力として使用された。1994年の瓦町駅改良工事着工に伴う志度線分断により、25-26、33-34、35-36の3編成は長尾線、残りの4編成は志度線の所属となる。 1998年以降、両線に冷房車の600形、700形の投入が開始された。30形はこの代替で1999年から2000年にかけて順次廃車となった。最後に残った志度線の27-28も2001年度に600形の代替で廃車の予定であったが、2001年12月の民事再生法申請に伴い計画は白紙になった。その後、計画が変更され2002年末に、この600形は613-614として長尾線に投入されたため、27-28はその後も志度線に在籍することになった。なお、2002年以降、旧形車はピンク+アイボリーのツートンから茶色+アイボリーのツートンに塗色変更されたが、27-28は志度線標準塗装に変更され、600形・700形同様「ことでん」ロゴの貼り付けが行われた。 結局、志度線の非冷房車は、長尾線を路線改良して大型車を投入し、その玉突で小型車を異動することで代替された。27-28は2007年7月7日・8日に行なわれた、さよなら運転を最後に運用を外れ、廃車・解体された。 非貫通型 32+31(元75形76+75)台車交換前。32と31の台車形状が大きく異なることに注意。 春日川付近 非貫通型 34+33+20形2334の台車はころ軸受化されたBrill 27-MCB-2Xへ交換済み。 瓦町付近 非貫通型 35+36 池戸 - 農学部前(1998年11月) 貫通型 30+29+30形×2並形自動連結器装着当時。 元山付近 貫通型 29+30密着自動連結器へ交換済み。 琴電屋島 (1998年11月) 貫通型 28+27最後まで志度線に在籍した編成で、末期には「ことでん」ロゴが貼付された。 琴電屋島(2004年)
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