5-7歳(1986-88年)
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「スダホーク」の記事における「5-7歳(1986-88年)」の解説
1986年は、アメリカジョッキークラブカップで始動。先行勢の後方から最終コーナーで2番手まで位置を上げ、直線で先頭に立つと後方に1馬身差で重賞2勝目となった。なお、走破タイム2分13秒2はレコードタイムであった。田原は「(前略)今年はスダホークと心中しますよ」と評するほどであった。続く京都記念では中団待機から直線に入り、先行するメジロヘンリーを4分の3馬身かわして重賞連勝、3勝目となった。 サンケイ大阪杯では1番人気に推され、後方から追い上げるも、サクラユタカオーをアタマ差届かず2着。続く天皇賞(春)も単枠指定制度の対象となり、1番人気に推された。後方待機から第3コーナーで位置を上げたものの、後退して7着。それから宝塚記念、毎日王冠、秋古馬三冠競走に出走したがいずれも敗退した。 1987年は、阪神大賞典ではマルブツファーストをアタマ差差し切り重賞4勝目となった。続く天皇賞(春)ではミホシンザンに及ばず3着に敗れた。翌1988年も現役を続行し、宝塚記念では13頭立て8番人気であったが、追い込み3着に食い込んだ。7月上旬、持病の裂蹄が悪化したため、競走馬を引退した。
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5-7歳(1955-1957年)
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「タカオー」の記事における「5-7歳(1955-1957年)」の解説
古馬となった1955年も初開催から始動、ニューイヤーステークスを4着とした後、徐々に復調し、4月29日に天皇賞(春)を迎えた。ダイナナホウシュウが脚部不安のため出走しておらず、当日は1番人気に支持されると、2着セカイイチに4馬身差・コースレコードで圧勝し、八大競走初制覇と同一競走父子制覇を果たした。 次走の東京盃も連勝したが、続くオープン2戦ではそれぞれ72kg、70kgという斤量で4、2着と敗れた。タカオーはすでに一般競走では70kgを超える斤量が不可避となっており、また、当時の天皇賞は一度勝利すると出走権を失う「勝ち抜け制」であったため、目標とするレースもなくなっていた。このため、タカオーはこれを最後に中央競馬の競走登録を抹消し、公営南関東競馬に移籍した。天皇賞優勝馬の地方転出は物議を醸したが、小柄な馬体が嫌われて種牡馬としての受け入れ先がないといった事情もあった。 地方ではA級に編入されたが、往時の能力を発揮することはできず、7歳までに18戦4勝。最後は大井競馬のB級特別戦を制して競走生活を終えた。天皇賞を含む13戦で手綱を執った古山良司によれば、天皇賞当時すでにタカオーの状態は「すっかりガタガタ」だったという。
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5-7歳(1978-1980年)
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「ラッキールーラ」の記事における「5-7歳(1978-1980年)」の解説
2年間の休養を経て、1979年、6歳12月の中山競馬場で復帰したが最下位。1980年、7歳でも現役を続行し、1月から5月にかけて4戦4敗。6月の札幌日経賞では、プリテイキャスト等相手に逃げ切り、32か月ぶりの勝利となった。尾形は、天皇賞(秋)から有馬記念に進み、年末に引退すると宣言した。しかし、その後は札幌記念9着、巴賞、函館記念では連続最下位となり、計画を前倒しして競走馬を引退した。11月30日に中山競馬場にて引退式が行われた。
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5-7歳(1984-86年)
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「ドウカンヤシマ」の記事における「5-7歳(1984-86年)」の解説
1984年初めの金杯(東)で始動、菊花賞で見られた悪癖矯正を大塚と厩務員の下川原で取り組み、5番人気で出走した。好位に位置し、直線で先行勢をかわすと、独走態勢となり、後方に3馬身差をつけて重賞3勝目となった。大塚は第3コーナーの時点で勝利を確信していた。以後6戦したが、京王杯スプリングカップ2着が目立つほどで勝利を挙げることができなかった。 1985年も金杯(東)で始動、連覇を狙ったものの14着となり、4戦続けて二桁着順に敗退した。続いて東京新聞杯(GIII)に、15頭中10番人気の支持で出走、負担重量はメンバー中最も大きかった。2番手に位置し、直線で内側から抜け出した。後方から迫ったダスゲニーを半馬身振り切り重賞4勝目となった。大塚は「(前略)でも正直いってまさか勝てるとはねえ」と述懐している。1969年にタケシバオーも制していることから、東京新聞杯父仔制覇を達成した。単勝式は4050円、枠番連勝式は8350円の高配当となった。その後、中山記念2着と好走するなど4戦したが、いずれも勝利することはできなかった。 1986年も同様に金杯(東)で始動したが8着敗退。以降春は4回出走するも安田記念4着が最高であった。田中は苦戦する平地競走に見切りをつけようと、障害競走の練習を開始するほどであった。夏は函館競馬場に身を置き、巴賞4着、函館記念3着となるなど、好走した。その後は、勝利目指して比較的メンバーの揃わない関西に移籍し、栗東トレーニングセンターの鹿戸明厩舎に転厩した。 転厩初戦、9月14日の朝日チャレンジカップ(GIII)に出走。逃げて後方から追い上げるライフタテヤマをクビ差退け、重賞5勝目を挙げた。美浦所属の大塚から、乗り替わった栗東所属の清水英次は、「(前略)なんとか粘り切ったが凄い馬だね」と振り返っている。その後は関東の天皇賞(秋)や、福島競馬場の福島記念に出走したが、いずれも勝利することはできなかった。
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