エニアック【ENIAC】
ENIAC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 03:11 UTC 版)
ENIAC(エニアック、Electronic Numerical Integrator and Computer[1])[2][3]は、アメリカで開発された黎明期の電子計算機。
- ^ 「電子式数値積分・計算機」の意
- ^ Goldstine 1972
- ^ a b “The ENIAC Story”. Ftp.arl.mil. 2008年9月22日閲覧。
- ^ Shurkin, Joel, Engines of the Mind: The Evolution of the Computer from Mainframes to Microprocessors, 1996, ISBN 0-393-31471-5
- ^ Moye, William T (1996年1月). “ENIAC: The Army-Sponsored Revolution”. US Army Research Laboratory. 2009年7月9日閲覧。
- ^ a b Goldstine 1972, p. 214
- ^ Kennedy, Jr., T. R. (1946年2月15日). “Electronic Computer Flashes Answers”. New York Times. 2011年1月31日閲覧。
- ^ Honeywell, Inc. v. Sperry Rand Corp., 180 U.S.P.Q. (BNA) 673, p. 20, finding 1.1.3 (U.S. District Court for the District of Minnesota, Fourth Division 1973) (“The ENIAC machine which embodied 'the invention' claimed by the ENIAC patent was in public use and non-experimental use for the following purposes, and at times prior to the critical date: ... Formal dedication use February 15, 1946 ...”).
- ^ a b c Wilkes, M. V. (1956). Automatic Digital Computers. New York: John Wiley & Sons. pp. 305 pages. QA76.W5 1956
- ^ “Milestones:Electronic Numerical Integrator and Computer, 1946”. IEEE Global History Network. IEEE. 2011年8月3日閲覧。
- ^ http://encyclopedia2.thefreedictionary.com/ENIAC
- ^ Weik, Martin H. (1955年12月). “Ballistic Research Laboratories Report № 971 — A Survey of Domestic Electronic Digital Computing Systems — page 41”. US Department of Commerce. 2009年4月16日閲覧。
- ^ Farrington, Gregory. ENIAC: Birth of the Information Age. Popular Science 2011年12月15日閲覧。
- ^ もとの写真は次の雑誌記事にある。Rose, Allen (April 1946). “Lightning Strikes Mathematics”. Popular Science: 83–86 2012年4月15日閲覧。.
- ^ Alexander Randall 5th (2006年2月14日). “A lost interview with ENIAC co-inventor J. Presper Eckert”. Computer World. 2011年4月25日閲覧。
- ^ Goldstine 1972, p. 182
- ^ Goldstine 1972, p. 226
- ^ a b Kleiman, Kathryn A. (1997年). “WITI Hall of Fame: The ENIAC Programmers”. 2007年6月12日閲覧。
- ^ “Wired: Women Proto-Programmers Get Their Just Reward”. (1997年5月8日)
- ^ “ENIAC Programmers Project”. Eniacprogrammers.org. 2010年1月27日閲覧。
- ^ “ABC News: First Computer Programmers Inspire Documentary”. 2013年2月22日閲覧。
- ^ Light, Jennifer S. "When Computers Were Women." Technology and Culture 40.3 (1999) 455-483
- ^ Gumbrecht, Jamie (2011年2月). “Rediscovering WWII's female 'computers'”. CNN 2011年2月15日閲覧。
- ^ “A Logical Coding System Applied to the ENIAC”. Ftp.arl.mil (1948年9月29日). 2010年1月27日閲覧。
- ^ http://history-computer.com/ModernComputer/Relays/Stibitz.html Relay computers of George Stibitz, retrieved 2012 Dec 19
- ^ Rojas, R. (1998). “How to make Zuse's Z3 a universal computer”. IEEE Annals of the History of Computing 20 (3): 51–54. doi:10.1109/85.707574.
- ^ Rojas, Raúl. “How to Make Zuse's Z3 a Universal Computer”. 2013年2月22日閲覧。
- ^ https://news.ycombinator.com/item?id=9751312
- ^ ABCに関しては、しばしばその支持者はこのように「初の」「完全な」といったような主張をしており確かに文献にもそのようにあることが多い。しかし、「初の」はともかく、この段落でも後述するように、プログラム内蔵方式では無論なくプログラム制御であると認めることすら難しい機械であるという事実からは、いかなる意味で「完全」なのかは不明である。計算理論に「チューリング完全」という語があるが、むろんその意味も満たしていない。
- ^ B. Jack Copeland (editor), Colossus: The Secrets of Bletchley Park's Codebreaking Computers, 2006, Oxford University Press, ISBN 0-19-284055-X.
- ^ “Rebuilding the ABC” (英語). The Trial. Ames Laboratory (2003年1月22日). 2012年2月15日閲覧。
- ^ 英語版ENIACを参照。
- ^ Jan Van der Spiegel (2007年8月6日). “ENIAC-on-a-Chip” (英語). University of Pennsylvania. 2012年8月20日閲覧。
- ^ Jan Van Der Spiegel (1995年5月9日). “ENIAC-on-a-Chip”. University of Pennsylvania. 2009年9月4日閲覧。
ENIAC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:03 UTC 版)
詳細は「ENIAC」を参照 アメリカで製作されたENIAC (Electronic Numerical Integrator and Computer) は世界初の電子式汎用コンピュータとされている。エレクトロニクスの高速性と複雑な問題を解くためにプログラミング可能な能力を初めて併せ持った計算機である。1秒間に加算または減算を5000回実行可能な性能で、従来の計算機に比べて千倍ほども高速だった(Colossusは論理演算のみで加算はできない)。また、乗算、除算、平方根を計算する装置を備えていた。高速メモリはわずか20ワードぶんしか備えていない(バイト数にして約80バイト)。ジョン・モークリーとジョン・プレスパー・エッカートの指揮でペンシルベニア大学で行われたENIAC開発・製作は、1943年から1945年末までかかった。30トンの重量のある巨大なマシンであり、18,000個以上の真空管を使っている。そのため真空管の故障を最小化することが技術的な最重要課題となった。完成後は約10年間継続的に使われた。 当初のENIACはそれぞれの機能を備えた装置の間の配線をつなぎかえることでプログラミングされていた。これは現代の感覚で言うならCPUのLSIチップ中の配線を違うものに変えているようなものであり、現代のコンピュータとはまだ大きく違っている。ENIACは当初の完成の後も、記憶装置を拡張したり、その拡張された記憶装置を利用してプログラムできるようになったりと構成が変わっているため、その能力についてはその時代によって異なる。よって次の節にあるような一覧表を他の資料などでも見るかもしれないが、一般的に言って絶対にそのことを注意しなければならない。
※この「ENIAC」の解説は、「計算機の歴史」の解説の一部です。
「ENIAC」を含む「計算機の歴史」の記事については、「計算機の歴史」の概要を参照ください。
ENIAC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 02:11 UTC 版)
詳細は「ENIAC」を参照 1942年、モークリーは汎用電子計算機の構築を提案するメモを書いた。その提案は、機械的な可動部品を使用せず、電子技術を使用することによって得ることができる莫大な速度上の利点を強調したものである。この提案はムーア・スクール内で広まったが、その意義はすぐには認識されなかった。陸軍省とムーア・スクールの連絡係(リエゾン)であったハーマン・ゴールドスタイン中尉は、その提案を取り上げ、モークリーに正式な提案書を書くよう依頼した。1943年4月、陸軍はムーア・スクールと契約し、モークリーらの提案による、砲弾の射撃表の計算を加速するための電子計算機、ENIACを建造した。モークリーが概念設計を主導し、エッカートがENIACのハードウェアエンジニアリングを主導した。このプロジェクトには、他にも多くの優秀なエンジニアが貢献した。 その高速計算能力により、ENIACはこれまで解決できなかった問題を解決することができた。それは既存の技術よりも約1000倍高速だった。ENIACは1秒間で5000個の数の加算、あるいは357桁の十進数の乗算をすることができた。 ENIACは、加算、減算、乗算、除算、平方根、入力/出力関数、条件付き分岐のシーケンスとループを実行するようにプログラムできる。プログラミングは当初パッチコードとスイッチで行われ、再プログラミングには何日もかかった。1948年に再設計され、記憶されたプログラムをある程度速度を落として使用できるようになった。 死後の2002年に、ENIACに関する業績に対して全米発明家殿堂に殿堂入りした。
※この「ENIAC」の解説は、「ジョン・モークリー」の解説の一部です。
「ENIAC」を含む「ジョン・モークリー」の記事については、「ジョン・モークリー」の概要を参照ください。
ENIAC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 01:05 UTC 版)
「ハーマン・ゴールドスタイン」の記事における「ENIAC」の解説
ムーアスクールの機械式微分解析機を調整しながら、技術者のジョセフ・チャプラインはゴールドスタインに、ジョン・モークリーの元を訪問することを提案した。モークリーはムーアスクールの物理学の教員で、真空管を使用した電子計算機により計算を何千倍も高速化できることを提案するメモを配布していた。モークリーは提案書を書き、1943年6月にモークリーとゴールドスタインはこのプロジェクトのために陸軍から資金を確保した。ENIACは30か月で200,000人時をかけて建設された。ENIACは巨大で、大きさが30×60フィートもあり、18,000本の真空管を使用し 30トンの重量があった。この装置は20個の数字しか保存できず、プログラムに数日かかった。ENIACは第二次世界大戦の終戦後の1945年後半に完成した。
※この「ENIAC」の解説は、「ハーマン・ゴールドスタイン」の解説の一部です。
「ENIAC」を含む「ハーマン・ゴールドスタイン」の記事については、「ハーマン・ゴールドスタイン」の概要を参照ください。
ENIAC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 15:40 UTC 版)
「アデル・ゴールドスタイン」の記事における「ENIAC」の解説
彼女は、陸軍弾道研究所に接収されていたムーア・スクールで、女性計算手のための数学の講師となり、後にENIACのオリジナルのプログラマとなる6人を含む女性たちに対し、弾道軌道(複素微分計算)を手動で計算できるように訓練した。計算手による作業は戦争遂行にとって重要であり、女性は男性よりも迅速かつ正確に仕事をすることができるとみなされていた。第二次世界大戦の戦局が優位になる1943年には、基本的に全ての計算手は女性となり、現場監督者もほとんどが女性だった。 彼女は、6人の女性計算手(キー・マクナルティ、ベティ・ジェニングス、ベティ・スナイダー、マーリン・ウェスコフ、フラン・バイラス、ルース・リターマン)に対し、論理的・電気的なブロック図を使用してENIACの「プログラム」ができるように訓練した後、ENIACの取扱説明書を執筆した。ENIACでは、別の問題を解くためには、部品を再配置して、ワイヤを物理的に抜き差しする必要があった。この作業は、「プログラム」という言葉はまだなかったので、当時は「セットアップ」と呼ばれていた。 1946年、彼女はベティ・ジェニングスとリチャード・クリッピンガー(ドイツ語版)とのプログラミングセッションに参加し、クリッピンガーによるENIACのプログラム内蔵方式への変更を支援した。ジョン・フォン・ノイマンは、実装する命令セットの選択に関するコンサルタントだった。これにより、装置で実行するプログラムごとにパッチケーブルを抜き差ししなければならないという問題が解決された。プログラムは3つの関数テーブルに入力された。このテーブルは、以前は軌跡の追跡機能の保存にのみ使用されていた。
※この「ENIAC」の解説は、「アデル・ゴールドスタイン」の解説の一部です。
「ENIAC」を含む「アデル・ゴールドスタイン」の記事については、「アデル・ゴールドスタイン」の概要を参照ください。
ENIACと同じ種類の言葉
- ENIACのページへのリンク