二式単座戦闘機 概要

二式単座戦闘機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 00:46 UTC 版)

概要

従来の陸海軍戦闘機とは異なり旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能をも備えた新時代の優秀機であったが、反面、(日本の戦闘機としては)旋回性能と航続距離には劣り、翼面荷重が大きい。これらは欧米の戦闘機と比べると標準的な値であったが、格闘戦に秀でて操縦も容易な従来機に慣れていた操縦者には、離着陸の難しさ、航続距離の不足などを理由に嫌われる傾向にあった[2]

設計に関わった糸川英夫技師は、「「隼」戦闘機は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である」と戦後の著書に記している。

開発・計画

二式戦二型甲(キ44-II甲)

1937年(昭和12年)12月に制式採用された中島製の九七式戦闘機(キ27)は、主脚こそ保守的な固定脚を採用したものの、陸軍初の全金属製・低翼・単葉の意欲的設計であり、上昇力・旋回性に優れた格闘戦向けの優秀機であった。しかし九七戦登場時、すでに欧州では引込脚のBf 109ドイツ)とスピットファイアイギリス)が出現しており、陸軍は新型戦闘機の開発を模索する[3][4]

参謀本部が示した兵器研究方針によれば、1937年から1938年(昭和13年)当時の陸軍は3種類の戦闘機を研究・開発しようとしていた[5]。まず1機種は従来通り格闘性能を重視した「軽単座戦闘機」、次の1機種は重武装かつ対戦闘機戦にも対大型機戦にも対応できる速度重視の「重単座戦闘機[6]、残る1機種は双発万能戦闘機に基づいた長距離複座戦闘機であった[注 2][7]。これに基づき、中島・川崎・三菱の各社に軽戦と重戦の研究開発指示を出し、これに対する中島の回答が「軽戦」のキ43(一式戦闘機「隼」)と「重戦」のキ44(二式戦闘機「鍾馗」)であった(共に設計主務者は小山悌技師長)。ただしキ43設計チームの青木邦雄技師は、「隼(キ43)」も重戦(Bf 109)を目指したものの、重戦開発経験の浅さから結果として軽戦になってしまったと述べている[8][9]。キ44に対して軽戦主導者からの不要論があったが、同時期のノモンハン事件(後期ノモンハン航空戦)においてソ連赤色空軍戦闘機が一撃離脱戦法を駆使していた戦訓、そのためI-16などの高速機に対して一撃離脱攻撃や追撃の行える新鋭戦闘機の必要性が認められ、停滞していた開発を活発化した[10]

二式戦二型甲(キ44-II甲)

九七戦の発展型として開発の進んだキ43に比べ、重戦というものの開発経験のない陸軍および各メーカーでは基本仕様をまとめるだけでも手間取り、開発スケジュールはキ43よりも後回しにされた。とりあえず中島では陸軍の要求性能が出るよりも先に、Bf 109を目標とし、当時国産で入手可能だった最大出力のエンジンであるハ41(離昇 1,250馬力)を装備し主翼面積は15 m2、武装に20 mm機関砲を装備する予定で開発を進めることになった。青木によれば「鍾馗」は隼が採用されなかった場合の保険機であり、研究機的な側面が強いという[11]。それ故に、中島は「鍾馗」に新技術や新構想を盛り込むことが出来た[11]。陸軍側の要求性能は遅れて1939年(昭和14年)に出され、最大速度 600 km/h以上、上昇時間 5000 m まで5分以内、行動半径600 km等とされた。

陸軍はノモンハン事件の戦訓のみならず、欧米機情勢の研究によって防弾装備に対し理解があったため、キ44には既存の防火タンク(防弾タンク・防漏燃料タンクとも。タンク被弾時に漏洩・発火を防ぐためタンク外装を積層ゴムなどで包んだセルフシーリング式。なお、陸軍はキ43試作1号機時点で中島に対し防火タンクの装備を命令している)だけでなく、操縦者保護のために座席後部に13 mm厚の防弾鋼板(防楯鋼板)を日本の戦闘機としては初めて装備している[注 3]。防弾鋼板は頭当てと背当てに装備され、総重量は60 kgであった。

開発指示段階では、武装として固定機関砲1門、固定機関銃2挺の装備が求められていた[12]。翼内には同時期に新開発された榴弾を有する12.7 mm機関砲2門(ホ103 一式十二・七粍固定機関砲)、機首には従来の7.7 mm機関銃2挺(八九式固定機関銃)となっている。陸軍機には少ない引込式尾輪を採用している。

試作・審査

二式戦二型甲(キ44-II甲)

試作機は1940年(昭和15年)10月に初飛行したが、エンジンの性能不足で不具合も多かったため、各所に改良を施し[注 4]

、最終的には高度 3700 mにて最大速度 580 km/h、外板の継ぎ目を目張りした状態では 626 km/hを記録した。しかし、従来の戦闘機に比べて旋回性能で劣り、大直径エンジンのために3点姿勢での前方視界が悪く[注 5]失速速度が高いため高速での着陸が求められた。反面、射撃テストでは優秀な命中率を示し、1941年(昭和16年)夏にドイツから輸入したBf 109 E-7との模擬空戦にてキ44の総合性能はBf 109 Eを上回った[14]。そのため、欧米新鋭戦闘機に対抗可能な戦闘機として有用と位置づけられたが、軽快な格闘戦能力を理想とする多くの古参操縦者からは相変わらずの不評が多かった。

採用・改良

来るべき対英米戦のため、増加試作機によって1941年11月に独立飛行第47中隊[注 6]中隊長坂川敏雄)が編成、英米軍新鋭機への対抗に実用試験を兼ねて同年12月の太平洋戦争大東亜戦争)開戦と共に南方作戦に実戦投入された。初出撃は12月25日であり、時にはキ44の本領を発揮する高速追撃や一撃離脱戦法を駆使するなど特性を生かし、黒江保彦大尉や神保進大尉ら陸軍のエース・パイロットバッファローハリケーンを撃墜するなど戦果を挙げ、実戦では航続距離を除いて運動性は問題とされなくなった。そして1942年2月に二式戦闘機として制式採用された。

開発が難航したことから、試作機テスト中に性能向上のための改修案が検討された。第一次の性能向上策として、搭載エンジンをハ41からこれの改良型であるハ109(離昇1,500馬力)に換装することが試みられた。この改修により速度性能が向上したため、1942年12月に二式戦闘機二型キ44-II)として制式採用された。このためそれまでの生産型は二式戦闘機一型キ44-I)と称される。なお、一型(キ44-I)の生産機数は40機のみで、残り大半機は二型(キ44-II)である。

1943年(昭和18年)には、第二次性能向上型として2,000馬力級エンジンであるハ145を搭載したキ44-IIIの開発がなされるが、この試作機が完成した頃には新型の高性能万能戦闘機であるキ84(のちの四式戦闘機「疾風」)の開発が進んでおり、キ44-IIIは実用化されず、また二式戦の生産自体も1944年末に終了した。総生産機数は各型合計1,225機である。


注釈

  1. ^ 当時の内閣総理大臣東條英機陸軍大将から[1]
  2. ^ これにはキ45の名が与えられ川崎が開発、キ45改を経て二式複座戦闘機(「屠龍」)として制式化されている。
  3. ^ 機体重量の低減が求められていた一式戦は1943年6月から生産の二型(キ43-II)途中より13 mm厚の防弾鋼板を装備。なお、戦闘機以外では九九式襲撃機(キ51)が1939年ないし1940年の試作機時点で防弾鋼板を防火タンクとともに装備済みであった。
  4. ^ エンジンカウル・カウルフラップ・エンジン吸気用カウル開口部の改良[13]
  5. ^ ただし空中で重要な前下方の視界はその絞り込んだ機体設計により極めて良好。
  6. ^ 部隊名は赤穂四十七士にちなむ。
  7. ^ 糸川は著書にて次のように述べている――『この飛行機のデザインは、妙な動機から生まれた。公園に行って、ぼんやりベンチにすわっていたとき、男の子と女の子がブランコをしていた。同じ鉄棒にブランコが二つぶら下がって、一つに女の子が、もう一つに男の子がのっていたわけである。そのブランコは、長さが全く同じだった。振り方の周期は、だから、女の子も男の子も、両方が同じはずなのだが、見ていると、男の子と女の子のブランコは実際、周期が違う。そこで、私はハッとなった。じつは、隼戦闘機の設計でもさんざん苦労したことなのだが、方向舵を踏んで方向を変えようとすると、かならずローリングといって横の運動が起こる。飛行機は、横の運動と縦の運動がカップルする。その神経を断つことができれば、画期的な戦闘機になると、そのとき、チラッと頭にひらめいたのである。この次の戦闘機は、方向舵の操縦、補助翼の操縦などあらゆる操縦、それらが全部カップルしないような、神経が全部断ち切られたようなものであれば、これはものすごいスピードが出るはずである。同時にまた、ものすごい命中精度と上昇力が出るはずである。というようなことがヒントになり、私は、全知全能をつくして鍾馗戦闘機を設計した。 』――[15][要ページ番号]
  8. ^ ダウンスラスト。高迎角時など、斜め風を受けるプロペラの左右面推力差の軽減にも有効。
  9. ^ 1943年10月より改編された独立飛行第47中隊の後身。
  10. ^ これは主翼上面を登り、左右から盛り上がる流れが胴体上半の流れと押し合って干渉するのを幾分でも吸収し流れをスムーズにする意図だと言える。
  11. ^ プロペラ面を通る空気は加速され外気より静圧が低くなって周囲から押されるためプロペラ径より小さい収縮流になる。
  12. ^ なお、翼内装備のホ301は“小粒勇者砲”と呼称されている。
  13. ^ 作中に登場するものの形状はアメリカのM20 75mm無反動砲に近似しているが、具体的な機種名は不明。

出典

  1. ^ 取扱法, p. 1.
  2. ^ 青木 1999, p. 112.
  3. ^ 青木 1999, p. 104.
  4. ^ 青木 1999, p. 107.
  5. ^ 作戦上要望, pp. 3–4.
  6. ^ 作戦上要望, p. 5.
  7. ^ 作戦上要望, pp. 6–7.
  8. ^ 青木 1999, pp. 107–108.
  9. ^ 青木 1999, p. 124.
  10. ^ 大木 1984, p. 4.
  11. ^ a b 青木 1999, pp. 111–112.
  12. ^ 作戦上要望, p. 6.
  13. ^ 酣燈社 設計者の証言 下 pp. 109–112[要文献特定詳細情報]
  14. ^ 青木 1999, pp. 123–124.
  15. ^ 糸川 1980.
  16. ^ a b c 内藤子生 『飛行力学の実際』 日本航空技術協会 1977年、 p. 65
  17. ^ 内藤子生 『飛行力学の実際』 日本航空技術協会 1977年、 p. 66
  18. ^ 大木 1984, p. 27.
  19. ^ 取扱法, p. 67.
  20. ^ 大木 1984, p. 26.
  21. ^ 碇義朗 『疾風 航空技術の戦い』 p. 78 [要文献特定詳細情報]
  22. ^ 山名正夫, 中口博 『飛行機設計論』 養賢堂、1968年 p. 182
  23. ^ 軍用機メカシリーズ③ 光人社 p. 101[要文献特定詳細情報]
  24. ^ 大木 1984, p. 29.
  25. ^ 湯浅謙三訳・野沢正監修『第2次大戦戦闘機』鶴書房刊、1970年[要ページ番号]
  26. ^ 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p. 116
  27. ^ 文林堂編 『世界の傑作機 No.147 特集・陸軍二式戦闘機 鍾馗』 文林堂、1985年[要ページ番号]
  28. ^ 歴史群像編集部 編『決定版 日本の陸軍機』学研パブリッシング、2011年、54頁。ISBN 978-4-05-606220-5 
  29. ^ 空自入間基地修武台記念館:特攻機「桜花」実機など公開/埼玉 - 毎日新聞
  30. ^ a b 「戦翼のシグルドリーヴァ」公式サイト>HERO WINGS ※2020年10月4日閲覧
  31. ^ 「戦翼のシグルドリーヴァ」公式サイト>戦翼通信 vol.02 世界観設定・設定考証 鈴木貴昭氏によるスペシャルコラム 第2回 キ-44II乙 & He100D-1 ※2020年10月4日閲覧






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「二式単座戦闘機」の関連用語

二式単座戦闘機のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



二式単座戦闘機のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの二式単座戦闘機 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS