双蝶々曲輪日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/01 09:08 UTC 版)
概略
- 本作の4年前、1745年(延享2年)の「夏祭浪花鑑」の好評を受け、男の侠気を描く世話物の第二弾として同じ作者集団で書き下ろされた。ゆえに「夏祭」と似通ったところがある。初演時は好評ではなかったが、すぐに歌舞伎に移植されて大当たりとなる。特に力士の力強さを描いた「角力場」が人気となったからである。
- 勇壮な力士の建引と与五郎の「つっころばし」と呼ばれる和事美が堪能できる「角力場」。引窓を効果的に用いて、人々の善意に満ちた行動が感動を呼ぶ「引窓」はともに名場面として人気が高く、この二場がよく単独で上演される。
- 与五郎の演技は喜劇的要素が求められ、濡髪の負けをぼやく話術、贔屓をほめる茶屋の亭主に羽織や財布を気前よく渡した揚句、亭主と濡髪のどてらを羽織って勇ましく退場するなど見どころが多い。
- 「引窓」は明治に初代中村鴈治郎によって復活上演され、のちに二代目實川延若、初代中村吉右衛門、二代目中村鴈治郎、十三代目片岡仁左衛門らに依って引き継がれた。演じる俳優によって多少の演出の差異はあるものの、基本は初代鴈治郎の台本が主流である。
- 名題は二人の力士「長五郎」「長吉」の「長」に因むものである。のち四代目鶴屋南北作「当穐八幡祭」・人情噺「双蝶々」にも活かされている。
- モデルとなった実在の力士濡髪は享保のころの人で、本当は荒石という四股名であったが、喧嘩のとき水を湿らせた紙を額に当てて手ぬぐいを被り、刀よけとしたことから「濡れ紙」とあだ名されたという。
- 濡髪の台詞回しは、義太夫から採り入れられた力士の発声法を真似た相撲言葉が用いられている。演出面では、関取は普段腹が出て足を洗えないので弟子に洗ってもらう習慣があるので、「引窓」では、自分で洗う事が禁じられ、お早に足を洗ってもらうなど、力士の生活習慣がさりげなく採り入れられている。その他には、奥の障子屋台に入る時は、少し身をかがめて大柄な身体を強調するなどの工夫がある。役柄も人気力士が殺人犯となった屈折したもので「大きな体(なり)をした力士が悄々としているところに一種の面白みがあるので、その矛盾が即ち役になっているわけかと存じます。」(四代目市川市蔵談)
- 与兵衛は武士に取り立てられたばかりなので、演技や台詞が世話風と時代風に使い分ける技量が求められる。特に登場時に、「母者人、女房ども」と世話にくだけた直後に「只今立ちった」と武士風の言い方になり、武士に取り立てられた次第を手ぬぐいや扇子を用いて仕方話風に語る箇所、濡髪の人相書をお幸に渡そうと決意して、「両腰差せば南方十次兵衛。」で時代に力こめ、続く「丸腰なれば今までりの南与兵衛」と世話に砕けてざっくばらんに言う個所は、役者の台詞の表現力が見ものとなる。
- 与兵衛が抜け道を教えるくだりは各俳優とも台詞回しに工夫を凝らし、道を隠れている濡髪に教えた後、「よもやそうは参りますまい。」というくだりでは、初代鴈治郎は「よもやそうは」と一旦区切って後「ハハハ・・・」と笑って「参りますまい。」と演じ、二代目延若は「よもやそうは」と区切るのは同じでも、手をぽんぽんと叩いて「参りますまい。」とくだける演じ方で、どちらも巧いやり方であったと十三代目仁左衛門の証言がある。
- お早は元遊女という背景があるだけに「なかなかむつかしい、厄介な役でございまして、世話女房でありながら傾城であった以前の身分も見えなければなりません。・・・また、始終あちらこちらに気を兼ねて、気を配る役でございますから、動き、セリフ共に大変気苦労の要る、難しい役でございます。」(三代目中村時蔵談)
- 母親のお幸は「引窓」の出来を左右する重要な役どころとされ、濡髪の黒子を削り落とそうとしてできずに泣き落とす箇所や、引窓の縄で濡髪縛るときの台詞など母親の愛情が籠った演技で観客を唸らせねばならないだけに腕達者な脇役が演じる。十三代目仁左衛門は母親の愛が重要なポイントとして、「この芝居は、すべての人間が母親の情けを察して行動する。義理の芝居ではなく人情の芝居です。」と説明している。(片岡仁左衛門「芝居譚」より)その意味では、戦後長く活躍した五代目上村吉彌のお幸は絶品と評価された。
- 「引窓」の珍演出に、お早が窓を開け閉めする際に舞台上の照明を付けたり消したりしたのがあったが、かえって効果が上がらなかった。この演出を思いついた八代目市川中車は「考えたら江戸時代には電気がなかったのですからな。」と変な理屈を言っていた。
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