日本の消防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 19:31 UTC 版)
歴史
江戸時代以前までの日本には、消防の組織が置かれず、消化の技術も乏しかったことから、火災に対して為す術がなかった。そのため、失火した場合は打ち首、放火した場合は火あぶりと、非常に厳しい刑罰が科されていた。
江戸時代初期の1629年、幕府から大名へ江戸の町の火消役を命ずる奉書が出された。これを奉書火消といい、日本の消防の淵源と考えられている(但し、出火の報を受けても奉書をいちいち書いて出動を命じるのんびりしたものであり、実際的ではなかったという)。さらに1643年には大名火消として組織が充実・整備された。その後、1657年の振袖火事を受けて、1658年、旗本による定火消(じょうびけし)が始まった。「め組」で有名な町火消は江戸時代中期に南町奉行であった大岡忠相が組織編成したものである。
このように官民で消防組織が編成されたが、ポンプもない時代では技術的にも限界があり、消防活動の中心は、火災周辺の住宅を破壊して延焼を防ぐ破壊消火(除去消火法)であり、消防技術としては龍吐水や水鉄砲など小規模の火を水で消すため道具が作られた程度であった。→江戸の火事の項も参照。
大政奉還に伴い、従来の常設消防機関であった定火消は姿を消し、江戸以来の町火消は消防組と呼ばれるようになる。明治になると、内務省は消防組を警察機関の一部として吸収していった。いわゆる警察消防時代の幕開けである。消防技術の面では、腕用ポンプや蒸気ポンプが輸入・国産化され、近代的な消防戦術が導入された。腕用ポンプは吸管を使い水利部署し、ホースを伸ばして火点を直接攻撃するという現代の消防に通じる消防戦術の歴史上のエポックとなった。また、蒸気ポンプはその運用に技術を要し、消防は高度化・専門化を促され、「鳶職」から消防へと専門化を遂げ、その過程で現代に通じる「消防署」を見る事となった。
大正期には、電話も普及し自動車ポンプが輸入され、都市を中心に消防が充実していき、地方都市でも消防組内に常備部を置くようになった。自動車用のエンジンを使った手引きガソリンポンプや三輪消防ポンプが昭和に入って普及し始める。
第二次世界大戦後は、GHQの指導により警察から独立し、1948年にいわゆる自治体消防制度が発足した。第二次大戦中に警防団として組織された消防組も、警察部門から切り離されて消防団として再出発した。その後、消防は着実に進展を遂げ、20世紀末までに消防常備化がほとんど完了した。
1971年、名古屋市で火災に遭い、一度消火した建物から再び出火した事例があり、建物の関係者が名古屋市消防本部を「注意義務を怠った」として訴えた。類焼者への賠償責任を免除するという失火ノ責任ニ関スル法律が消防署員に対しても適用されるかが争われたが、1978年7月17日、最高裁判所は判決で消防士に重大な過失が無ければ国家賠償の責任は負わないとした(重過失の有無について高等裁判所へ差し戻し)[1]。
注釈
出典
- ^ 重過失ないと消防署員も免責 住民への賠償認めず『朝日新聞』1987年(昭和53年)7月17日夕刊、3版、11面
- ^ 『市町村の消防の広域化の推進に関する答申』(平成18年2月1日 消防審議会答申)
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