総力戦演説

1943年にドイツのベルリンでナチス・ドイツ宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスにより行われた演説

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総力戦演説(そうりょくせんえんぜつ、: Sportpalastrede[2])とは、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの旗色が悪くなり国家総力戦が必要となってきたため、1943年2月18日、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスによりベルリン・スポーツ宮殿において慎重に選ばれた大勢の観衆の前で行われた演説である[3]

1943年2月18日、ベルリン・スポーツ宮殿、旗には "Totaler Krieg - Kürzester Krieg" (総力戦-最短の戦争)と書かれている
映像外部リンク
ドイツ週刊ニュース651号[1]

この演説はゲッベルスの行った演説の中で最も有名なものである。ゲッベルスはドイツが困難な状態に陥りつつあることを率直に認めるとともに、ドイツの敗北は西洋文明全体の崩壊であると主張し、それを避けるためにはドイツ国民はヒトラーの指導に服従し、国の全ての力を戦争に傾注することによってこの難関を打破しなければならないとした。

背景

1942年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は、それまでのドイツ軍の圧倒的な勝利とは打って変わり、連合国の反攻によって一進一退の様相を見せるにいたった。

ソ連クルスクロストフ・ナ・ドヌハリコフというふうに、自国領土を徐々にドイツから取り戻しつつあった。さらにソ連はドイツ軍に占領されていたスターリングラードを再包囲し、次第にドイツ軍を圧倒し始めた。また、北アフリカ戦線ではエルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団は後退しつつあり、トリポリへ輜重を輸送していたドイツの輸送船は1月19日、連合軍によって撃沈された。そしてエジプトリビアにおける戦いはイギリス軍の勝利に終わり、アルジェリアリビアからそれぞれ退却した枢軸国部隊が最後の決戦の地チュニジアで包囲されていた。1943年1月23日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトイギリス首相ウィンストン・チャーチルカサブランカ会議をおこない、ドイツに無条件降伏するよう要求した。

スターリングラード攻防戦1943年2月2日フリードリヒ・パウルス旗下のドイツ第6軍の完全壊滅と降伏によって幕を閉じた。それは、ドイツを主とする枢軸国側が約85万人、ソ連側が約120万人の計200万人の死傷者を出すという、人類史上最大級の惨事のひとつであり、ドイツの退潮を象徴するものとなった。同じ日、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ドイツの総動員に結びつく最初の法律を定め、ドイツ国民がより戦争に集中するようにするため、国中の10万のレストランやクラブが閉鎖された。

ゲッベルスの指揮するドイツの国民啓蒙・宣伝省はスターリングラードの壊滅的敗北をごまかさずに率直に認めた。これは、ゲッベルスが、ドイツ国民の戦争遂行への覚悟を固めさせるためには偽らざる真実を告げることこそが重要だと考えたからであった。その総仕上げとしてゲッベルスは2月18日の演説をおこない、国民に「総力戦」の遂行を呼びかけた。いわば、ゲッベルスはこの演説を、総力戦の実現に向けた国民投票に替えようとしていたのである。会場に集まった2万人の聴衆はゲッベルスの提議に熱狂的な「ヤー(そうだ)!」の歓声によって応えた。また、何百万ものドイツ人がラジオでこの演説を聞き、ドイツ全土に大きな影響を引き起こした。

内容

ゲッベルスは演説において3つの命題を提示した。

  1. ドイツ軍が東部戦線で敗退すれば、ドイツが(後にはヨーロッパ全体が)ボルシェビキのものとなる事
  2. ドイツ軍、ドイツ人、枢軸国のみにヨーロッパをこのボルシェビキの脅威から救う力がある事
  3. 危険はすぐそばにあり、ドイツは素早く、迅速に決定しなければ、手遅れになる事

ゲッベルスは「2000年に及ぶヨーロッパの歴史は危機的状況にある」と結論し、ドイツの失敗をユダヤ人のせいにした。ゲッベルスはソ連の総動員を「悪魔的である」と言及し、それを「我々が同一でなくとも、等しい方法で総力戦を戦い抜かない限り、我々はボルシェビキの脅威から逃れることはできない」と説明した。その後、ゲッベルスはそれに対応する臨時処置について演説し、実行される緊縮政策を正当化した。

演説のクライマックスで、ゲッベルスは同一の内容の10個の質問を聴衆に投げかけ、聴衆の熱狂的な「ヤー(そうだ)!」の嵐を引き出した。これにより、ドイツ人が勝利への希望を失ったという連合国の主張を否定し、ヒトラーの指導のもと、この戦争を最後まで勝ち抜く覚悟にあることを証明したのである。その質問の事例は下記の通りである。

イギリス人どもは、ドイツ国民が勝利への信念を失ってしまったと主張する。しかし、私は諸君に尋ねる、諸君はドイツの最終的な、完全なる勝利を総統とともに、我らとともに信じているか?
イギリス人どもは、ドイツ国民がますます過酷となる戦時労働に嫌気が差していると主張する。ならば私は諸君に尋ねる、諸君ドイツ国民はもし総統が非常事態に命じるならば、10時間、12時間、必要とするならば14時間働く決意があるか?
諸君は総力戦を望むか?諸君は必要とされるならば、我々が今、想像する以上の全面的で徹底的な戦争を望むか?

ゲッベルスは演説の最後を、「国民よ起て!そして嵐よ起きよ!(ドイツ語: Nun Volk, steh’ auf, und Sturm, brich los!)」という文句で締めくくった。これはナポレオン戦争で戦死した詩人テオドール・ケルナーが書いた、「国民は起ち、嵐が起こる(ドイツ語: Das Volk steht auf, der Sturm bricht los.)」という一節を踏まえたものであった。

歴史上この演説は、当時ドイツが処々の問題に直面していたが、戦争を続けるために国家の総力を動員することを可能にしたという点で重要な出来事である。

舞台裏

 
ヘルベルト・マルクセンドイツ語版による風刺画『総力戦演説の聴衆』

スポーツ宮殿で行われた演説において、ナチスの旗及びハーケンクロイツと共に大文字で「TOTALER KRIEG - KÜRZESTER KRIEG(総力戦-最も短期間の戦争)」と書かれた旗があり、その旗は演台の上側に張られた。

この演説の聴衆は、宣伝省によって慎重に選ばれた人々であった。演説後、ゲッベルスはこの観衆はドイツで一番訓練された観衆だ、とアルベルト・シュペーアに語った。

なお、演説が行われた1943年2月18日ミュンヘンでは白いバラ運動で知られるハンス・ショルゾフィー・ショルの2人がゲシュタポに逮捕された。

  1. ^ Deutsche Wochenschau GmbH、1943、「Kundgebung im Sportpalast 18.02.1943」『Die Deutsche Wochenschau)』1943年2月24日、651号。
  2. ^ sport: スポーツ, palast: 宮殿, rede: 演説。
  3. ^ 日時と場所については長野(2001年130頁)参照。

文献

  • 長野明、2001、「総力戦宣言」『第三帝国 奈落への13階段 ナチス政権編年記』文芸社、2001年2月、129~134頁、ISBN 9784835513850

外部リンク