カート・フラッド
カーティス・チャールズ・フラッド(Curtis Charles Flood, 1938年1月18日 - 1997年1月20日)は、MLBの元選手。ポジションは中堅手。アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身。
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テキサス州ヒューストン |
生年月日 | 1938年1月18日 |
没年月日 | 1997年1月20日(59歳没) |
身長 体重 |
5' 9" =約175.3 cm 165 lb =約74.8 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 中堅手 |
プロ入り | 1956年 |
初出場 | 1956年9月9日 |
最終出場 | 1971年4月25日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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経歴
編集1956年にシンシナティ・レッドレッグスと契約。マイナーで打率.340・29本塁打を記録し、9月9日のセントルイス・カージナルス戦でメジャーデビュー。1957年9月25日のシカゴ・カブス戦でメジャー初安打を本塁打で飾る。12月5日に3選手との交換トレードで、1選手と共にカージナルスに移籍。
セントルイス・カージナルス
編集1958年は開幕をマイナーで迎えたが、すぐに昇格。そのままセンターの定位置を確保し、前半戦で打率.317を記録するが後半戦は不振に陥った。その後2年は目立った数字を残せなかった。1961年は8月からレギュラーに定着すると調子を上げ、打率.322を記録。1962年は開幕から17試合連続安打を記録するなど好調で、打率.296、キャリアハイの12本塁打。1963年は後半戦で打率.341を記録し、打率.302、リーグ4位タイの200安打。初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後7年連続で受賞する。1964年はオールスターゲームに初選出される。打率.311、いずれもリーグ最多の211安打・739打席・679打数を記録し、チームの18年ぶりのリーグ優勝に貢献。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは打率.200に終わるが、チームはワールドチャンピオンに輝いた。1965年は打率.310・191安打、キャリアハイの83打点を記録。同年9月3日からリーグ記録の226試合連続無失策。1967年はキャリアハイの打率.335を記録し、チームは3年ぶりのリーグ優勝。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは打率.179と振るわなかったが、ボブ・ギブソンが3勝を挙げる大活躍で3年ぶりのワールドチャンピオンとなった。1968年はチームのキャプテンに就任。メジャー全体で49人が防御率2点台を記録する「ピッチング・イヤー」だったが、メジャー全体で6人のみだった打率3割(.301)を記録し、チームのリーグ連覇に貢献。デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは最終第7戦、両チーム無得点で迎えた7回2死一、二塁のピンチでジム・ノースラップの打球を追う際に転倒し2失点。チームは敗れてシリーズ連覇はならなかった。MVPの投票では4位に入った。
カート・フラッド事件
編集1969年10月7日にディック・アレン他2選手との交換トレードで、ティム・マッカーバー他2選手と共にフィラデルフィア・フィリーズへの移籍が成立。これをフラッドが拒否し、12月24日にMLBコミッショナーのボウイ・キューン宛にトレードの無効を訴える書面を送るが、拒否される。
MLB選手会事務局長のマービン・ミラーは費用の負担等、裁判への全面的支援を約束。また、アメリカを代表する弁護士の1人であったアーサー・ゴールドバーグが報酬を度外視しての協力を約束し、1970年1月16日に、保留条項(選手の自由意志による移籍や、トレード拒否を認めない条項)を奴隷制度に例えて独占禁止法違反と主張し、キューンとMLBに対して410万ドルの損害賠償を求める訴訟を起こす。フラッドは同年のシーズンを棒に振るが、8月に訴えが却下される。トレード自体はフラッドの移籍拒否に伴い、カージナルスがフラッドに代わる2選手を譲渡したことで形式上完結していたが、契約上フラッドもフィリーズの所属となっていた。
以後
編集1970年11月3日にジーン・マーティン(後中日・大洋)他2選手との交換トレードでワシントン・セネターズに移籍するが1年半のブランクは大きく、またプレイするモチベーションも失っており、1971年は13試合に出場して打率.200と振るわず、4月に現役を引退した。裁判はその後も続き最高裁にまで持ち込まれるが敗訴。結果的に自らの選手生命を縮めたが、この問題を通じて保留条項に風穴を開け、これをきっかけに「10年間球界に所属し、5年間同一チームに在籍した選手はトレードを拒否できる」という「10 and 5 ルール(ノートレード条項)」が1975年に作られ、同時に年俸調停制度が始まった。更にはフリーエージェント制度導入のきっかけにもなった。
引退後はオークランド・アスレティックスの専属解説者等を務めたが、若い頃からの飲酒と喫煙がたたり、1997年1月20日に咽頭がんのためロサンゼルス市内で死去。59歳没。
2020年10月19日、MLB選手会はフラッドを称えて、選手会や選手の権利向上に寄与した人物に贈る「カート・フラッド賞 (Curt Flood Award) 」を創設することを発表した[1]。
選手としての特徴
編集ミート力が高く、1960年代に打率.300以上を6度記録してリーグを代表する巧打者として活躍した。6度のうち、3年連続.300以上・2年連続.300以上が、それぞれ1度ずつある。盗塁技術は低く、通算88盗塁に対して盗塁死が73個あり、成功率は55%である。
年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1956 | CIN | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1957 | 3 | 3 | 3 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | .333 | 1.333 | 1.667 | |
1958 | STL | 121 | 461 | 422 | 50 | 110 | 17 | 2 | 10 | 161 | 41 | 2 | 12 | 4 | 0 | 31 | 1 | 4 | 56 | 17 | .261 | .317 | .382 | .699 |
1959 | 121 | 226 | 208 | 24 | 53 | 7 | 3 | 7 | 87 | 26 | 2 | 1 | 0 | 2 | 16 | 0 | 0 | 35 | 6 | .255 | .305 | .418 | .724 | |
1960 | 140 | 442 | 396 | 37 | 94 | 20 | 1 | 8 | 140 | 38 | 0 | 3 | 4 | 4 | 35 | 7 | 4 | 54 | 12 | .237 | .303 | .354 | .656 | |
1961 | 132 | 380 | 335 | 53 | 108 | 15 | 5 | 2 | 139 | 21 | 6 | 2 | 7 | 0 | 35 | 2 | 3 | 33 | 6 | .322 | .391 | .415 | .806 | |
1962 | 151 | 701 | 635 | 99 | 188 | 30 | 5 | 12 | 264 | 70 | 8 | 6 | 8 | 6 | 42 | 0 | 10 | 57 | 11 | .296 | .346 | .416 | .762 | |
1963 | 158 | 714 | 662 | 112 | 200 | 34 | 9 | 5 | 267 | 63 | 17 | 12 | 6 | 2 | 42 | 3 | 2 | 57 | 5 | .302 | .345 | .403 | .748 | |
1964 | 162 | 739 | 679 | 97 | 211 | 25 | 3 | 5 | 257 | 46 | 8 | 11 | 11 | 1 | 43 | 1 | 5 | 53 | 9 | .311 | .356 | .378 | .734 | |
1965 | 156 | 683 | 617 | 90 | 191 | 30 | 3 | 11 | 260 | 83 | 9 | 3 | 6 | 3 | 51 | 4 | 6 | 50 | 10 | .310 | .366 | .421 | .788 | |
1966 | 160 | 667 | 626 | 64 | 167 | 21 | 5 | 10 | 228 | 78 | 14 | 7 | 7 | 4 | 26 | 0 | 4 | 50 | 11 | .267 | .298 | .364 | .663 | |
1967 | 134 | 562 | 514 | 68 | 172 | 24 | 1 | 5 | 213 | 50 | 2 | 2 | 4 | 5 | 37 | 1 | 2 | 46 | 8 | .335 | .378 | .414 | .793 | |
1968 | 150 | 666 | 618 | 71 | 186 | 17 | 4 | 5 | 226 | 60 | 11 | 6 | 6 | 4 | 33 | 2 | 5 | 58 | 8 | .301 | .339 | .366 | .705 | |
1969 | 153 | 672 | 606 | 80 | 173 | 31 | 3 | 4 | 222 | 57 | 9 | 7 | 9 | 2 | 48 | 1 | 7 | 57 | 13 | .285 | .344 | .366 | .710 | |
1971 | WSA | 13 | 40 | 35 | 4 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 2 | 1 | .200 | .300 | .200 | .500 |
通算:15年 | 1759 | 6957 | 6357 | 851 | 1861 | 271 | 44 | 85 | 2475 | 636 | 88 | 73 | 72 | 33 | 444 | 22 | 52 | 609 | 117 | .293 | .342 | .389 | .732 |
- 太字はリーグ1位。
- 1970年は試合出場なし。
獲得タイトル・表彰・記録
編集表彰
編集- ゴールドグラブ賞 7回:1963年 - 1969年
- MLBオールスターゲーム選出 3回:1964年, 1966年, 1968年
脚注
編集- ^ Dayn Perry (2020年10月19日). “MLBPA introduces annual Curt Flood Award to honor those who champion player advocacy” (英語). CBS Sports 2020年10月20日閲覧。