下諏訪町

長野県諏訪郡の町

下諏訪町(しもすわまち)は、長野県諏訪郡。平安時代には土武郷と呼ばれていた。

しもすわまち ウィキデータを編集
下諏訪町
下諏訪町旗 下諏訪町章
下諏訪町旗 下諏訪町章
1948年3月22日制定
日本の旗 日本
地方 中部地方甲信越地方
都道府県 長野県
諏訪郡
市町村コード 20361-1
法人番号 4000020203611 ウィキデータを編集
面積 66.87km2
総人口 18,083[編集]
推計人口、2024年10月1日)
人口密度 270人/km2
隣接自治体 松本市諏訪市岡谷市小県郡長和町
町の木
町の花 つつじ
町歌 下諏訪町の歌
下諏訪町役場
町長 宮坂徹
所在地 393-8501
長野県諏訪郡下諏訪町4613番地8号
北緯36度04分10秒 東経138度04分49秒 / 北緯36.06956度 東経138.08019度 / 36.06956; 138.08019座標: 北緯36度04分10秒 東経138度04分49秒 / 北緯36.06956度 東経138.08019度 / 36.06956; 138.08019
下諏訪町役場
外部リンク 公式ウェブサイト

下諏訪町位置図

― 市 / ― 町 / ― 村

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諏訪湖八島ヶ原湿原下諏訪温泉諏訪大社下社などがある観光地かつ鳥居前町。かつては中山道甲州街道が分岐する宿場として栄えていた。

地理

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下諏訪町は、長野県のほぼ中央にあり、直線距離で県庁所在地長野市から50km、東京から200kmのところにある。町域は、南の諏訪湖から、北の筑摩山地美ヶ原、1,800m級)まであり細長い(町内の美ヶ原は南端部の山林地帯のみで観光には不向き)。町域は細長いが実際に住民が居住しているところは諏訪湖周辺の盆地で居住区域は正方形になっている。標高は長野県内の都市では高い方で中心部はおよそ760m。

河川では、砥川が町の西部を二分するように横断している。また、十四瀬川岡谷市との境界をなしている。八ヶ岳中信高原国定公園が町内にあり、その中に八島ヶ原湿原がある。

町中心部は砥川の扇状地になっている。また、下諏訪町はフォッサマグナの上にある。町域は5000万年前は海底にあった。

森林面積は5,510haで、町域全体の約82%を占める。

気候

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下諏訪町などの諏訪地方は中央高原型 (5d) の気候が顕著に現れるところにある。の寒さは厳しく、特に早朝は零下10度前後まで冷え込むことも度々ある。積雪は多くても30cmほどである。雨は少なく全体的に乾燥している。梅雨の影響も少ない。諏訪盆地は山に囲まれているので日中でも風速7~8m/sの強い風が吹く場合がある。

気象区分では下諏訪町は長野県中部のうち諏訪地域に入る。

隣接している自治体

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下諏訪町は4市町と隣接している。中でも諏訪市岡谷市とは平続きになっているうえ、同じ「諏訪」のアイデンティティーをもっているため非常に密接な関係にある。ただし、諏訪大社の神事に関しては下社に属し、諏訪市の一部と茅野市が擁する上社とは異なった神事を持っているなど、文化的な差異もある。

松本市とは山を隔てて隣接しており直線距離では比較的近いが、あまりにも山深くかつ地形も険しい等の要因のため、直通できる道路や鉄道は敷設されていない。ただし、岡谷市や塩尻市を経由する形で国道や電車が通っているため、岡谷市や諏訪市ほどではないが密接な関係にあり交流も多い。

長和町とは山を隔てて町域と町域同士で隣接している。国道142号線が敷設されているが、特に冬季の移動が難しく交流が少ない。

以下の表は隣接自治体の位置関係をあらわしたもの。

北西: 松本市 北東: 長和町
西: 岡谷市 下諏訪町(中心部) 東: 諏訪市
南西 南:諏訪湖 南東

人口

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下諏訪町と全国の年齢別人口分布(2005年) 下諏訪町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 下諏訪町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
下諏訪町(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 26,932人
1975年(昭和50年) 26,894人
1980年(昭和55年) 26,574人
1985年(昭和60年) 26,567人
1990年(平成2年) 25,519人
1995年(平成7年) 24,535人
2000年(平成12年) 23,930人
2005年(平成17年) 22,863人
2010年(平成22年) 21,532人
2015年(平成27年) 20,236人
2020年(令和2年) 19,155人
総務省統計局 国勢調査より


歴史

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下諏訪町を含めた諏訪地域は近くに全国でも数箇所しかない石器の材料となる黒曜石の一大産出場である和田峠(町北部から長和町にかけて採掘跡がある)の恩恵により縄文時代から人の居住が見られた。この地域で産出された黒曜石は、関東一円の遺跡から見つかっており、黒曜石の生産に関しては一説によれば日本列島内で最も先進的な地域だったらしい。付近の茅野市には多くの縄文遺跡があり、同市の棚畑遺跡からは国宝に指定された土偶(通称「縄文のビーナス」)が出土している。弥生時代には、出雲などの西国から来た渡来人稲作文化を諏訪へ伝えた。

古代の律令制下において、町域は信濃国諏訪郡の一部であった。続日本紀によると、奈良時代の一時期、諏訪地域は信濃国から分立し、諏方国として1つの国をなしていたが、約十年で信濃国に復された。

戦国時代初期までは現在下諏訪町にある諏訪大社下社方と諏訪市および茅野市にある上社方が闘争状態となる。下社方の金刺氏は上社方の諏訪氏に対して劣勢となったため、上社方の内紛に付け入って復権を図るため戦いを仕掛けるがこれに失敗。最後の当主は甲斐の武田信虎を頼って落ち伸びた。信虎は甲斐国内を統一すると諏訪地方への最初の侵攻を開始するが、金刺氏の失地回復も大義名分のひとつであった。その後、晴信(信玄期)に本格化した信濃侵攻における諏訪攻めによって諏訪とともに武田家に占領される。

諏訪氏の高島藩が支配していた江戸時代の初期に街道整備が行われ、中山道甲州街道を合流させるため、これまで通っていた東山道の道筋を一部改定し、合流点に下諏訪宿を設けた。甲州街道と中山道の分岐であること、北に和田峠、西に塩嶺峠と中山道有数の難所を控えることから、宿場に泊まる旅人が多く大いに賑わった。温泉が湧出している数少ない宿場町のひとつだった。貞享年間は飢饉が続いており、農民は困窮していたが高島藩主が年貢を下げたためなんとか落ち着いた。

明治維新後、萩倉地区の山間部で水車を利用した製糸業が始まる。明治36年の中央線開通により平野部に工場が移転し、諏訪地方の中で最も早く器械製糸が始まった。1910年代から1920年代にかけて隣の岡谷市が資本の集中に成功し、製糸業の中心地として栄えた。その影響が町内にもおよび、諏訪湖周辺は生糸工場が立地し山の裾野では養蚕に必要な桑の栽培と養蚕が盛んであった。

1930年代初頭、日本労働組合全国協議会の一般使用人組合教育労働班が長野県内の事業所に浸透。彼らが小学校教員に働きかけを始めた。この過程で1932年(昭和7年)7月、下諏訪小学校の御真影が盗まれて、校長が身代金を恐喝される事件が発生。捜査の過程で二・四事件が表面化していくこととなった[1]

太平洋戦争中は大規模な工場が大都市から町内を含めた諏訪地域に疎開移転し、それが現在の東洋のスイスと呼ばれるこの町の精密工業の礎となっている。三協精機(後の日本電産サンキョー、現:ニデックインスツルメンツ)によるオルゴール製造で生産高が一時世界一となり、また隣の諏訪市に本社を置くセイコーエプソンは当時の移転があったからこそ、現在の姿があるとされている。

高度経済成長期には諏訪湖の汚染と富栄養化が顕著となり、全国で下位クラスの汚い湖になってしまったが、現在は浄化運動が行われ透明度は改善傾向にある。平成の大合併は諏訪地域にも影響を及ぼし諏訪地域全体で合併する構想も出たが、現在はなくなり自立の道を模索している。

沿革

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  • 1871年(明治4年) - 廃藩置県により、高島県。後に筑摩県に編入する。
  • 1874年(明治7年)10月9日 - 諏訪郡下諏訪町(村格)、友之町(村格)、下原村、久保村、武居村、富部村及び高木村の区域をもって、諏訪郡下諏訪村が発足する。
  • 1876年(明治9年) - 筑摩県の廃止により、長野県に編入する。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、諏訪郡下諏訪村の区域をもって、諏訪郡下諏訪村が発足する。
  • 1893年(明治26年)6月30日 - 町制施行して、下諏訪町となる。
  • 1958年(昭和33年) - 岡谷市の区域の内、東町地籍及び東山田地籍の区域を編入する。
  • 1983年(昭和58年) - 諏訪湖の面積を分割する。

行政

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  • 町長:宮坂 徹(みやさか とおる、2020年12月5日就任、1期目)

町議会

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  • 議員定数:13人(任期:2027年4月30日まで)
  • 議長:樽川 信仁(たるかわ のぶひと)

住所表記

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下諏訪町は1889年(明治22年)の町村制施行から一度も合併を経験していない地方公共団体であり、町村制施行前の自然村を引き継いだという意味での大字は存在しない(小字は存在する)。現在の下諏訪町の正式な住所表記は「下諏訪町○○○番地」または「下諏訪町社○○○番地」のみであり、住民票等の公的文書ではこの形式での記載となる。その一方で、町内には古くから使用されている慣用町名(町内会)が存在しており、この慣用町名を使用した「下諏訪町東赤砂(町内会名)○○○番地」といった表記も流通しており、郵便番号がこの慣用町名ごとに振られていることもあいまって混乱をきたしている[2]

これに対し、町では慣用町名を住所の中に入れる形式ではなく括弧に入れて住所とは別に併記する書き方を推奨し、正式な住所表記が「下諏訪町○○○番地」または「下諏訪町社○○○番地」であることを周知したうえで町の通知文書でもこの表記に統一していくとしている。例えば前述の東赤砂地域の場合、「下諏訪町東赤砂○○○番地」ではなく「下諏訪町○○○番地(東赤砂)」といった表記になる。

教育

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小学校

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中学校

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高等学校

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社会教育

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郵便局

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  • 下諏訪郵便局
  • 下諏訪大門郵便局
  • 下諏訪西浜町郵便局
  • 高木簡易郵便局

交通

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下諏訪駅

鉄道

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路線バス

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道路

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高速道路

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町内に高速道路はない。最寄りのインターチェンジは約5km西にある岡谷インターチェンジ長野自動車道)である。

ナンバープレート

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自動車のナンバープレートご当地ナンバーの諏訪ナンバー(長野運輸支局松本自動車検査登録事務所)が割り当てられている[3]2006年10月10日導入)。

経済

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主要企業

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  • 日亜化学工業株式会社 諏訪技術センター (研究開発拠点)
  • 共立継器株式会社 本社工場 (電磁接触器、電動車輪、端子台など製造・販売)
  • ニデックインスツルメンツ株式会社 本社
  • ひかり味噌株式会社 本社 (味噌、即席味噌汁及び加工食品の製造・販売)
  • 大和電機工業株式会社 本社・下諏訪事業所 (多種めっき類加工装置、精密機械切削加工装置など開発・製造)
  • 株式会社エスク 本社 (「サンエス」ブランドのスケート靴、スケートグッズの開発・製造)

かつてあった企業

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名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

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諏訪大社下社春宮
 
諏訪大社下社秋宮
 
中山道・下諏訪宿本陣
 
下諏訪総合文化センター

友好都市

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出身者

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ゆかりの著名人

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脚注

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  1. ^ 御真影盗難が端緒、七十七人を起訴『東京朝日新聞』昭和8年9月16日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p495 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ クローズアップしもすわ2012年10月号 「町内会」の名称は正式な住所の表示には記載されません、ふぉと☆すとーりーほか 2013年6月16日閲覧。
  3. ^ 長野県初!図柄入りナンバーの導入について”. 北陸信越運輸局. 2024年11月1日閲覧。
  4. ^ しもすわ今昔館おいでや
  5. ^ ニデックオルゴール記念館すわのね
  6. ^ “目標100人達成 「諏訪の国」SNS発信者”. Nagano Nippo Web (長野日報社). (2018年11月10日). http://www.nagano-np.co.jp/articles/40756 2019年1月6日閲覧。 
  7. ^ 1983年京セラに吸収合併。
  8. ^ “毎日フォーラム・霞が関ふるさと記 長野県(下)”. 毎日新聞デジタル (毎日新聞社). (2015年10月9日). https://mainichi.jp/articles/20151008/org/00m/010/049000c 2023年8月9日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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