小頓別駅

かつて日本の北海道枝幸郡中頓別町にあった北海道旅客鉄道の駅(廃駅)

小頓別駅(しょうとんべつえき)は、北海道宗谷支庁枝幸郡中頓別町字小頓別にかつて存在した、北海道旅客鉄道(JR北海道)天北線廃駅)である。電報略号トン事務管理コードは▲121902[4]

小頓別駅
小頓別駅駅舎(ホーム側から撮影)
(1989年3月)
しょうとんべつ
Shō-Tombetsu
上音威子府 (10.2 km)
(5.0 km) 上頓別
所在地 北海道枝幸郡中頓別町字小頓別
北緯44度49分43.5秒 東経142度18分15.3秒 / 北緯44.828750度 東経142.304250度 / 44.828750; 142.304250
所属事業者 北海道旅客鉄道(JR北海道)
所属路線 天北線
キロ程 15.6 km(音威子府起点)
電報略号 トン
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1914年大正3年)11月7日[1]
廃止年月日 1989年平成元年)5月1日[1]
乗換 歌登町営軌道
1970年11月1日廃止)
備考 天北線廃線に伴い廃駅
テンプレートを表示
1977年の小頓別駅と周囲約500m×750m範囲。右が中頓別方面。駅舎を中心に千鳥状の単式ホーム2面2線と駅舎横音威子府側の貨物ホームに引込み線が2本、駅裏に2本の貨物用の副本線を持つ。駅裏には広いストックヤードが広がり、沢山の木材が野積みされている。駅前右横の草生した広いヤードには、この写真の6年前に廃線となった歌登町営軌道の駅前の乗降場の他、貨物線、転車台及び車庫等があったが、既に撤去されている。写真右側の踏切付近から天北線が右上へ向かうが、歌登町営軌道は国道275 号線の下を通って橋梁を渡り、右方先のトンネルを潜って毛登別へ向かっていた[2][3]。また、トンネルが出来る以前は天北線に沿って少し北上してから国道を横切り、国道沿いに岩手地区まで北上してから東へ方向を変えて迂回路の峠へ向かっていた[2][3]。それぞれの軌道跡が右端に見える。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

歴史

編集

木材や紙パルプの発送駅として栄え、道北一の規模と評される貯木場を構えていた[5]。1963年(昭和38年)にはパルプ材7万トンを発送した[5]

また、国鉄線がない歌登町(現:枝幸町歌登)への玄関口の役割も担っていた[5]。このため、急行天北」の停車駅であった。

年表

編集

駅名の由来

編集

開業当時の所在地名は「枝幸郡枝幸村字頓別村[6]」であったが、植民区画の際に種々の冠字が付されていた[8][9]。当地は「小」が冠されており、駅名はそれを採用した。

駅構造

編集

廃止時点で、2面2線の単式ホームを有する地上駅であった。ホームが千鳥式に配置された、列車交換可能な交換駅であった[10]。互いのホームは、駅舎側ホーム西側と対向ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡した[10]。駅舎側ホーム(南側)が上り線、対向ホーム(北側)が下り線となっていた[10]。そのほか上り線の音威子府方から分岐し上り線ホームはす向かいの貨物ホームへの貨物側線を1線、本線の音威子府方から分岐し下り線の外側への貨物側線を2線有していた[10]。かつては豊富な林産資源を背景に多くの側線を有したが、末期にはその多くは撤去されていた。また1983年(昭和58年)時点で、転轍機が撤去された専用線が残存していた[10]

職員配置駅となっており、駅舎は構内の南側に位置し両ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。

1970年(昭和45年)までは、北海道開拓のため建設された殖民軌道の一つであった歌登町営軌道が接続していたが、路線の一部区間が重複する美幸線未成区間建設促進のため廃止された。

急行天北」の停車は歌登枝幸方面へ向かう乗客の便宜を図ったもので、駅前からは枝幸発着の宗谷バスが連絡していた。

利用状況

編集

乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。

国鉄

編集
年度 乗車人員 出典 備考
年間 1日平均
1921年(大正10年) 63 [11]
1935年(昭和10年) 80
1953年(昭和28年) 133
1978年(昭和53年) 83 [5]
1981年(昭和56年) (38.5) [10] 1日当たり乗降客数は67人

歌登町営軌道

編集
年度 乗車人員 出典 備考
年間 1日平均
1935年(昭和10年) 23 [11]
1953年(昭和28年) 18

駅周辺

編集

小市街を形成している。1980年(昭和55年)ごろでも500人程度の人口であったが、製材会社4社が位置する木材の街であった[5]

旧丹波屋旅館(2000年、登録有形文化財に登録)がかつての繁栄の痕跡として残る。

駅跡

編集
 
小頓別駅跡地 (2011年8月6日)

1997年(平成9年)時点ではバスターミナルとなっており、貯炭場らしきコンクリートの遺物も残存していた[12]。2010年(平成22年)時点でも引き続きバスターミナルであった[13]ロータリーとなっており[14]宗谷バスが方向転換に使用している。また駅跡周辺の線路跡は頓別川の改修工事による流路変更のため、川や河川敷地となった。

また2011年(平成23年)時点では、駅跡から南稚内方に行った所に「長屋沢川橋梁」が残存していた[14]

隣の駅

編集
北海道旅客鉄道
天北線
(臨)上音威子府駅 - 小頓別駅 - 上頓別駅
かつて上音威子府駅と当駅との間に天北栄仮乗降場(てんぽくざかえかりじょうこうじょう)が存在した(開業年月日不詳(1956年(昭和31年)11月19日には存在していた)、1965年(昭和40年)10月(日付不詳)廃止)。

脚注

編集
  1. ^ a b c d e 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、904頁。ISBN 978-4-533-02980-6 
  2. ^ a b 1948年撮影航空写真(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)歌登町営軌道の新線と旧線跡。
  3. ^ a b 1954年測量1958年発行5万分の1地形図「音威子府」および同「中頓別」
  4. ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、240頁。doi:10.11501/1873236https://doi.org/10.11501/18732362023年2月11日閲覧 
  5. ^ a b c d e 藤田, 稔 編『国鉄全駅大事典』藤田書店、1980年4月30日、892-893頁。doi:10.11501/12065814https://dl.ndl.go.jp/pid/12065814 
  6. ^ a b 内閣印刷局, ed (1914-10-30). “鉄道院告示 第95号”. 官報 (国立国会図書館デジタルコレクション) (1914). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2952781/1. 
  7. ^ a b c d e f 曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 20号・宗谷本線/留萌本線、朝日新聞出版〈週刊朝日百科〉、2009年11月2日、14-17頁。 
  8. ^ 札幌鉄道局 編『駅名の起源』北彊民族研究会、1939年、84頁。NDLJP:1029473 
  9. ^ 『北海道 駅名の起源』(第1版)日本国有鉄道北海道総局、札幌市、1973年3月25日、185頁。ASIN B000J9RBUY 
  10. ^ a b c d e f g h 書籍『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』(小学館1983年7月発行)188ページより。
  11. ^ a b 中頓別町史 平成9年5月発行 P397/8,855
  12. ^ 書籍『鉄道廃線跡を歩くIV』(JTBパブリッシング1997年12月発行)23-24ページより。
  13. ^ 書籍『新 鉄道廃線跡を歩く1 北海道・北東北編』(JTBパブリッシング、2010年4月発行)15-17ページより。
  14. ^ a b 書籍『北海道の鉄道廃線跡』(著:本久公洋、北海道新聞社2011年9月発行)243ページより。

関連項目

編集