小頓別駅
小頓別駅(しょうとんべつえき)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡中頓別町字小頓別にかつて存在した、北海道旅客鉄道(JR北海道)天北線の駅(廃駅)である。電報略号はトン。事務管理コードは▲121902[4]。
小頓別駅 | |
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小頓別駅駅舎(ホーム側から撮影) (1989年3月) | |
しょうとんべつ Shō-Tombetsu | |
◄上音威子府 (10.2 km) (5.0 km) 上頓別► | |
所在地 | 北海道枝幸郡中頓別町字小頓別 |
所属事業者 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) |
所属路線 | 天北線 |
キロ程 | 15.6 km(音威子府起点) |
電報略号 | トン |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 2面2線 |
開業年月日 | 1914年(大正3年)11月7日[1] |
廃止年月日 | 1989年(平成元年)5月1日[1] |
乗換 |
歌登町営軌道 (1970年11月1日廃止) |
備考 | 天北線廃線に伴い廃駅 |
歴史
編集木材や紙パルプの発送駅として栄え、道北一の規模と評される貯木場を構えていた[5]。1963年(昭和38年)にはパルプ材7万トンを発送した[5]。
また、国鉄線がない歌登町(現:枝幸町歌登)への玄関口の役割も担っていた[5]。このため、急行「天北」の停車駅であった。
年表
編集- 1914年(大正3年)11月7日 - 鉄道院宗谷線音威子府駅 - 当駅間開通に伴い開業(一般駅)[6]。
- 1916年(大正5年)10月1日 - 宗谷線の当駅 - 中頓別駅間延伸開通に伴い、中間駅となる[7]。
- 1919年(大正8年)10月20日 - 路線名を宗谷本線に改称し、それに伴い同線の駅となる[7]。
- 1929年(昭和4年)12月1日 - 歌登村営軌道当駅 - 上幌別(歌登)間開業
- 1930年(昭和5年)4月1日 - 音威子府駅 - 稚内駅間を宗谷本線から削除し路線名を北見線に改称、それに伴い同線の駅となる[7]。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 公共企業体である日本国有鉄道に移管。
- 1961年(昭和36年)4月1日 - 路線名を天北線に改称、それに伴い同線の駅となる[7]。
- 1970年(昭和45年)11月1日 - 歌登町営軌道廃止。
- 1982年(昭和57年)6月1日 - 貨物の取り扱いを廃止[1]。
- 1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取り扱いを廃止[1]。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる[1][7]。
- 1989年(平成元年)5月1日 - 天北線の全線廃止に伴い、廃駅となる[7]。
駅名の由来
編集開業当時の所在地名は「枝幸郡枝幸村字頓別村[6]」であったが、植民区画の際に種々の冠字が付されていた[8][9]。当地は「小」が冠されており、駅名はそれを採用した。
駅構造
編集廃止時点で、2面2線の単式ホームを有する地上駅であった。ホームが千鳥式に配置された、列車交換可能な交換駅であった[10]。互いのホームは、駅舎側ホーム西側と対向ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡した[10]。駅舎側ホーム(南側)が上り線、対向ホーム(北側)が下り線となっていた[10]。そのほか上り線の音威子府方から分岐し上り線ホームはす向かいの貨物ホームへの貨物側線を1線、本線の音威子府方から分岐し下り線の外側への貨物側線を2線有していた[10]。かつては豊富な林産資源を背景に多くの側線を有したが、末期にはその多くは撤去されていた。また1983年(昭和58年)時点で、転轍機が撤去された専用線が残存していた[10]。
職員配置駅となっており、駅舎は構内の南側に位置し両ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。
1970年(昭和45年)までは、北海道開拓のため建設された殖民軌道の一つであった歌登町営軌道が接続していたが、路線の一部区間が重複する美幸線未成区間建設促進のため廃止された。
利用状況
編集乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
国鉄
編集年度 | 乗車人員 | 出典 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
年間 | 1日平均 | |||
1921年(大正10年) | 63 | [11] | ||
1935年(昭和10年) | 80 | |||
1953年(昭和28年) | 133 | |||
1978年(昭和53年) | 83 | [5] | ||
1981年(昭和56年) | (38.5) | [10] | 1日当たり乗降客数は67人 |
歌登町営軌道
編集年度 | 乗車人員 | 出典 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
年間 | 1日平均 | |||
1935年(昭和10年) | 23 | [11] | ||
1953年(昭和28年) | 18 |
駅周辺
編集小市街を形成している。1980年(昭和55年)ごろでも500人程度の人口であったが、製材会社4社が位置する木材の街であった[5]。
旧丹波屋旅館(2000年、登録有形文化財に登録)がかつての繁栄の痕跡として残る。
- 北海道道400号小頓別停車場線
- 北海道道12号枝幸音威子府線
- 国道275号(頓別国道)
- 小頓別郵便局
- 天北峠 - 駅から南西に約2.3km[10]。
- 頓別川 - 駅の南[10]。
- 小頓別川
- 宗谷バス「小頓別」バス停留所:天北宗谷岬線、都市間バス
駅跡
編集1997年(平成9年)時点ではバスターミナルとなっており、貯炭場らしきコンクリートの遺物も残存していた[12]。2010年(平成22年)時点でも引き続きバスターミナルであった[13]。ロータリーとなっており[14]、宗谷バスが方向転換に使用している。また駅跡周辺の線路跡は頓別川の改修工事による流路変更のため、川や河川敷地となった。
また2011年(平成23年)時点では、駅跡から南稚内方に行った所に「長屋沢川橋梁」が残存していた[14]。
隣の駅
編集脚注
編集- ^ a b c d e 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、904頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
- ^ a b 1948年撮影航空写真(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)歌登町営軌道の新線と旧線跡。
- ^ a b 1954年測量1958年発行5万分の1地形図「音威子府」および同「中頓別」
- ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、240頁。doi:10.11501/1873236 。2023年2月11日閲覧。
- ^ a b c d e 藤田, 稔 編『国鉄全駅大事典』藤田書店、1980年4月30日、892-893頁。doi:10.11501/12065814 。
- ^ a b 内閣印刷局, ed (1914-10-30). “鉄道院告示 第95号”. 官報 (国立国会図書館デジタルコレクション) (1914) .
- ^ a b c d e f 曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 20号・宗谷本線/留萌本線、朝日新聞出版〈週刊朝日百科〉、2009年11月2日、14-17頁。
- ^ 札幌鉄道局 編『駅名の起源』北彊民族研究会、1939年、84頁。NDLJP:1029473。
- ^ 『北海道 駅名の起源』(第1版)日本国有鉄道北海道総局、札幌市、1973年3月25日、185頁。ASIN B000J9RBUY。
- ^ a b c d e f g h 書籍『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』(小学館、1983年7月発行)188ページより。
- ^ a b 中頓別町史 平成9年5月発行 P397/8,855
- ^ 書籍『鉄道廃線跡を歩くIV』(JTBパブリッシング、1997年12月発行)23-24ページより。
- ^ 書籍『新 鉄道廃線跡を歩く1 北海道・北東北編』(JTBパブリッシング、2010年4月発行)15-17ページより。
- ^ a b 書籍『北海道の鉄道廃線跡』(著:本久公洋、北海道新聞社、2011年9月発行)243ページより。