YKK
YKK株式会社(ワイケイケイ、英: YKK Corporation)は、日本の非鉄金属メーカーである。
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場(株主コミュニティを組成) |
本社所在地 |
日本 〒101-8642 東京都千代田区神田和泉町1番地 YKK80ビル 北緯35度41分57.0秒 東経139度46分33.4秒 / 北緯35.699167度 東経139.775944度座標: 北緯35度41分57.0秒 東経139度46分33.4秒 / 北緯35.699167度 東経139.775944度 |
設立 |
1943年(昭和18年)6月3日 (創業:1934年(昭和9年)1月1日) |
業種 | 非鉄金属 |
法人番号 | 6010001032696 |
事業内容 | ファスニング、建材、ファスニング加工機械及び建材加工機械等の製造・販売 |
代表者 |
代表取締役会長 猿丸雅之 代表取締役社長 大谷裕明 |
資本金 |
119億9200万円 (2022年3月31日現在)[1] |
発行済株式総数 |
119万9240.05株 (2022年3月31日現在)[1] |
売上高 |
連結: 7,970億1,900万円 単独: 910億1,200万円 (2022年3月期)[1] |
営業利益 |
連結: 601億6,100万円 単独: △71億8,500万円 (2022年3月期)[1] |
経常利益 |
連結: 639億6,400万円 単独: 139億5,900万円 (2022年3月期)[1] |
純利益 |
連結: 440億9,700万円 単独: 157億6,900万円 (2022年3月期)[1] |
純資産 |
連結: 8,372億6,400万円 単独: 3,789億1,000万円 (2022年3月31日現在)[1] |
総資産 |
連結: 1兆1,569億4,100万円 単独: 4,992億4,300万円 (2022年3月31日現在)[1] |
従業員数 |
連結: 44,410人 単独: 4,454人 (2022年3月31日現在)[1] |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | EY新日本有限責任監査法人[1] |
主要株主 |
YKK恒友会(従業員持株会) 21.51% 吉田興産 14.06% みずほ銀行 4.96% 吉田忠裕 4.67% 北陸銀行 3.03% 明治安田生命保険 2.67% (2022年3月31日現在)[1] |
主要子会社 | YKK AP株式会社 100% |
関係する人物 | 吉田忠雄(創業者) |
外部リンク |
www |
特記事項:格付情報 R&I AA-(2017年5月現在) |
東京都千代田区に本社を置く。 吉田忠雄が1934年1月にサンエス商会として創業し、1942年に有限会社吉田工業所、1945年に吉田工業株式会社と改名した。1946年からは「YKK」を商標として使用し、1994年に現在のYKK株式会社に社名変更した。世界最大のファスナーメーカーとして知られており、その世界シェアは45%である[2]。建材会社のYKK APを子会社に持つ。
概要
編集スライドファスナーの生産が有名で、世界シェアの約45%を占める。
社名の由来は旧社名である「吉田工業株式会社(Yoshida Kogyo Kabushikigaisha)」の略称で、Yは創業者の吉田忠雄(富山県魚津市出身)の苗字からきている。
YKKグループの本社機能、およびファスニング事業(Fastening Products)・建材事業(Architectural Products)・工機(Machinery Engineering)の3部門によるグローバル事業経営と世界6極による地域経営を基本としている。富山県黒部市に大規模な生産拠点を置き、世界70カ国/地域122社に拠点を持つ。
沿革
編集サンエス商会→吉田工業所時代
編集- 1934年(昭和9年)1月1日 - 吉田忠雄が、東京府東京市日本橋区蠣殻町2丁目1番地(後に地番変更で2丁目1番地、現・東京都中央区東日本橋)に個人商店「サンエス商会」を設立し、ファスナーの加工・販売を開始。サンエス商会の店名は、安田商店がファスナーを『SSS』の商標で売っていたことから付けたもので、サンエス商会の商標にもこれをそのまま使用していた[3]。
- 1938年(昭和13年)2月 - 東京府東京市(現・東京都)江戸川区小松川に工場敷地121坪を購入し工場85坪を新築、「吉田工業所」と改称[4]。
- 1942年(昭和17年)2月 - 有限会社吉田工業所に改称[5]。
- 1945年(昭和20年)
吉田工業時代
編集- 1946年(昭和21年)4月 - 約200m2の工場を増設[9]。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)11月27日 - 伸銅工場(旧・魚津木工所)が原因不明の火災により焼失[11]。
- 1950年(昭和25年)
同社は、このチェーンマシンと同種の機械を100台、日立精機に1台12万円、支払いは30台ずつの条件で発注。 発注した機械は、1951年(昭和26年)5月に10台、8月に20台、1953年(昭和28年)の7月に100台目が納入された。 つまり、アメリカから輸入した4台と日本でコピーした100台は、それぞれ同じ1200万円であった。 コピーするのは当然の流れであったといえる。
- 1951年(昭和26年)3月 - 本社を東京都中央区日本橋馬喰町の東京営業所に移転[14]。
- 1954年(昭和29年)10月 - 富山県黒部市の黒部工場が着工[15]。
- 1955年(昭和30年)5月 - 黒部工場が、圧延伸線工場完成を皮切りに順次稼働[15]。
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
当初は鉄道の便が良く。工場用地が25万坪(825,000m2)ある魚津市を新工場建設の候補としていたが、交渉が捗らない内に、先に黒部市が生地にある10万坪の土地を提供するという申し出があったため、生地の吉田に工場を建設することになった[19]。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 1961年(昭和36年)
- 1963年(昭和38年)8月6日 - 本社を東京都千代田区神田和泉町1番地(藤堂和泉守上屋敷跡、日本通運発祥の地)に地下2階、地上9階建てのビルとして移転[26]。
- 1976年(昭和51年)8月 - 越湖工場第1期工事完成以降、順次稼働開始[27]。
- 1980年(昭和55年)10月17日 - 生地工場(現・黒部工場)で火災。1棟5,442m2半焼[28]。
- 1982年(昭和57年)4月 - 生地工場を黒部工場に、黒部工場を黒部牧野工場に、越湖工場を黒部越湖工場にそれぞれ改称[29]。
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年) - ブラジルで農牧業開始。
- 1986年(昭和61年) - インドネシアにアルミ建材初の海外一貫生産工場稼働。
YKK時代
編集- 1994年(平成6年)8月 - 商号を「ワイケイケイ株式会社」に変更[33]。
- 2003年(平成15年) - 建材製造事業本部がYKK AP株式会社に統合し、YKKグループ建材事業の完全一体化。
- 2007年 9月中間期の連結最終損益が123億9000万円の赤字,欧州委員会の声明によると、メーカー同士で価格引き上げ、最低価格の固定、顧客の配分などを決めていたという。
- 2011年(平成23年)
- 2015年 (平成27年)
- 2016年(平成28年)
- 3月 - TOTO株式会社、大建工業株式会社と共同で「ショールーム名古屋」を開設。
- 4月 - 関連子会社であるYKK APエクステリア株式会社、九州エクステリア工業株式会社、北陸PG株式会社の3社を合併。窓リフォーム商品「かんたん マドリモ」の販売を開始。高断熱玄関ドア「InnoBest」の販売を開始。「YKK APショールーム品川」を「YKK AP体感ショールーム」としてリニューアル。YKK AP R&Dセンターを開設。TOTO株式会社、大建工業株式会社と「ショールーム金沢」を開設。
- 7月 - TOTO株式会社、大建工業株式会社と「ショールーム高松」を開設。
- 12月 - TOTO株式会社と「ショールーム新潟」を開設。
- 2017年(平成29年)
- 4月 - 「営業本部」「開発本部」「生産本部」「業務本部」「住宅本部」「エクステリア本部」「リノベーション本部」「ビル本部」の8本部制に組織変更。アルミ樹脂複合窓「エピソードNEO」の販売を開始。インテリアドアシリーズ「famitto」の販売を開始。
- 5月 - YKK AP R&Dセンター(ドイツ)を開設。
- 7月 - TOTO株式会社、大建工業株式会社と「ショールーム札幌」を開設。
- 11月 - 「製品安全対策優良企業 経済産業大臣賞」を受賞、「製品安全対策ゴールド企業」に認定。
- 2018年(平成30年)8月 - YKK AP R&Dセンター(インドネシア)を開設。
- 2019年(平成31年)
- 3月 - パートナーズサポートスタジオを開設。
- 4月- 「営業本部」「開発本部」「生産本部」「業務本部」「品質本部」「住宅本部」「エクステリア本部」「リノベーション本部」「ビル本部」の9本部制に組織変更。
- 2021年(令和3年)4月 - 知財功労賞(経済産業大臣表彰)を受賞[37]。
- 2023年(令和5年)3月 - コーポレートロゴを改定[38]。
- 2024年(令和6年)
日本拠点
編集その他
編集- YKK株式会社創設者(吉田忠雄)死去後、YKKのロゴマークの字体及び色を変更(赤から青へ)。前述の通り、2023年3月のコーポレートロゴ改定に伴い、YKKロゴマークの色が水色に変更された。
- 同社株式に対するIPO詐欺事件が発生したため、「YKK株式会社は株式を一切上場していない。今後も上場の予定はない」と公式サイトにて公表している[42]。ただし、かつてはグリーンシートの前身にあたるリージョナル市場に株式を登録していた。現在は富山県在住者に限り島大証券(旧富証券)を通した地場株としてのみ売買が可能である。
- 社員による自社株の購入がYKK恒友会(従業員持株会)を通じて認められている。
- 2021年4月、YKK APを含むYKKグループは正社員の定年を廃止した。これにより、本人が希望すれば何歳でも給与水準や役職を維持しながら正社員として働くことが可能となった。この会社規模での定年制廃止は珍しく、生涯現役への柔軟な対応を見せた。
- 1954年、魚津市で3万坪の工場用地を所得しようとしたが上手くいかず、これを知った当時の市長や市議会、商工会がYKKを誘致するため黒部市牧野地区に3万坪の土地を確保し、黒部市の生産拠点化の足掛かりとなった。その後YKKは再度魚津市と工場用地確保の交渉に入ったが、この間に黒部市が生地駅裏付近10万坪の土地を用意し提供した。この好意に対し吉田社長は黒部市に総合運動場用地買収費として1,000万円を寄付している[43]。。
関連企業
編集吉田家
編集- 吉田忠雄(創業者) - 吉田久松(YKKの設立に貢献した、忠雄の兄弟)
- 吉田忠裕(創業者長男)1947年1月5日生まれ。慶應義塾大学法学部、ノースウェスタン大学のビジネススクールでMBAを取得。YKKには1972年に入社、1978年に取締役に就任。創業者の吉田忠雄の後を継ぎ、1993年に社長に就任した。実子ではなく養子であると日経新聞の私の履歴書で告白している[44][45]。実父は創業者長兄の久政[44][46]。2011年6月には代表取締役会長に就任し、社長には非創業家出身の猿丸雅之が就任した。2018年6月には代表取締役会長を退き、後任には猿丸雅之が就任した。吉田は常々「経営から70〜73歳で退きたい」と明言しており、2020年6月には取締役を辞任し、相談役に就任した。
提供番組
編集- 世界の窓(BS-TBS) - 一社提供
- 北日本放送制作昼の帯ドラマ - 前期のみ。
- ゲンコツの海(北日本放送) - 一社提供。
- ビックリ決定版!!(日本テレビ) - 一社提供。
- YKKアワー キックボクシング中継(TBS) - 途中より。
- ゴールデン洋画劇場(フジテレビ)
- クイズ100人に聞きました(TBS) - 開始当初は一社提供番組であり、『YKKファミリーアワー クイズ100人に聞きました』というタイトルだった。
- 筑紫哲也NEWS23(TBS)
- 日本テレビ火曜8時枠時代劇
- 報道ステーション(テレビ朝日) - 火曜日に提供中。
- ニュース・パレード(文化放送)
- YKK Sound Galley AZ - (J-WAVE、DJ:加藤和彦)
※現在は子会社であるYKK APの提供が多い。
脚注・出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k YKK株式会社『第86期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書』(レポート)2021年6月29日。
- ^ “YKKのファスナーが、他社に追随されない理由”. ITmedia ビジネスオンライン. 2022年1月4日閲覧。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)9頁『サンエス商会の設立』より。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)442。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)23頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)26頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)29、32頁。
- ^ a b 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)31頁。
- ^ a b 『本江郷土史』(2021年11月15日、本江地区振興会発行)83頁。
- ^ a b 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)444頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)40、41頁。
- ^ a b 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)446頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)42 - 43頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)45頁。
- ^ a b 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)57頁。
- ^ a b c 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)448頁。
- ^ a b 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)448頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)70頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)69頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)72 - 73頁。
- ^ 『北日本新聞』1958年9月27日付朝刊8面『紡績工場が完成 吉田工業 テープ工場も建てる』より。
- ^ a b 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)73頁。
- ^ 富山県護国神社『富山県における聖帝四代の御製を拝す 』富山県護国神社、2012年、p78頁。
- ^ a b 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)83頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)451頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)87 - 88頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)454頁。
- ^ 『富山県史年表』(1987年3月20日、富山県編集・発行)409頁。
- ^ 『YKK五十年史』(1984年5月1日、吉田工業株式会社発行)127頁。
- ^ a b 『北日本新聞』1984年5月18日付朝刊4面『YKK50ビルが完成 23日披露 前大統領ら招き』より。
- ^ 『北日本新聞』2012年2月7日付5面『「YKK50ビル」に日本建築家協会賞』より。
- ^ “YKK”. www.ykk.co.jp. 2019年4月20日閲覧。
- ^ 対外的表記は「YKK株式会社」を使用していたが、当時は登記上の商号にラテン文字のアルファベットを使用できなかったため、この表記となっていた。詳しくは「商号#商号登記」を参照。
- ^ asahi.com(朝日新聞社):YKKとYKK APの社長交代 ともに創業家以外から-ビジネス・経済 2011年12月23日閲覧
- ^ a b 『北日本新聞』2024年10月30日付6面『黒部に30ビル完成 YKK AP 製造の本部移管』より。
- ^ 『北日本新聞』2015年4月29日付29面『黒部 センターパーク一新 YKK 産業観光で地域振興へ』より。
- ^ 令和3年度「知財功労賞」の受賞者を決定しました経済産業省.2021年9月10日閲覧。
- ^ 『YKK株式会社 新コーポレートロゴ発表 もっとサステナブルに、より速く、より高い品質へ』(プレスリリース)YKK株式会社、2023年3月2日 。2023年8月24日閲覧。
- ^ 『北日本新聞』2024年11月23日付30面下段広告『建材事業創業の地 黒部に YKK AP技術館 本日11月23日一般見学開始』より。
- ^ 『北日本新聞』2024年11月15日付1面『YKK AP技術館完成 黒部 建材事業 歩み紹介』より。
- ^ 『北日本新聞』2024年11月15日付6面『自然光取り込みやすく 新オフィス「30ビル」初公開』より。
- ^ YKK株式会社 当社株式に関するご注意 2011年(平成23年)9月13日付 掲載
- ^ 『村椿村史』(2001年3月27日、村椿振興会発行)319頁。
- ^ a b 日本経済新聞2023年4月1日, p. 44.
- ^ “吉田忠裕(YKK相談役) 私の履歴書(1)ファスナー王”. 日本経済新聞社. 2023年8月15日閲覧。
- ^ 日本経済新聞2023年4月13日, p. 44.
- ^ 北日本新聞 2019年4月5日付28面『ワクワク 統合小学校』より。
- ^ 黒部発・日本一の“ヤギチーズ職人”は、YKK会長のご令嬢N
参考文献
編集- 「私の履歴書 吉田忠裕」『日本経済新聞 東京朝刊』日本経済新聞社、2023年4月1日。
- 「私の履歴書 吉田忠裕」『日本経済新聞 東京朝刊』日本経済新聞社、2023年4月13日。
関連項目
編集- 線ファスナー
- YKKファスニングアワード [1]
- カターレ富山(YKK APサッカー部とアローズ北陸の統合によって誕生)
- 東京電力女子サッカー部マリーゼ(旧母体が「YKK AP東北女子サッカー部フラッパーズ」)
外部リンク
編集- YKK GROUP
- ニッポン・ロングセラー考Vol.013 YKKファスナー - COMZINE by NTTコムウェア 2004.6月号