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'''南長老ミッション'''(みなみちょうろうミッション、'''American Southern Presbyterian Mission''')は、[[アメリカ合衆国]]の[[長老派教会]]の宣教団体。[[合衆国長老教会]]は[[日本]]、[[清]]時代の中国に[[宣教師]]を派遣した。 |
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日本には[[ジェームス・バラ]]宣教師の要請により、[[1885年]]に2人の宣教師が派遣された。[[R・グリナン]]と[[ロバート・マカルピン|R・E・マカルピン]]である。彼らは[[高知県]]で伝道を始めた。高知ではA・ダウドにより、[[高知英和学校]] |
日本には[[ジェームス・バラ]]宣教師の要請により、[[1885年]]に2人の宣教師が派遣された。[[R・グリナン]]と[[ロバート・マカルピン|R・E・マカルピン]]である。彼らは[[高知県]]で伝道を始めた。高知では[[アニー・ダウド|A・ダウド]]により、[[高知英和学校]](現、[[清和女子中学校・高等学校]])が設立された。 |
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南長老ミッションは次に伝道が遅れていた名古屋の |
南長老ミッションは次に伝道が遅れていた名古屋の伝道を開始した。[[1888年]]、[[名古屋市|名古屋]]に[[A・ランドルフ]]により[[金城女学校]]が設立された。 |
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次第に、回心した人々が召命受けて献身に神学教育を受けるようになると。南長老ミッションも神学教育にもかかわるようになった。最初は、[[アメリカ・オランダ改革派教会]]の[[ヘンリー・スタウト]]らの経営する長崎の[[東山学院]][[神学部]]に神学生を送り、宣教師も教授として協力していたが、1897年 |
次第に、回心した人々が召命受けて献身に神学教育を受けるようになると。南長老ミッションも神学教育にもかかわるようになった。最初は、[[アメリカ・オランダ改革派教会]]の[[ヘンリー・スタウト]]らの経営する長崎の[[東山学院]][[神学部]]に神学生を送り、宣教師も教授として協力していたが、1897年(明治30年)に神学部が閉鎖された。そこで、[[1901年]]から[[サムエル・フルトン]]を派遣し、[[北長老ミッション]]の[[明治学院大学|明治学院]]に協力するようになった<ref>中村2000年、37頁</ref>。 |
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明治学院の教授の[[植村正久]]がクラーク著の『キリスト教神学概論』を教科書として使用していることについて、フルトンが[[自由主義神学]]と[[進化論]]を教えていると非難した。宣教師との対立が原因で植村は1903年 |
明治学院の教授の[[植村正久]]がクラーク著の『キリスト教神学概論』を教科書として使用していることについて、フルトンが[[自由主義神学]]と[[進化論]]を教えていると非難した。宣教師との対立が原因で植村は1903年(明治36年)12月明治学院を辞任し、1904年に[[東京神学社]]を設立した。 |
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一方フルトンは、明治学院神学部と袂を分かち、[[1907年]] |
一方フルトンは、明治学院神学部と袂を分かち、[[1907年]](明治40年)に[[福音主義]]の信仰の立場に立った[[神戸神学校]]を設立した<ref>雨宮2009年,123頁</ref>。校長は[[サムエル・フルトン]]である。教授陣は主に南長老ミッションの宣教師と[[プリンストン神学校]]の出身者であった。第1期生の[[富田満]]と第3期生の[[賀川豊彦]]は宣教師とのかかわりのゆえに神戸神学校に転校した。しかし、両者とも南長老ミッションの福音主義的信仰は保たなかった。 |
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[[1927年]] |
[[1927年]](昭和2年)、神戸神学校と[[大阪神学院]]が合併して[[中央神学校]]となった。[[サムエル・フルトン]]の指導により、中央神学校は聖書の[[聖書信仰|十全霊感]]を明確に主張した。また中央神学校は[[宮城遥拝]]と[[神社]]参拝など[[偶像崇拝]]に抵抗した。そのため[[1942年]](昭和17年)[[3月]]に閉鎖された。 |
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中央神学校の卒業生の[[岡田稔]]らが、戦後の[[日本キリスト改革派教会]]と[[神戸改革派神学校]]の設立に関わった。 |
中央神学校の卒業生の[[岡田稔]]らが、戦後の[[日本キリスト改革派教会]]と[[神戸改革派神学校]]の設立に関わった。 |
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== 来日宣教師と初来日 == |
== 来日宣教師と初来日 == |
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*[[R・B・グリナン]](1885年) |
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*[[ロバート・マカルピン|R・E・マカルピン]](1885年) |
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*[[A・H・マカルピン]] |
*[[A・H・マカルピン]](1885年) |
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*[[アニー・ダウド|A・ダウド]](1887年) |
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*[[H・B・プライス]](1887年) |
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*[[サミュエル・フルトン|S・P・フルトン]](1888年) |
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*[[J・W・モーア]](1890年) |
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*[[ジョン・M・L・ヤング]]『天皇制とキリスト教』[[燦葉出版]] |
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*[[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年 |
*[[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年 |
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*[[雨宮栄一]]『牧師植村正久』新教出版社、2009年 |
*[[雨宮栄一 (神学者)|雨宮栄一]]『牧師植村正久』新教出版社、2009年 |
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2024年6月19日 (水) 17:15時点における最新版
南長老ミッション(みなみちょうろうミッション、American Southern Presbyterian Mission)は、アメリカ合衆国の長老派教会の宣教団体。合衆国長老教会は日本、清時代の中国に宣教師を派遣した。
日本にはジェームス・バラ宣教師の要請により、1885年に2人の宣教師が派遣された。R・グリナンとR・E・マカルピンである。彼らは高知県で伝道を始めた。高知ではA・ダウドにより、高知英和学校(現、清和女子中学校・高等学校)が設立された。
南長老ミッションは次に伝道が遅れていた名古屋の伝道を開始した。1888年、名古屋にA・ランドルフにより金城女学校が設立された。
次第に、回心した人々が召命受けて献身に神学教育を受けるようになると。南長老ミッションも神学教育にもかかわるようになった。最初は、アメリカ・オランダ改革派教会のヘンリー・スタウトらの経営する長崎の東山学院神学部に神学生を送り、宣教師も教授として協力していたが、1897年(明治30年)に神学部が閉鎖された。そこで、1901年からサムエル・フルトンを派遣し、北長老ミッションの明治学院に協力するようになった[1]。
明治学院の教授の植村正久がクラーク著の『キリスト教神学概論』を教科書として使用していることについて、フルトンが自由主義神学と進化論を教えていると非難した。宣教師との対立が原因で植村は1903年(明治36年)12月明治学院を辞任し、1904年に東京神学社を設立した。
一方フルトンは、明治学院神学部と袂を分かち、1907年(明治40年)に福音主義の信仰の立場に立った神戸神学校を設立した[2]。校長はサムエル・フルトンである。教授陣は主に南長老ミッションの宣教師とプリンストン神学校の出身者であった。第1期生の富田満と第3期生の賀川豊彦は宣教師とのかかわりのゆえに神戸神学校に転校した。しかし、両者とも南長老ミッションの福音主義的信仰は保たなかった。
1927年(昭和2年)、神戸神学校と大阪神学院が合併して中央神学校となった。サムエル・フルトンの指導により、中央神学校は聖書の十全霊感を明確に主張した。また中央神学校は宮城遥拝と神社参拝など偶像崇拝に抵抗した。そのため1942年(昭和17年)3月に閉鎖された。
中央神学校の卒業生の岡田稔らが、戦後の日本キリスト改革派教会と神戸改革派神学校の設立に関わった。
来日宣教師と初来日
[編集]- R・B・グリナン(1885年)
- R・E・マカルピン(1885年)
- A・H・マカルピン(1885年)
- A・ダウド(1887年)
- H・B・プライス(1887年)
- S・P・フルトン(1888年)
- J・W・モーア(1890年)
- H・W・マイアース(1897年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 中村敏『日本における福音派の歴史』いのちのことば社,2000年
- ジョン・M・L・ヤング『天皇制とキリスト教』燦葉出版
- 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年
- 雨宮栄一『牧師植村正久』新教出版社、2009年