ヘンリー・スタウト
ヘンリー・スタウト Henry Stout | |
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個人情報 | |
出生 |
1838年1月16日 アメリカ合衆国ニュージャージー州ラリタン村 |
死去 |
1912年2月16日(74歳没) ニュージャージー州レイクハースト |
国籍 | アメリカ合衆国 |
教派・教会名 | オランダ改革派 |
両親 | 父:ジョン・スタウト |
配偶者 | エリザベス・プロボスト |
職業 | 宣教師、神学校教師 |
出身校 | ニューブラウンズウィック神学校 |
ヘンリー・スタウト(Henry Stout、1838年1月16日 - 1912年2月16日)は、アメリカ・オランダ改革教会が5番目に派遣した宣教師である。長崎で伝道活動をした。
生涯
[編集]アメリカ合衆国ニュージャージー州ラリタン村でオランダ系アメリカ人ジョン・スタウトの7人兄弟の第3子として生まれた。20歳の時に、父や姉と一緒に洗礼を受けた。1865年にラトガース大学を卒業し、ニューブラウンズウィック神学校に入学する。J・L・アメルマンが同級生だった。1868年には神学校を卒業して、ラリタン中会で教師資格を得た。同年6月にエリザベス・プロボストと結婚する。
1868年(明治元年)に長崎にいたグイド・フルベッキより、アメリカ・オランダ改革派教会海外伝道局に宣教師派遣の要請があり、スタウトが選ばれた。1869年(明治2年)3月10日にスタウトは夫婦でフルベッキのいた長崎に到着した。スタウトが到着して12日後にフルベッキは開成学校の教師になるために東京に転居。スタウト夫妻はフルベッキが住んでいた大徳寺に居を構え、長崎で宣教活動をすることになった。夫妻は自宅内に夜学を開き、聖書を主な教科書として教えた[1]。スタウトはフルベッキの後任として広運館でも英語を教えた。
1872年(明治5年)に、スタウトは広運館教師を辞職して、東山手14番の邸内に聖書を主な教科書に用いて夜間英語塾を始めるが[1]、広運館の生徒らも参加した。同年、妻のエリザベス(Elizabeth G. Stout)も午後の学校として女子塾を開き、裁縫・編み物を主とした女子教育に従事し、長崎市民に喜ばれることとなった。どちらの塾もスタウト塾と呼ばれ、のちに梅香崎女学校に発展した[1]。その中で、瀬川浅が1873年(明治6年)9月に洗礼を受けている。1876年(明治9年)には長崎日本基督公会が組織された。
1874年(明治7年)にC.H.H.ウォルフ、1897年(明治30年)にユージーン・ブース、1884年(明治17年)にハワード・ハリスが短期間滞在したが、やがて東京・横浜に移っていった。
1878年(明治11年)9月の会議でアメリカ改革教会日本伝道会社が組織されて、長崎ステーションと呼ばれるようになった。フルベッキらが手伝いに来てくれることはあったが、スタウトが孤軍奮闘していた。
1883年(明治16年)にデマレスト、1886年(明治19年)にオルトマンズ、1888年(明治21年)にピークらが訪日したことで、長崎の活動が軌道に乗り始める。瀬川が東京一致神学校を卒業して1877年(明治10年)に戻ると鹿児島の開拓伝道を計画した。1878年に瀬川と留川一路を鹿児島に派遣する。
1881年(明治14年)7月に、瀬川浅と青山昇三郎、服部章蔵と共に日本基督一致教会の西部中会が設立された。1884年に来日した女性宣教師メリー・E・ブロカウが女子学校を、1886年に訪日したアルバート・オルトマンスが男子学校を設立する。1887年(明治20年)には東山学院(スティール・アカデミー)神学部や(スターヂス・セミナリー)女子教育部(現・梅光学院)を開校する。
1889年日本伝道会社から長崎ステーションが独立して、アメリカ改革教会南日本伝道社になる。1895年(明治28年)に妻の健康不安のためにアメリカに一時帰国する。スタウト不在の間に神学部は閉鎖される。
1889年(明治22年)に日本に帰還するが、1902年に妻が長崎で死去する。1904年(明治27年)にスタウトは宣教師を辞職し、1906年(明治39年)にアメリカに帰国する。
アメリカではニュージャージー州バウンド・ブルック教会で1907年より、レッド・バンク教会で1909年から牧師を務めて、1910年に引退する。1911年に再訪日。1912年にニュージャージー州レイクハーストで死去した。
参考文献
[編集]『長老・改革教会来日宣教師辞典』新教出版社、2003年
脚注
[編集]- ^ a b c 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(3)」『学術研究紀要』第12巻、鹿屋体育大学、1994年9月、79-91頁。