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* [[2005年]][[8月3日]]、4人組の[[コロンビア人]]による自宅襲撃をうけ、現金5万8000円と46万円相当の腕時計や商品券などを盗まれる(コロンビア人4人は9月14日に逮捕)。
* [[2005年]][[8月3日]]、4人組の[[コロンビア人]]による自宅襲撃をうけ、現金5万8000円と46万円相当の腕時計や商品券などを盗まれる(コロンビア人4人は9月14日に逮捕)。
* [[2009年]]9月、妹のはるみが死去{{要出典|date=2010年5月}}。
* [[2009年]]9月、妹のはるみが死去{{要出典|date=2010年5月}}。
* この他に、[[1983年]]に日本歌手協会の理事として就任すると、[[1985年]]に常任理事、[[1995年]]に理事長、[[2003年]]に会長、[[2007年]]から2023年現在まで名誉会長に就任している。
* この他に、[[1983年]]に日本歌手協会の理事として就任すると、[[1985年]]に常任理事、[[1995年]]に理事長、[[2003年]]に会長、[[2007年]]から2024年現在まで名誉会長に就任している。


== ディスコグラフィー ==
== ディスコグラフィー ==

2024年7月17日 (水) 02:54時点における最新版

青木 光一
基本情報
別名 青木光一
生誕 (1926-02-17) 1926年2月17日(98歳)
出身地 日本の旗 日本佐賀県唐津市
ジャンル 歌謡曲
職業 歌手
担当楽器
活動期間 1950年 -
レーベル 日本コロムビア

青木 光一(あおき こういち、1926年2月17日 - )は、日本の歌手日本歌手協会名誉会長。『柿の木坂の家』など、多くの大ヒットを飛ばし、人気アイドルとして昭和時代中期の日本歌謡界に君臨した。佐賀県唐津市出身。歌手の青木はるみは実妹。元妻は同じく歌手の永田とよ子3代目天中軒雲月)。

経歴

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  • 幼い頃満州奉天に渡る。
  • 1944年、奉天の旧制中学を卒業。奉天中央放送合唱団に入団、コーラスの指導をしていた米山正夫の指導を受ける。
  • 1945年関東軍に入隊、敗戦でシベリアに抑留される。
  • 1949年、シベリアから命からがら帰国。
  • 1950年、先に帰国していた米山正夫の推薦でコロムビアに入社。同年『きらめくスバル』でレコードデビュー。同年8月大映映画『若い嵐』主題歌『若い嵐』。
  • 1953年、『元気でね、左様なら』でブレイク。
  • 1955年、『小島通いの郵便船』が大ヒット。
  • 1956年、『早く帰ってコ』が大ヒット。
  • 1957年、『柿の木坂の家』が空前の大ヒット。同年、『二代目船長さん』でNHK紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には計3回出場している(詳細は下記参照)。
  • 1963年、隣の工場からの延焼で自宅が全焼。
  • 1999年第40回日本レコード大賞功労賞を受賞。
  • 2004年、コロムビアミュージックエンタテインメントより『青木光一全曲集』をリリース。
  • 2005年8月3日、4人組のコロンビア人による自宅襲撃をうけ、現金5万8000円と46万円相当の腕時計や商品券などを盗まれる(コロンビア人4人は9月14日に逮捕)。
  • 2009年9月、妹のはるみが死去[要出典]
  • この他に、1983年に日本歌手協会の理事として就任すると、1985年に常任理事、1995年に理事長、2003年に会長、2007年から2024年現在まで名誉会長に就任している。

ディスコグラフィー

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  • 青木光一・織井茂子「花笠音頭」作詞:松平芳樹、作曲:山口保治日本コロムビア AK279)
  • 「月が出ている港町」作詞:野村俊夫、作曲:米山正夫(1952年2月 日本コロムビア A1307)
  • 「ザビエルの鐘」作詞:西条八十、作曲:古賀政男(1953年3月20日 日本コロムビア A1633A)
  • 「元気でね、左様なら」作詞:野村俊夫、作曲:三界稔(1953年4月15日 日本コロムビア A1644)
  • 神楽坂はん子・青木光一「モチのロン/若い時や二度ない」作詞:上山/西條八十、作曲:古賀政男(1953年6月 日本コロムビア A1700)
  • 「二十才の青春」作詞:野村俊夫、作曲:古賀政男(1954年1月 日本コロムビア A1830)
  • 「月を見ていたら」作詞:野村俊夫、作曲:服部逸郎(1954年2月 日本コロムビア A1827)
  • 「月の朝鮮海峡」作詞:西条八十、作曲:古賀政男(1954年3月 日本コロムビア A1858)「李承晩ラインを越える」という内容の歌詞が問題視され「国際親善を害する」として放送禁止になった[1]。片面は永田とよこ歌唱の「対馬の娘」
  • 「元気でね、又逢おう」作詞:野村俊夫、作曲:三界稔(1954年3月 日本コロムビア A1859)
  • 青木光一・永田とよ子「佐賀音頭」作詞:野村俊夫、作曲:八洲秀章(1954年8月 日本コロムビア A2026)
  • 青木光一・野添ひとみ「君に誓いし」作詞:西條八十、作曲:万城目正(1954年9月 日本コロムビア A2106)松竹映画「君に誓いし」主題歌
  • 「小島通いの郵便船」作詞:上尾美代志、作曲:平川英夫(1955年3月15日 日本コロムビア A2240)雑誌「平凡」懸賞当選歌謡
  • 「港の乾杯」作詞:石本美由起、作曲:平川英夫(1955年12月10日 日本コロムビア A2412B)
  • 「月のおけさ節」作詞:石本美由紀、作曲:平川英夫(1956年 日本コロムビア)
  • 「都に花の散る夜は」作詞:丘十四夫、作曲:古賀政男(1956年1月 日本コロムビア A2412)
  • 「ふるさとの駅」作詞:石本美由起、作曲:平川英夫(1956年5月 日本コロムビア A2504)
  • 「早く帰ってコ」作詞:高野公男、作曲:船村徹(1956年8月15日 日本コロムビア A2583A)コロムビアでの船村徹デビュー曲
  • 「男の友情」作詞:高野公男、作曲:船村徹(1957年1月 日本コロムビア A2656A)
  • 「僕は流しの運転手」作詞:石本美由起、作曲:船村徹(1957年4月15日 日本コロムビア A2731A)
  • 「柿の木坂の家」作詞:石本美由紀、作曲:船村徹(1957年9月15日 日本コロムビア A2852A)
  • 緑の地平線」作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男(1958年 日本コロムビア)
  • 「おふくろさんは達者かな」作詞:石本美由紀、作曲:船村徹(1958年1月 日本コロムビア A2906)
  • 「ぐみの木峠」作詞:石本美由起、作曲:船村徹(1958年3月15日 日本コロムビア A3034A)
  • 「ふるさと列車」作詞:小山敬三、作曲:船村徹(1958年4月 日本コロムビア A2985)
  • 「青春パソドブル」作詞:青山七郎、作曲:船村徹(1959年1月15日 日本コロムビア A3138B)
  • 「新吾十番勝負」作詞:内山惣十郎、作曲:北村和夫(1959年4月 日本コロムビア SA163)
  • 「サーカスの唄」作詞:西条八十、作曲:古賀政男
  • 「カチューシャ」

NHK紅白歌合戦出場歴

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年度/放送回 放送日 会場 曲目 出演順 対戦相手 備号
1957年(昭和32年)/第8回 12月31日 東京宝塚劇場 二代目船長さん 13/25 鈴木三重子
1959年(昭和34年)/第10回 2 出港前夜 08/25 松山恵子
1960年(昭和35年)/第11回 日本劇場(日劇) 3 オーロラ鴎 05/25 藤本二三代

主なテレビ出演

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主な映画出演

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  • 拾った人生(1952年、新東宝
  • 歌くらべ三羽烏(1955年、日活
  • 港の乾杯 勝利をわが手に(1956年、日活)
  • 早く帰ってコ(1957年、東宝
  • 東京だヨ おッ母さん(1957年、東宝)
  • 歌くらべ満月城(1963年、松竹

その他の出演

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  • 第37、38回日本歌手協会歌謡祭(ゆうぽうと、2010年10月27日、2011年11月10日)
  • 「東日本大震災被災地支援チャリティーライブ VOL1」(古賀政男音楽博物館けやきホール、2011年4月5日)
  • 「秋の歌謡フェスティバル」[3](ゆうぽうと、2012年10月12日)
  • 「日本歌手協会創立50周年記念 第40回歌謡祭」[4](ゆうぽうと、2013年11月21日)
  • 「日本歌手協会創立50周年記念 歌謡フェスティバル」[5](ゆうぽうと、2013年11月22日)

主な受賞歴

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脚注

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  1. ^ 吉野健三『歌謡曲 流行らせのメカニズム』晩聲社 (ヤゲンブラ選書) 、1978年、119頁。
  2. ^ 『紅白歌合戦アルバム NHK20回放送のあゆみ』(デイリースポーツ社、1970年)
  3. ^ 司会は女優の倍賞千恵子
  4. ^ 女優の倍賞千恵子や平尾昌晃らと共に出演
  5. ^ 宝塚歌劇団男役トップスターの眞帆志ぶき39期生)、高汐巴58期生)や元同歌劇団トップ娘役の大原ますみ50期生)らと共に出演

関連人物

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外部リンク

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