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「零式小型水上機」の版間の差分

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[[1937年]](昭和12年)に、それまで使用されていた[[九六式小型水上機]]の後継機として空技廠で開発が始められたのが十二試潜水艦用偵察機で、[[1938年]](昭和13年)に初飛行した<ref name="野原2007_pp110-111.">[[#野原 (2007)|野原 (2007)]]、pp.110-111.</ref>。機体は木金混製の骨組に羽布張で、金属製の双フロートを持つ単葉機だった。潜水艦の格納庫への格納に配慮し垂直尾翼の高さは低く押さえられ、又主翼の折りたたみやフロート・支柱類の結合が容易になるよう様々な工夫がなされていた。このため、組み立て開始から発進までの時間は10分強であった。
[[1937年]](昭和12年)に、それまで使用されていた[[九六式小型水上機]]の後継機として空技廠で開発が始められたのが十二試潜水艦用偵察機で、[[1938年]](昭和13年)に初飛行した<ref name="野原2007_pp110-111.">[[#野原 (2007)|野原 (2007)]]、pp.110-111.</ref>。機体は木金混製の骨組に羽布張で、金属製の双フロートを持つ単葉機だった。潜水艦の格納庫への格納に配慮し垂直尾翼の高さは低く押さえられ、又主翼の折りたたみやフロート・支柱類の結合が容易になるよう様々な工夫がなされていた。このため、組み立て開始から発進までの時間は10分強であった。


試作機では重量過大のために航続力が低下したうえ安定性が悪かったため改良が続けられ、1940年(昭和15年)12月に兵器採用された。生産は[[九州飛行機]]で行なわれ、試作機(垂直安定板が胴体上面のみのタイプ)を含めて全部で138機生産された。
試作機では重量過大のために航続力が低下したうえ安定性が悪かったため垂直尾翼の拡大と胴体下面にフィンが付加されるなどの改良が続けられ、1940年(昭和15年)12月に兵器採用された。生産は[[九州飛行機]]で行なわれ、試作機(垂直安定板が胴体上面のみのタイプ)を含めて全部で138機生産された。


== 運用 ==
== 運用 ==

2019年8月13日 (火) 01:31時点における版

九飛 E14Y 零式小型水上機

飛行中の零式小型水上機

飛行中の零式小型水上機

零式小型水上機(れいしきこがたすいじょうき)は、零式小型水上偵察機[* 1]とも呼ばれ、十二試潜水艦用偵察機[1][2][3]として空技廠が開発し、1940年昭和15年)12月日本海軍により兵器採用された、潜水艦搭載用の水上機である。略符号E14Y連合国コード名は“Glen”(グレン)。アメリカ本土空襲を実行した唯一の機体として有名である。

名称について

1940年12月兵器採用時の名称は内令兵により「零式一号小型飛行機一型」と定められた。

1942年(昭和17年)の海軍機の名称付与体系変更に従い、「昭和17年内令兵第25号」により「零式小型水上機一一型」と改称された。

開発と生産

1937年(昭和12年)に、それまで使用されていた九六式小型水上機の後継機として空技廠で開発が始められたのが十二試潜水艦用偵察機で、1938年(昭和13年)に初飛行した[4]。機体は木金混製の骨組に羽布張で、金属製の双フロートを持つ単葉機だった。潜水艦の格納庫への格納に配慮し垂直尾翼の高さは低く押さえられ、又主翼の折りたたみやフロート・支柱類の結合が容易になるよう様々な工夫がなされていた。このため、組み立て開始から発進までの時間は10分強であった。

試作機では重量過大のために航続力が低下したうえ安定性が悪かったため垂直尾翼の拡大と胴体下面にフィンが付加されるなどの改良が続けられ、1940年(昭和15年)12月に兵器採用された。生産は九州飛行機で行なわれ、試作機(垂直安定板が胴体上面のみのタイプ)を含めて全部で138機生産された。

運用

零式小型水上機は、巡潜甲型に搭載されて要地偵察を実施することを運用目的として開発されたが、続いて建造された巡潜乙型にも搭載された。これらの潜水艦に搭載された本機は、伊10の搭載機が開戦前の1941年(昭和16年)11月30日フィジー諸島スバの偵察、開戦後は伊9搭載機が1942年(昭和17年)2月14日真珠湾を偵察を行ったことを皮切りに[要出典]、南方や千島方面の偵察に活躍し、後述する様にアメリカ本土に空襲を加えている。本機を搭載した潜水艦の作戦記録から逆引きすると、当機は合計52回の偵察作戦を実施し、内48回の成功を収め、その内40回は機体の回収に成功している。[要出典] 伊10の搭載機が1944年(昭和19年)6月12日に実施したメジュロ泊地の偵察作戦が、本機が運用された最後の記録である。これ以降は潜水艦の活動範囲が狭められたこともあって、本機が活躍する場はほとんどなくなった。また母艦たる潜水艦ごと撃沈された機体も多く、終戦時の残存機は17機とされる。

アメリカ本土空襲

1942年(昭和17年)9月伊25の搭載機が2回にわたってオレゴン州の森林に焼夷弾を投下し火災を発生させた。これは、大戦中のみならず現在にいたるまで軍用機がアメリカ本土の攻撃に成功した唯一の事例となっている。

被害は殆どなかったものの、アメリカ政府に与えた心理的な影響は大きいものであったことが、後に搭乗員が特別待遇でアメリカに招かれたことからもわかる[要出典]。(→藤田信雄の項参照)

性能・諸元

  • 全長: 8.53 m
  • 全幅: 10.98 m
  • 全高: 3.39 m
  • 主翼面積: 19.00 m2
  • 全装備重量: 1,450 kg
  • 最高速度: 246 km/h
  • 乗員: 2 名
  • 発動機: 日立「天風」12型 空冷星型9気筒 340 hp
  • 航続距離: 882 km
  • 実用上昇限度: 5,420 m
  • 上昇力 10'11" /3000 m
  • 武装:
    • 7.7 mm機銃 ×1
    • 60 kg爆弾

脚注

注釈

  1. ^ 零式小型水上偵察機の名称で文書中に記載されることがあった[1]

出典

参考文献

  • 野原茂『日本陸海軍偵察機・輸送機・練習機・飛行艇 1930-1945』(初版)文林堂〈世界の傑作機別冊〉、2009年。ISBN 978-4-89319-173-1 
  • 野原茂『日本の水上機』(初版)光人社、2007年。ISBN 978-4-7698-1337-8 
  • 『帝国海軍艦上機・水上機パーフェクトガイド』(初版)学習研究社〈歴史群像シリーズ〉、2006年。ISBN 4-05-604314-0 
  • 『日本海軍水上偵察機』文林堂〈世界の傑作機〉、1994年。 
  • 野原茂 著、タスクフォース1編 編『日本海軍軍用機集 : モーリス・ファルマンから橘花まで』グリーンアロー出版社〈図解世界の軍用機史 5〉、1994年。ISBN 4-7663-3161-3 

関連項目

外部リンク