三田文学
『三田文學』(みたぶんがく)は、慶應義塾大学文学部を中心に刊行される文芸雑誌であり、7回の休刊を経て現在に至る。反自然主義的で、耽美派やシュルレアリスムの作家・詩人を輩出してきた。
略歴
創刊
1910年(明治43年)5月に創刊され、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、文学科教授の森鴎外と協議し、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹に据えて創刊。課程を文学・哲学・史学の3専攻に分つと共に、教授陣容の強化に一段と意を用い、文学専攻では荷風のほか、小山内薫、戸川秋骨、馬場孤蝶、小宮豊隆を、哲学では岩村透を、史学では山路愛山、幸田成友、伊木寿一を新たに加えた。
永井荷風編集長
創刊期から、森鴎外、芥川龍之介ら既成の作家に発表の場を提供する一方、永井荷風は塾生(慶應義塾出身者)の弟子を多く育て、久保田万太郎、水上瀧太郎、佐藤春夫らが育った。創刊された「三田文学」に鷗外は、横浜港を舞台にした『桟橋』を発表、以後、6月号に『舞姫』後日談ともいえる『普請中』、7月にロダンのモデルとなった日本女性をとりあげた『花子』、8月に鴎外の分身ともいえる役人を描いた『あそび』、9月号に発禁処分への異議申し立てである『フアスチェス』、11月に言論弾圧に抗議する『沈黙の塔』、12月号に虚無主義や無政府主義に対する意見を述べた『食堂』を発表するというように問題作を次々と三田文学に執筆した。荷風は、「三田文学」の創刊号から『紅茶の後』という随筆を連載し、「流竄の楽士」の中で政府の検閲制度を批判した。このような反体制の問題作が次々と掲載されるようになり、谷崎潤一郎の「飆風(ひょうふう)」を載せた号が発禁になったことから大学側と永井荷風が対立し、荷風は辞任し、後任には沢木梢が主幹となるが、病に倒れ一時休刊となる。
復刊と三田派
1916年荷風が教授辞職後は次第にふるわなくなり、1925年に一時休刊となるが、1926年水上瀧太郎を中心に復刊を果たし、「三田派」と呼ばれる野口米次郎、木下杢太郎、三木露風、馬場孤蝶、山崎紫紅、黒田湖山、深川夜烏、藤島武二らが精神的主幹として振い、他にも井伏鱒二、丹羽文雄、和田芳恵といった慶應義塾関係者以外の新人も多く登場した。新世代として西脇順三郎、石坂洋次郎、柴田錬三郎、原民喜などが活躍したが、太平洋戦争突入により危機を迎える。1923年からは折口信夫が国文学・国学を講じた。
太平洋戦争から戦後
敗戦後、丸岡明の能楽社が発行を引き受け、原民喜の被爆体験を綴った『夏の花』が掲載される。戦後派の文学者も登場し始め、松本清張・柴田錬三郎が芥川賞、直木賞作家となり、安岡章太郎、遠藤周作ら「第三の新人」がデビューした。 再びの休刊を経て、当時慶應義塾大学院生だった桂芳久、田久保英夫、山川方夫の三人が復刊させ、江藤淳が原稿を寄与した。
現在
1985年に復刊し現在に至る(第7次)。2009年から、『文学界』が休止した同人雑誌批評のコーナーを引き継いだ。年4回発行、事務局は大学内にある。会員制による三田文学会によって発行が続けられる文芸誌となった。
主な関係者一覧
- 瀧口修造
- 野口米次郎 (第1回帝国芸術院賞受賞者)
- 堀口大學 (文化勲章受章者)
- 久保田万太郎 (文化勲章受章者)
- 石坂洋次郎
- 水上瀧太郎
- 夢野久作
- 車谷長吉
- 佐藤春夫 (文化勲章受章者)
- 獅子文六 (文化勲章受章者)
- 堀田善衛 (日本芸術院賞受賞者)
- 萩原朔太郎
- 村松梢風
- 吉野秀雄
- 松本泰
- 小島政二郎
- 南部修太郎
- 勝本清一郎
- 西脇順三郎 (文化功労者、ノーベル文学賞候補者)
- 佐々木邦
- 庄司総一
- 遠藤周作 (文化勲章受章者)
- 安岡章太郎 (文化功労者)
- 江藤淳 (日本芸術院賞受賞者)
- 坂上弘
- 田中和生
- 宇野信夫 (文化功労者)
- 曽野綾子 (文化功労者)
- 加藤道夫
- 柴田錬三郎
- 山本健吉 (文化勲章受章者)
- 芥川比呂志
- 池田彌三郎
- 戸板康二 (日本芸術院賞受賞者)
- 野口冨士男
その他
関連項目
外部リンク
- 三田文学ホームページ
- <小説>飆風 谷崎潤一郎の発禁本「飆風」
- [慶應義塾豆百科 No.69 『三田文学』]