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さんぢゑご丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さんぢゑご丸
基本情報
船種 タンカー
クラス さんぺどろ丸級タンカー
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
日本
所有者 三菱商事
三菱汽船
極東海運
三菱海運
運用者 三菱商事
三菱汽船
 大日本帝国海軍
極東海運
三菱海運
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 さんぺどろ丸級タンカー4隻
信号符字 TMJS(JQJB)
IMO番号 33300(※船舶番号)
建造期間 207日
経歴
起工 1927年8月15日
進水 1928年1月24日
竣工 1928年3月8日[1]
除籍 1961年12月21日
その後 1960年9月解体[2]
要目
総トン数 7,268トン
純トン数 5,000トン
載貨重量 12,267トン
排水量 15,633トン
登録長 131.06m
型幅 17.37m
登録深さ 10.52m
高さ 23.16m(水面からマスト最上端まで)
8.53m(水面から船橋最上端まで)
満載喫水 8.957m(満載時平均)
主機関 三菱重工業スルザーディーゼル機関1基
推進器 1軸
最大出力 2,626BHP
定格出力 2,300BHP
最大速力 13.2ノット
航海速力 12.0ノット
航続距離 11ノットで20,000浬
旅客定員 一等:3名
乗組員 40名
1943年9月1日徴用
出典は『昭和十八年版 日本汽船名簿』[3]
高さは米海軍識別表[4]より(フィート表記)
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さんぢゑご丸(さんぢえごまる)は、三菱商事が保有した石油タンカー。日本最初のディーゼル推進タンカーである「さんぺどろ丸」型の2番船として1928年に竣工した。太平洋戦争前に建造された日本の航洋タンカーのうち終戦時に健在だった唯一の船で、太平洋戦争後も船団式捕鯨や石油輸入に長く活躍した。32年間も一貫して石油輸送に従事した功績から、「さんぢゑご丸を知らずして、タンカーを語るなかれ」と日本の海運関係者の間で評された[5]

建造

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1920年代になると、軍艦をはじめとした船舶燃料の石炭から重油への切り替えが進むなど、石油需要が拡大した。日本でも傾向は同様で、1921年に初の近代的な国産航洋タンカー「橘丸」が竣工したのを皮切りに、石油輸入用のタンカー建造が始まっていた。そこで、日本海軍向けの石油を取り扱ってきた三菱商事は、石油需要のさらなる拡大を見越し、タンカー3隻を新造することにした[6]

こうして、三菱商事が1926年(大正15年)末に発注したのが、「さんぺどろ丸」級タンカーである。その2番船は、1928年1月に三菱長崎造船所進水して「さんぢゑご丸」と命名され、同年3月8日に竣工した[1]。なお、姉妹船としては3番船の「さんるいす丸」が建造されたほか、小倉石油が船主の「第一小倉丸」と「第二小倉丸」も同型である。後に、寸法をヤード・ポンド法からメートル法に改めて再設計した、「さんらもん丸」級2隻も建造されている[7]

準同型の「さんらもん丸」。基本的なデザインは本船と同じである。(参考画像)

船体の基本的なデザインは、船尾機関型で船首寄りに船橋を置いた当時の典型的な大型タンカーである。油槽は18個のタンクと12個のサマータンク[注 1]に区画されていた[9]。油槽のほか、船首近くには容量1000トンの通常貨物用船倉が設けられており、北米向けの生糸輸出に使うことが想定された。この貨物倉の蓋に1番船の「さんぺどろ丸」では横へスライドするマッカンキング式を日本で初めて採用したが[9]、「さんぢゑご丸」は異なった形式の可能性がある[10]

「さんぺどろ丸」級の最大の特色は、日本のタンカーとして初めてディーゼルエンジンを搭載したことである[9]。経済性の高い大型商船用ディーゼルエンジンは、1920年代に本格的に実用化され、日本でも1924年竣工の貨物船赤城山丸」から導入が始まっていた。本船はスルザー社製のディーゼルエンジンを採用した[3]。後の大型タンカーと異なって有事の補給艦としての利用は考慮されていなかったため、経済性重視の低出力機関で、低速船であった[7]

運用

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太平洋戦争前

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竣工した「さんぢゑご丸」は、実質的に発足したばかりの三菱商事船舶部の持ち船として、姉妹船とともにカリフォルニア州産の石油輸入に専従した。約12年間の北米航路では安定した運航を実現した。唯一のトラブルは、1930年2月初旬のロサンゼルスから徳山市第3海軍燃料廠への航海で、悪天候により上甲板へ亀裂が入ったことであった。やむを得ず積荷の重油の半分を投棄して沈没を免れている[5]。この事故は、その後の船舶設計において参考となった[11]

日米関係が緊迫する中、1940年9月にはカリフォルニアからオランダ領東インド(蘭印)へと目的地が変更され、以後は日蘭会商に基づく蘭印産の石油輸入に従事した[5]。しかし、蘭印産の石油も、翌年8月のアメリカ合衆国による対日石油禁輸と合わせて輸出停止となった。

太平洋戦争

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さんぢゑご丸
基本情報
艦種 特設運送船(給油船)
艦歴
就役 1943年9月1日(海軍籍に編入時)
呉鎮守府部隊/呉鎮守府所管
除籍 1944年3月20日除籍
要目
乗員 不明
兵装 九六式25mm連装機銃 2基
九三式13mm単装機銃 1基
装甲 なし
搭載機 なし
ソナー なし
徴用に際し変更された要目のみ表記
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太平洋戦争勃発約1か月前の1941年11月5日をもって、「さんぢゑご丸」は日本海軍に海軍省の一般徴用船として徴用された。開戦時には、台湾方面の海軍艦艇に対する補給任務を命じられたが、12月8日に豊後水道付近で日本海軍が防御用に敷設していた機雷に誤って接触し、大破してしまった[11]

日立造船因島造船所で3カ月かけて修理された後、1942年3月10日に、特設運送船(乙)として再び海軍に徴用された[12]。主に後方での石油輸送に従事し、例えば1943年11月から翌年3月の期間にはボルネオ島ミリから日本本土へ2度の原油輸送(計約24000キロリットル)に成功し、付随して米やマニラアサ、人員の輸送も行っている。タンカー不足を補うために開発された無動力型の特殊油槽船の曳航も実施した。航海中、1943年9月には敵潜水艦の魚雷攻撃を受けたが、命中前に魚雷が過早爆発したため助かった[13]門司発・高雄港行きの第130船団加入中[14]、1944年1月23日に僚船「ぱなま丸」(栗林商船:5289総トン)が空襲で撃沈された際には、乗船していた陸軍兵や船員ら927人を徹夜で救助し[15]、陸軍から感謝状を贈られている[13]

1944年3月25日をもって「さんぢゑご丸」は海軍からの徴用を解除された[12]。以後は民需船の建前で船舶運営会の管理下に入り、軍需輸送にも協力する海軍配当船として運航されている。1944年4月に低性能タンカー主体でミリと日本本土を結ぶ石油護送船団であるミ船団の運航が始まると、「さんぢゑご丸」は姉妹船「さんるいす丸」などとともに中核的存在として加入することになった[10]。まず、6月から8月にかけて、ミリ経由でシンガポールまで往復に成功した。日本帰還後、徳山碇泊中の8月15日に接舷中の給水船が火災を起こす事故があり、乗員1人が死亡している[16]。1944年後半にはアメリカ軍の潜水艦や航空機による通商破壊の激化のため日本の輸送船被害は増大、姉妹船も次々と沈み、最後まで残った「さんるいす丸」もヒ86船団加入中の1945年1月に撃沈された[17]。しかし、「さんぢゑご丸」は、9月から12月にかけてミ19船団(輸送船6隻撃沈破)とミ20船団(輸送船2隻・護衛艦1隻撃沈)という危険な航海に加わってミリまで往復し、無事に輸送を終えている[18]。戦況の悪化から12月にミ船団の運航は打ち切りとなった。

ミ20船団で日本に帰った「さんぢゑご丸」は、1945年1月中旬まで修理を受けた後、「せりあ丸」などとともに呉港周辺の瀬戸内海で待機が続いた[16]。一度はシンガポール行きの石油船団であるヒ船団への加入が命じられたものの、集合地の門司まで回航した時点で出撃見合せとなった。日本海方面の海軍艦艇への補給任務のため6月末に七尾湾に進出し、空襲除けのカモフラージュを施した状態で終戦の日を迎えた[19]。開戦時に40隻以上あった日本の大型タンカーのうち、終戦時に健在なのは本船だけであった[13][注 2]

太平洋戦争後

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太平洋戦争後、「さんぢゑご丸」は数少ない可動タンカーとして日本の復興に活躍した。1945年11月にGHQの指示で横浜港に回航され、整備を受けた。そして、GHQの日本商船管理局(SCAJAP)統制下の日本船を示すSCAJAP番号としてX041を割り当てられ[13]横須賀港を拠点に浦賀沖で復員船に給油する任務に従事した。1946年12月に南極海での母船式捕鯨が再開されると、給油船兼鯨油中積みタンカーとして捕鯨船団に加わり、1949年3月まで3回にわたって南極海に出動している[19]。生産された鯨肉は食糧難を救い、鯨油は貴重な外貨源となった。

1948年8月にGHQがペルシャ湾へのタンカー配船を許可すると、「さんぢゑご丸」も1949年5月15日に5番手としてペルシャ湾に赴いた[13]。これは、日本にとって太平洋戦争後初めての商用外国航路であった。その後、「さんぢゑご丸」はペルシャ湾や北米からの石油輸入のため、三菱海運を船主としてさらに約10年間も航海を続けたが、1960年2月に第一線での運用を終えた[19]。船体は坂口興産にスクラップとして売却され[20]、同年9月に解体された[2]号鐘横浜みなと博物館に保存されている[20]

脚注

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注釈

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  1. ^ サマータンクとは油槽の舷側上部(船体横断面でいえば両肩の部分)を区切り取るように設けられた補助タンクで、波の荒い海域を航行する際には空荷状態にしておくことで液面を小さくするとともに重心を下げて船の安定性を高める機能がある。天候の良い夏期(サマー)には普通の油槽としても使用できた[8]
  2. ^ 戦中建造の戦時標準船TL型タンカーは「橋立丸」など若干の残存船があった。また、太平洋戦争前建造タンカーとしては、給油艦兼用の水上機母艦「神威」が大破状態で在籍(復旧せず解体)したほか、タンカー機能を有する捕鯨母船「第三図南丸」は沈没した船体をサルベージして再使用されている。

出典

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  1. ^ a b 松井(1995年)、19頁。
  2. ^ a b 日本郵船(1971年)、下860頁。
  3. ^ a b 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十八年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』 運輸通信省海運総局、1943年、内地在籍船の部128頁、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050083200、画像44枚目。
  4. ^ Ogura_Maru_No.1_class
  5. ^ a b c 日本郵船(1971年)、下861頁。
  6. ^ 松井(1995年)、17頁。
  7. ^ a b 岩重(2011年)、130頁。
  8. ^ 岩重(2011年)、82頁。
  9. ^ a b c 松井(1995年)、18頁。
  10. ^ a b 岩重(2011年)、92頁。
  11. ^ a b 松井(1995年)、20頁。
  12. ^ a b 『徴傭船舶行動概見表』、画像17枚目。
  13. ^ a b c d e 松井(1995年)、21頁。
  14. ^ 駒宮(1987年)、129頁。
  15. ^ 『徴傭船舶行動概見表』、画像15-16枚目。
  16. ^ a b 日本郵船(1971年)、下864頁。
  17. ^ 駒宮(1987年)、330頁。
  18. ^ 駒宮(1987年)、252-254、285頁。
  19. ^ a b c 日本郵船(1971年)、下865頁。
  20. ^ a b 松井(1995年)、22頁。

参考文献

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  • 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4-499-23041-4 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 日本郵船株式会社『日本郵船戦時船史』 下、日本郵船、1971年。 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 
  • 美原泰三「大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 自昭和十八年十二月一日至昭和十九年三月三十日」『大東亜戦争徴傭船舶行動概見表甲』アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050033400。 

外部リンク

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