エルフ (バンド)
エルフ | |
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左からスティーヴ・エドワーズ、 クレイグ・グルーバー、ゲイリー・ドリスコル、ロニー・ジェームス・ディオ、ミッキー・リー・ソウル(1974年) | |
基本情報 | |
原語名 | Elf |
別名 |
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出身地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州コートランド |
ジャンル | |
活動期間 | 1967年 - 1975年 |
レーベル | |
共同作業者 | レインボー |
旧メンバー |
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エルフ(Elf)は、アメリカ合衆国のハード・ロック・バンド。ロニー・ジェイムス・ディオの出身バンドであり、リッチー・ブラックモアが結成したリッチー・ブラックモアズ・レインボーの母体になったことで知られる。
略歴
[編集]黎明期
[編集]1967年、ニューヨーク州コートランドで結成。最初のバンド名はThe Electric Elvesだったが、The Elvesと省略され、最終的にElfになった。メンバーは、ロナルド・パダヴォナ[注釈 1](ボーカルとベース)、ダグ・サーラー(キーボード)、ゲイリー・ドリスコール(ドラムス)、デヴィッド・フェィンスティン[注釈 2](ギター)、ニック・パンタス(ギター)の5人。
1970年にパンタスが交通事故で死亡したので、4人編成で活動を続けた。サーラーがグループを去り、ミッキー・リー・ソウルがバンドに加わった。
レコーディングとライヴ活動
[編集]1972年、当時第2期だったディープ・パープルのイアン・ペイスとロジャー・グローヴァーが彼等の演奏を観て気に入ったことがきっかけになり、パープル・レコード(Purple Records) から2人の共同プロデュースによるファースト・アルバム『エルフ』をリリースする[3]。この時のメンバーは以下の4名だった[注釈 3]。
さらに彼等は第2期ディープ・パープルのアメリカ・ツアーのオープニング・アクトを務める。
1973年、ロナルド・パダヴォナ改めロニー・ジェイムス・ディオがボーカル専任となり、クレイグ・グルーバーがベーシストとして加入。またフェンスティンが脱退してスティーヴ・エドワーズが後任ギタリストとして加入。新しい顔ぶれで5人編成として同年10月に活動を再開した。1974年4月16日、パープル・レコードからグローヴァー[注釈 4]のプロデュースによりセカンド・アルバム『キャロライナ・カウンティ・ボール』を発表した。アメリカでは『L.A./59』と題された[4]。
- ロニー・ジェイムス・ディオ - ボーカル
- スティーヴ・エドワーズ - ギター
- クレイグ・グルーバー - ベース
- ゲイリー・ドリスコール - ドラムス
- ミッキー・リー・ソウル - キーボード
彼等は第3期ディープ・パープルのイギリス・ツアーのオープニング・アクトを務め[4]、さらにキャリアを積んで知名度を高めていった。
1974年暮れからサード・アルバムのレコーディングを開始。同郷のコートランド出身のパーカッショニストのマーク・ナウシーフが参加した。1975年6月にMGMレコードから、グローヴァーのプロデュースによって『バーン・ザ・サン』を発表した[注釈 5][5]。
- ロニー・ジェイムス・ディオ - ボーカル
- スティーヴ・エドワーズ - ギター
- クレイグ・グルーバー - ベース
- ゲイリー・ドリスコール - ドラムス
- ミッキー・リー・ソウル - キーボード
- マーク・ナウシーフ - パーカッション
消滅
[編集]第3期ディープ・パープルに在籍していたギタリストのリッチー・ブラックモアは、1974年7月に録音が開始されたアルバム『嵐の使者』の制作中に、第3期からメンバーになったデイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズが前作『紫の炎』にも増して、ソウル・ミュージックやファンキー・ミュージックの要素を持ち込むことに不満を抱いた。そしてクォーターマス[注釈 6]が取り上げた「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)[6][注釈 7]という曲を録音することを提案したが、オリジナル曲に執着するメンバーに反対された[7]。
ブラックモアは、ディープ・パープルのオープニング・アクトやグローヴァーのソロ・アルバム『バタフライ・ボール』(1974年)でのボーカル・ワークで気に入っていたディオを起用して「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」を録音して、ソロ・シングルとして発表することにした[8]。彼はディオと「16世紀のグリーンスリーヴス」(Sixteenth Century Greensleeves)を共作し、グルーバー、ソウル、ドリスコールを招聘して2曲を録音した[9][注釈 8]。彼は出来の良さに大変満足して、ソロ・シングルを発表するのではなく、ディオ達と新しいバンドを結成することにした。
彼は1975年2月20日から3月14日まで、ミュンヘンのミュージックランド・スタジオにディープ・パープルのプロデューサーのマーティン・バーチを迎えて、ディオ、グルーバー、ソウル、ドリスコールと新バンドのデビュー・アルバムを制作した[10]。そして4月7日のパリ公演を最後にディープ・パープルを脱退した[注釈 9]。
ディオ達の所属先はエルフのメンバーとして契約していたパープル・レコードからオイスター・レコードへと変わった。そして配給元のポリドール・レコードによるビッグ・マーケット取得のためにエルフは消滅した。1975年8月10日、オイスター・レコードよりリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)の名義で同名のアルバム(邦題『銀嶺の覇者』)[注釈 10]が発表された。
メンバーのその後
[編集]エルフの知名度は、実際に活動していた時期にはあまり高くなかった。消滅した途端に世界中のハード・ロック・ファンから、ディオの出身バンドで、レインボーの前身バンドの母体でもある、という理由で注目を浴びるというやや皮肉な境遇を辿った。
エルフ消滅後、ディオのメロイック・サインに代表されるように、元メンバーがニューヨーク界隈のヘヴィメタル・シーンやスラッシュ・メタル・シーンに影響を与えたという功績は大きい。
- ロニー・ジェイムス・ディオ →詳細は「ロニー・ジェイムス・ディオ」を参照
- クレイグ・グルーバー
- 『銀嶺の覇者』が発表された後、ディオ以外のメンバーを一新する決心をしたブラックモアによって、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを解雇された[11]。1983年ゲイリー・ムーアのバンドに参加後、ゲイリー・ドリスコールやブルー・チアーのギタリストであったダック・マクドナルドらと「Bible Black」というグループを結成し、アルバム『Bibble Black』をリリースする。その後、「INFINITE METAL WERKZ」というカスタム・メイドのベース・ギターの会社を設立したが、2015年5月5日、前立腺癌との闘病の末に死去した。
- ゲイリー・ドリスコール
- ミッキー・リー・ソウル
- グルーバーと同じ理由で、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを解雇[11]。イアン・ギラン・バンド、ホワイトスネイクなどパープル・プロダクションの仕事を受けつつ、現在、ディープ・パープルにはキーボードの技術者として関わっている。
- マーク・ナウシーフ
- ダグ・サーラー
- 音楽マネージメントの仕事に就き、現在はアート・ガーファンクル、リトル・フィート、ブルース・ホーンズビーらを抱えるマネージメント会社メトロポリタン・タレントを運営している。
- デヴィッド・フェィンスティン
ディスコグラフィ
[編集]スタジオ・アルバム
[編集]- 『エルフ』 - Elf (1972年)
- 『キャロライナ・カウンティ・ボール』 - Carolina County Ball (1974年) ※米国盤タイトル『L.A./59』
- 『バーン・ザ・サン』 - Trying to Burn the Sun (1975年)
コンピレーション・アルバム
[編集]- The Gargantuan Elf Album (1978年)
- Ronnie James Dio: The Elf Albums (1991年)
- And Before Elf... There Were Elves (2011年) ※The Elves時代の12曲を収録
シングル
[編集]- Hey, Look Me Over / It Pays to Advertise 7" (1967年) ※The Electric Elves名義
- Walking in Different Circles / She's Not the Same 7" (1969年) ※The Elves名義
- Amber Velvet / West Virginia 7" (1970年) ※The Elves名義
脚注
[編集]- ^ Perkins, Jeff (2012). Rainbow – Uncensored on the Record. Coda Books Ltd. p. 13. ISBN 9781908538574
- ^ Daly, Skip; Hansen, Eric; Copeland, Stewart (2019). Rush: Wandering the Face of the Earth. Insight Editions. p. 53. ISBN 9781683834502
- ^ Popoff (2016), pp. 113, 117, 118.
- ^ a b Popoff (2016), p. 159.
- ^ リッチー・ブラックモア・レインボー編より。
- ^ Popoff (2016), p. 71.
- ^ Popoff (2016), p. 172.
- ^ Popoff (2016), pp. 172, 173.
- ^ Popoff (2016), pp. 174, 175.
- ^ Popoff (2016), p. 170.
- ^ a b c Popoff (2016), pp. 180, 182, 184.
注釈
[編集]- ^ ディオの本名。
- ^ バダヴォナ(ロニー・ジェイムス・ディオ)の従兄弟にあたる。
- ^ ディオは本名を名乗り、ベース・ギターを兼任し、髭を生やしてジャケット写真に写っていることから、彼は参加していないと誤解されることがあった。
- ^ 1973年6月末に第2期ディープ・パープルを去って、パープル・レコードのA&Rとして活動していた。
- ^ 次項に示すように、本作が製作されていた1975年前半に、リッチー・ブラックモアがディオ、グルーバー、ソウル、ドリスコールとレコーディングを行なった。この為、このサード・アルバムにブラックモアが参加しているらしいという噂が流れた。後年ディオはブラック・サバスのメンバーとして来日した際、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集者の質問に答えて、ブラックモアの参加を否定した。
- ^ ブラックモアが1962年10月から1964年4月まで在籍していたジ・アウトローズのドラマーだったミック・アンダーウッドが結成したバンド。
- ^ 原曲はスティーヴ・ハモンド(Steve Hammond)作。クォーターマスは1970年5月に発表したデビュー・アルバムでカバーした。
- ^ ディープ・パープルはエルフを前座に、1974年11月中旬から約一か月間、アメリカ・ツアーを行なった。このツアー間に、ブラックモアとディオは「16世紀のグリーンスリーブス」を共作し、グルーバー達と録音した。
- ^ 公式発表は同年6月。
- ^ 「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」と「16世紀のグリーンスリーヴス」も収録された。
引用文献
[編集]- Popoff, Martin (2016). The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979). Bedford, England: Wymer Publishing. ISBN 978-1-908724-42-7
参考文献
[編集]- シンコー・ミュージック刊「リッチー・ブラックモア・レインボー編」ISBN 4-401-61202-7
- シンコー・ミュージック刊「ブリティッシュ・ロックの王者:紫神=ディープ・パープル」0073-61021-3129