エンリケ・ホルダ
エンリケ・ホルダ Enrique Jordá | |
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エンリケ・ホルダ | |
基本情報 | |
生誕 |
1911年3月24日 スペイン王国・サン・セバスティアン |
死没 |
1996年3月18日(84歳没) ベルギー・ブリュッセル |
ジャンル | クラシック |
職業 | 指揮者 |
エンリケ・ホルダ (Enrique Jordá, 1911年3月24日 - 1996年3月18日) とは、スペインのサン・セバスティアン出身の指揮者である[1][2]。サンフランシスコ交響楽団、アントウェルペン・フィルハーモニー管弦楽団、エウスカディ交響楽団の指揮者を務めたほか、世界各地のオーケストラに客演した[1][3][2]。エンリーケ・ホルダとも表記される[4]。
生涯
[編集]1911年3月24日、サン・セバスティアンに生まれる[1]。母親はピアノ奏者であった[3]。サン・セバスティアンとマドリード大学で学んだのち、医学を勉強するためにパリのソルボンヌ大学へ入学するもすぐに専門を音楽に変更し、和声と作曲をポール・ル・フレムに、オルガンをマルセル・デュプレに、指揮をフラン・リュールマンに師事した[1][2]。
1937年、パリのユースオーケストラの一員だった際、病気の指揮者の代役を務めて指揮デビューを果たした[1][5][註 1]。その後、1940年から1945年にかけてマドリード交響楽団、1948年から1954年にかけてケープタウン交響楽団の指揮者を務めた[1][4]。ケープタウンでは、国際現代音楽協会の南アフリカ委員会委員を務めたほか[6]、音楽大学で教鞭も取った[7][註 2]。なお、ホルダはフランシスコ・フランコの独裁に反対しており、フランコが生きている間スペインには戻らなかった[8]。
1954年、ホルダはサンフランシスコ交響楽団の常任指揮者となった[3]。ホルダはパブロ・カザルスやアンドレス・セゴビアといった著名なソリストをオーケストラに招いたほか、レコーディングや講演会を行った[9][10]。くわえて、スペインものや同時代の作品といった様々な楽曲を取り上げてオーケストラのレパートリーを拡大したが、その結果、保守的な聴衆の反感を買ってしまった[11][9][12]。また、レパートリーに限らず演奏クオリティについての批判も高まり[13]、オーケストラのメンバーからも見限られてしまった[14]。さらに、指揮者ジョージ・セルをめぐるトラブルにも巻き込まれ[15][註 3]、1963年にホルダは辞任した[3][13][註 4]。ちなみに、ホルダは同年にアメリカ合衆国の市民権を獲得している[21]。ホルダの妻オードリーは、ホルダはアメリカに戻りたがっていたと回想している[21]。
その後ホルダは、1970年から1976年にかけてアントウェルペン・フィルハーモニー管弦楽団、1982年から1984年にかけてエウスカディ交響楽団の指揮者を務めた[3][2]。また、客演指揮者としても世界各地で活躍し、BBC交響楽団、ロンドン交響楽団、ロサンゼルス・フィルハーモニック、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したほか、中南米・オーストラリアのオーケストラにも登場した[1][4][22]。
1996年3月18日、ブリュッセルの自宅にて死去[2][23]。なお、死去したのは同年3月22日とする資料もある[23]。
人物
[編集]性格
[編集]ホルダは敬虔なカトリック教徒で、毎週日曜日は教会に足を運んだ[24]。日曜日にオーケストラのリハーサルがあっても、教会でのミサが終わってから参加したほどであった[24]。また、ホルダは話が長いことで知られた[24][25]。サンフランシスコ交響楽団の首席ファゴット奏者を務めたワルター・グリーンは、1時間のリハーサルのうち、実際に音を出せたのはわずか7分で、残りの53分はずっとホルダが喋っていたと回想している[24]。
なお、グリーンは「ホルダは指揮者としては今ひとつだったものの、とても賢く紳士的な人物で、人間としては好きだった」とも回想している[24][26]。15年ぶりに再会した際も、ホルダはグリーンの子どもの名前をしっかりと覚えており「ナンシー、デイヴィッド、ピーターは元気かい」と話しかけたという[27]。
家族
[編集]妻はオードリー・ホルダ[23]。また、2人の娘カリンとテッサがいる[23]。
音楽性
[編集]指揮姿
[編集]ホルダの指揮は勢いがあり、聴衆も盛り上がった[28][29]。勢い余って、指揮棒が客席に飛んでいくことも多かったという[29]。ただし、サンフランシスコ交響楽団でヴァイオリン奏者を務めたデイヴィッド・シュナイダーは「ホルダの闘牛士のような指揮姿は、音楽的なアイデアを伝達する手助けとはならなかった」と指摘している[25]。さらにシュナイダーは、暗譜で指揮をするホルダは、オーケストラで演奏上のミスが生じた際にうまく対処することができなかったとも指摘している[25]。
同時代の作品の紹介
[編集]サンフランシスコ交響楽団時代、ホルダは同時代の新しい作品を数多く取り上げた[23]。具体的にはチャールズ・アイヴズ、ホアキン・ロドリーゴ、ホアキン・トゥリーナ、パウル・ヒンデミット、マヌエル・ポンセ、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、レオン・キルヒナーらの作品である[23]。
また、ホルダは以下の作品を初演した[4]。
作曲者 | 曲名 | 備考 |
---|---|---|
ダリウス・ミヨー | 交響曲第8番[4] | |
ダリウス・ミヨー | 交響曲第12番[4] | |
ロイ・ハリス | 交響曲第8番[4] | |
ホアキン・ロドリーゴ | 紳士のための幻想曲 | ギターはアンドレス・セゴビア[4] |
チャールズ・カッシング | Ceresus | 本作はフォード財団の支援により作曲され、ホルダに献呈された[30]。 |
パブロ・カザルス | エル・ぺセーブレ | アメリカ初演[31]。 |
ファーディ・グローフェ | サンフランシスコ組曲[23] | |
アンドリュー・インブリー | レジェンド[23] | |
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ | 交響曲第2番 | アメリカ初演[23] |
ダリウス・ミヨー | 交響曲第5番 | アメリカ初演[23] |
ルチアーノ・ベリオ | Nones | アメリカ初演[23] |
ルイジ・ノーノ | インコントリ | アメリカ初演[23] |
顕彰歴
[編集]ホルダは1958年に、スペインのアルフォンソ10世勲章を授与された[1][4]。
著書
[編集]- 『総譜を前にしたオーケストラの指揮者 (El director de orquesta ante la partitura)』(1969年)[4]
評価
[編集]否定的な評価
[編集]着任当初こそ好評を博したものの、サンフランシスコ交響楽団時代のホルダは評判が良くなかった[13][28][32]。聴衆からレパートリーや演奏クオリティについて批判されたほか[13]、オーケストラの団員からも低く評価された[14]。首席ファゴット奏者を務めたワルター・グリーンは、ホルダについて「(木管楽器の首席奏者を同年代で揃えるなど)どのようにオーケストラを構成すれば良いかは理解していたが、ホルダはテクニシャンではなかったし、いい指揮者ではなかった」と述べている[33]。また、同団ヴァイオリン奏者のデイヴィッド・シュナイダーは「ホルダの情熱が、彼の若さや経験不足を補ってくれると考える団員もいたが、年配の団員や皮肉っぽい団員たちは、ホルダが一流の指揮者になる見込みはないだろうと思っていた」と回想している[29]。さらに、ソリストとしてサンフランシスコ交響楽団に登場したヴァイオリン奏者のナタン・ミルシテインも、ホルダによるサポートが不十分であったと判断し、しばらくサンフランシスコ交響楽団を避けるようになった[34]。
フィリップ・ハートは、人気と成功を博した音楽監督の後継者が失敗するケースが、アメリカのオーケストラには数多く見られると指摘し、その一例として、ピエール・モントゥーからサンフランシスコ交響楽団を引き継いだホルダの名前を挙げている[35]。なお、ハートは同じような指揮者として、アルトゥーロ・トスカニーニからニューヨーク・フィルハーモニックを引き継いだジョン・バルビローリ、フレデリック・ストックからシカゴ交響楽団を引き継いだデジレ・デフォー、フリッツ・ライナーからシカゴ交響楽団を引き継いだジャン・マルティノンの名前を挙げている[35]。
また、ホルダは他のオーケストラに客演した際も批判を受けた[36][37]。例えばイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した時は、ソリストをサポートできていなかったと評された[36]。また、ダイネリー・ハシーはホルダについて「プレイヤーたちから常に正確な和音を引き出したわけではない」と指摘した[38][37]。
肯定的な評価
[編集]ただし、ホルダへの肯定的な評価も存在する[39][40]。例えばマイク・オコンネルは、ホルダとサンフランシスコ交響楽団によるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『交響曲第36番』の演奏について「正確で、繊細かつ抒情的」と評した[39]。また、エヴェレット・ヘルムは両者によるレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの『交響曲第5番』について「今まで聴いた中で最高の演奏」と述べている[40]。他にもビル・サリバンは、サンフランシスコ・オペラでマヌエル・デ・ファリャ、アルテュール・オネゲル、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作品を指揮したホルダについて「様々な流派・時代の作品を色彩感豊かに解釈して聴衆を熱狂の渦に巻き込んだ」と評した[41]。
さらに、ホルダとサンフランシスコ交響楽団によるピョートル・チャイコフスキーの『交響曲第5番』は「指揮棒が下ろされるやいなや、聴衆たちの熱烈な拍手を受けた」と評された[42]。また、ホルダの友人であるマヌエル・デ・ファリャが作曲した『スペインの庭の夜』については、ホルダによる解釈が最高だとする声もあがった[43]。
サンフランシスコ交響楽団での失敗は、ホルダ以外にも原因があるという意見もある[14]。ウィリアム・ハックは、サンフランシスコ交響楽団の75年の歴史を振り返った記事において、ホルダの失敗は全てホルダ自身のせいというわけではなく、5年足らずで新しい指揮者が求められるようになった時代の変化に伴うものでもあると指摘している[14]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ホルダがパリで指揮者デビューを果たしたのは1938年とする資料もある[2]。
- ^ ケープタウン時代のホルダの教え子には、ダン・アルスターがいる[7]。
- ^ 『サンフランシスコ・クロニクル』紙の音楽批評家アルフレッド・フランケンシュタインは、本来セルが指揮するはずだったサンフランシスコ交響楽団のコンサートの代役を務めたホルダを称賛し、セルに「次のシーズンにホルダを(セルが音楽監督を務めていた)クリーヴランド管弦楽団に招くべきだ」と書き送った[16][15]。セルはこれに怒り、フランケンシュタインからの手紙を『サンフランシスコ・クロニクル』紙に公開する[15][17][18]。セルは、サンフランシスコ交響楽団のプログラム解説者も務めていたフランケンシュタインの中立性に疑義を呈し、「これほど音楽的にひどい街にであったことはなかった」とまで述べた[15][17]。これを受けて『サンフランシスコ・クロニクル』紙は「われわれは、ジョージ・セルに対して、サンフランシスコ交響楽団、監督のホルダ、そしてフランケンシュタイン氏に深い謝罪をするよう勧告する」という社説を掲載した[17]。結果的に、次のシーズンが終わった1963年に、ホルダはサンフランシスコ交響楽団の常任指揮者を辞任した[3][13]。なお、ホルダは辞任について「完全に自分自身の判断によるものであり、誰かに強制されたわけではない」とコメントしている[12]。
- ^ ホルダは1962年にサンフランシスコ交響楽団の職を辞すことを申し出たが[19]、あと1年は留まるようオーケストラから依頼されたため[20]、実際に辞任したのは1963年である[3][13]。
出典
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参考文献
[編集]英語資料
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日本語資料
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- Noël Goodwin「ホルダ, エンリーケ」『ニューグローヴ世界音楽大事典 第17巻』、講談社、1996年、163頁、ISBN 4-06-191637-8。
- 上地隆裕『世界のオーケストラ(1) 北米・中米・南米編』芸術現代社、2015年、14頁。ISBN 978-4-87463-203-1。
- 「Jordá, Enrique エンリケ・ホルダ」『演奏家大事典 Ⅰ A-L』、財団法人音楽鑑賞教育振興会、1982年、750頁。
- マイケル・チャーリー 著、伊藤氏貴 訳『ジョージ・セル』鳥影社、2022年。ISBN 978-4-86265-932-3。
- フィリップ・ハート 著、木村英二 訳『新世代の8人の指揮者』音楽之友社、1984年。ISBN 4-276-21706-7。
- 藤田由之「ホルダ Enrique Jordá」『音楽大事典 第5巻』、平凡社、1991年、2378頁、ISBN 4-582-12500-X。
外部リンク
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