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キャサリン・スウィンフォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キャサリン・スウィンフォード
Katherine Swynford
キャサリン・スウィンフォードの紋章。赤地に3つの車輪で表される。(彼女の実家の姓「roet」は「車輪」の意味)

出生 (1350-11-25) 1350年11月25日
死去 (1403-05-10) 1403年5月10日(52歳没)
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国、リンカーン大聖堂
配偶者 ヒュー・スウィンフォード
  ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント
子女 トマス・スウィンフォード
ブランシュ・スウィンフォード
ジョン・ボーフォート
ヘンリー・ボーフォート
トマス・ボーフォート
ジョウン・ボーフォート
家名 ルート家
父親 ペイン・ド・ルート
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キャサリン・スウィンフォードKatherine Swynford もしくは Katharine, Catherine, 旧姓はキャサリン・ド・ルート(Katherine de Roet), 1350年11月25日 - 1403年5月10日)は中世イングランドの貴族女性。イングランド王族のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの愛人で後に3番目の妻になる。彼女の子は臣籍降下して名門ボーフォート家を興す。ランカスター朝の始祖ヘンリー4世は継子(ジョン・オブ・ゴーントと最初の妻ブランシュの息子)。

2度の結婚

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キャサリンはペイン・ド・ルート[1]の娘として生まれた。彼女は16歳の時(1366年頃)にヒュー・スウィンフォード[2]と結婚した。ヒューはケトルソープ(Kettlethorpe)に邸宅をもつ裕福な騎士であり、2人の間に2人以上の子を授かったが、彼女の父と同様に大陸で戦死してしまう。

ヒュー・スウィンフォードに先立たれた後、彼女はランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの邸宅に入る。表向きはジョンの妻ブランシュに呼ばれた「ジョンの2人の娘たちの家庭教師」という名目であった。この公妃は1369年に亡くなり[3]、ジョンの2番目の妻であるコンスタンス・オブ・カスティル1394年に亡くなると、1396年1月13日にジョンとキャサリンはリンカーン大聖堂で結婚し、ジョンが1399年に亡くなるまでの3年間を夫婦として過ごしている。

1403年5月10日、キャサリンはジョンの死の4年後に亡くなった。彼女と娘のジョウンはリンカーン大聖堂の聖壇に埋葬されたが、その墓所は1644年清教徒革命の内戦の折に清教徒の略奪を受けた。

キャサリン・スウィンフォードの墓

家族

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ヒュー・スウィンフォードとの間に以下の子女をもうけた[4]

  • トマス(1368/72年 - 1432年)
  • ブランシュ(1370年頃 - ?)

ジョンとキャサリンの間には子供が4人いた。

4人とも結婚前に生まれた子だったため通常なら庶子扱いだが、ジョンは1390年に従兄のリチャード2世によって「嫡出子である」という私的談話を得て、さらに結婚後の1397年1月には議会宣言の形で議会の承認もとった。すでに「ボーフォート」という姓をもらっていた4人の子供達は晴れて「ジョン・オブ・ゴーントの嫡出子」となった[5]

1640年に描かれたキャサリン・スウィンフォードとジョウン・ボーフォートの墓

ジョウンの孫は後にヨーク朝を開くエドワード4世とその後を継ぐリチャード3世である。そのリチャード3世を倒してテューダー朝を開いたのは、ジョンの曾孫のヘンリー7世である。出生時期さえ定かでないような私生児だったボーフォートの血脈は、こうしてイングランド王室につながっていく事になる。

脚注

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  1. ^ ペイン・ド・ルート(Payne (or Paen) de Roet(or Rouet or Roelt)):エノー出身のフランドル紋章官で戦死する間際に騎士に叙された。
  2. ^ スウィンフォード(Swynford):資料によってはシンフォード(Synford)と表す場合もある。
  3. ^ この公妃ブランチェを題材にしたと言われている「公妃の書」という詩を書いたジェフリー・チョーサーは、キャサリンの妹フィリッパと結婚した義弟である。
  4. ^ Alison Weir, Britain's Royal Families, Vitage, 2008, p. 103
  5. ^ 但し、後に継子ヘンリー4世が即位すると、「嫡出子だが王位継承権はないものとする」という一文が追加された。