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ケーブル・アンド・ワイヤレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ケーブル・アンド・ワイヤレスCable & Wireless、1934年 - 2010年)は、海底ケーブルを主力に世界80カ国で事業展開した電気通信事業者。略称はC&W。旧称は、イースタン・テレグラフ・カンパニー(大東電信会社)、IIC(Imperial and International Communications)。ジョン・ペンダー英語版が創業したイースタン・グループの主力会社。国策事業につき本社はイギリスにあり、主要な事業領域としてイギリス、ヨーロッパ大陸カリブ海パナマ中東マカオである。バークレイズロスチャイルドを経営顧問とした[1]

子会社に電話会社マーキュリー・コミュニケーションズ英語版がありBTグループと競合していた。2010年、ケーブル&ワイヤレス・コミュニケーションズとケーブル&ワイヤレス・ワールドワイドに分社化され、後者は2012年7月いっぱいでボーダフォンに完全買収された。

ペンダー帝国

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ジョン・ペンダーはマンチェスターの木綿取引業者で、1852年、電信会社ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・マグネティック(BIM、British and Irish Magnetic)の重役らと金を出し合い、ロンドン・ダブリン間の電信を経営する会社を立ち上げた。これがケーブル・アンド・ワイヤレスの原点である。会社は1856年、大西洋電信会社Atlantic Telegraph Company、1856年 - 1870年)となり、ペンダーが重役を務め、大西洋横断電信ケーブルを敷設した。しかし経営難で新規事業を自力で開拓できなくなった。

そこで1864年、ペンダーは大手ケーブルメーカーのガッタ・パーチャ・カンパニー英語版グラス・エリオット・アンド・カンパニー英語版 の二社合併を仲介し、テルコンTelegraph Construction and Maintenance Company)を誕生させた。ところが翌1865年、2本目のケーブル敷設に失敗し、結局破綻してしまった。

ペンダーは新規にアングロ・アメリカン電信会社(Anglo-American Telegraph Company)を立ち上げた。テルコンは同社の助けで再建に成功し、失ったケーブル所有権を回復した。1866年には大西洋間ケーブルを敷設した[2]

1868年、イギリスの電信買収法による電信の国有化に伴い、イギリス政府は電信会社の株主らに800万ポンドの補償金を充当した[3]。BIMも例外ではなかったが、しかし海外のケーブルは対象外であった。

1870年大北電信会社と勢力圏を協定した。大北の営業圏は香港以北、大東は上海以南とした。営業圏の重なる香港-上海間は協定によって利益配分された。5月14日付タイムズ紙より。この談合は大北が長崎へ進出する足場となった。この頃、大東のケーブルはテルコンのそれとマルタで接続し、マルセイユへ連絡した[2]

1872年、グループの4社がペンダーを会長としてイースタン・テレグラフ・カンパニー(大東電信会社、Eastern Telegraph Company)へ統合された[4]。この頃、ペンダーの支配下にある海底ケーブルはポースカーノからジブラルタル、マルタ、スエズ運河アデンを経由してボンベイに至る長さであった。1874年にポルトガル・ブラジル間のケーブルを傘下に収め、1878年に買収した[5]

1879年から第二次ボーア戦争にかけて、ペンダーは新会社を設立し[6]、アフリカへケーブルを伸張した[2]

1889年、ペンダーは詐欺師のジャベツ・バルフォアと組んでMetropolitan Electric Supply Co. という電力会社を経営しており、この年に商務省からロンドン中心部の4箇所に電力の独占供給を許された。4箇所とは、リンカーン法曹院コヴェント・ガーデンメリルボーンブルームスベリー。こうした権益は送電網の合理化においてロンドンがベルリンに遅れる原因となった。

太平洋開発

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1896年にペンダーが死去。ツィードデール侯爵が大東の会長となり、ペンダーの息子デニソンがマネージング・ディレクターとなった[2]

1899年にブラジル事業を統合[7]、西部電信(Western Telegraph Company)を設立した。

1900年、イギリス・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ四カ国政府が太平洋ケーブルの合資を決意し、テルコンが敷設契約を勝ち取った[2]。これは1902年10月に竣工した。同年12月14日、大東が半分、大北が1/4出資する商業太平洋ケーブル会社(Commercial Pacific Cable Company)がサンフランシスコとハワイを結ぶ初の太平洋横断電信ケーブルを敷設。翌1903年に、ハワイからミッドウェー経由でフィリピンまで延伸。日露戦争が終わってすぐの1905年9月、この会社は日本政府と共同事業に合意し、敷設作業日米間太平洋横断国際海底ケーブルを開通させた。1906年8月1日の開通当日は明治天皇セオドア・ルーズベルト間に祝賀電文の交換が行われた。ポーツマス条約締結後も新たな協約に基づいて共同事業は続けられた。

世界通信戦争

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第一次世界大戦の間、海外のケーブルは英国政府に管理された。海軍・郵政庁(General Post Office)と連携し、ドイツ帝国・北米間の海底ケーブルを寸断、一時はドイツ帝国が所有する太平洋とインドシナ海のケーブルも使用不能にした[2]ヤップ島上海間のケーブルを切り取り、沖縄=上海間に、青島市=上海間は上海=佐世保間につなぎなおした。

1919年、リオデジャネイロアセンション島の間に、翌1920年ブラジルのサン・ルイスバルバドスの間に、海底ケーブルを敷設、後者はウエスタンユニオンフロリダ経由でネットワークを構築できるようにした[8]。ほどなくフロリダには投信を使った不動産投機熱が起こった。1925年、テルコンが技術革新(automatic regeneration)を成し、グリエルモ・マルコーニの無線と競争した。

1929年4月8日、大東電信会社がマルコーニ社および英国通信事業と合併してIIC(Imperial and International Communications)となった。世界恐慌の波紋が広がるなか、テレックスが発明され、アメリカのITT(International Telephone and Telegraph)との競争も激しくなった。1934年、IICからケーブル・アンド・ワイヤレスへ改称した[2]

1938年第二次世界大戦突入時に、切断すべきドイツ・イタリアの海底ケーブルリストを作成した。イギリスは戦中ドイツ帝国のときのように、まずドーバー海峡のドイツからスペイン、ポルトガル、アゾレス諸島にのびるケーブルを切断した。イタリアの宣戦布告を受けて、地中海と大西洋のイタリアケーブルを切断した。英国政府とは自社株を譲るほどの間柄で、代わりに郵政庁が開発した短波無線の特許を得た[2]。翌1939年ミュンヘン会談で検討されていた「監視計画」を開始。1920年の公職機密法に規定されていた権限を全世界に適用した。検閲、ケーブル監視、無線傍受により、エニグマ (暗号機) を除く世界の通信を監視下においた。

1940年2-4月、英仏間で切断したケーブルの扱いについて協議した。社長のエドワード・ウィルショウがイギリス政府に建議、ドイツ・イタリア・フランスの大西洋ケーブルを切断し、新たに英国=ジブラルタル=アゾレス=アメリカを連結するケーブルの敷設を主張した。連合国であるはずのフランスだが、ケーブル・アンド・ワイヤレスはフランス領西アフリカとラゴス間のケーブルを切断した。

国営化と民営化

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1945年6月、BBCのレイス卿(John Reith, 1st Baron Reith)を議長として自治領の代表者が集まりCTO(Commonwealth Telecommunications Conference)が催され、ケーブル・アンド・ワイヤレスを国有化する計画の大枠が決定した。ケーブル・アンド・ワイヤレスはそのまま5年後に相当部分を国有化された。しかし郵政庁に吸収された部分は大方の国内施設だけである。1万5千マイル以上のケーブル網とコーンウォールポースカーノはケーブル・アンド・ワイヤレスの手に残された。この中には、セイロン島パキスタンおよび諸外国にある無線およびケーブル等の自己資産が含まれる。

1956年、イギリス郵政庁・AT&T・カナダ海外通信(Canadian Overseas Telecommunication Corporation)の三者共同事業が、オーバン (スコットランド)-クラーレンヴィル間に世界初の大洋横断電話ケーブルTAT-1 を完成した。1962-1967年、ケーブル・アンド・ワイヤレスがCOMPAC とSEACOM のために海底ケーブル敷設船Mercury を派遣。1969年に社史発行[9]。1972年まで香港テレコム(HKT)を軸足としてきたケーブル・アンド・ワイヤレスだったが、翌年から北海油田や南米と関係した事業を展開し多角化した[2]1975年9月、OLUHOケーブルの建設保守協定を国際電信電話Eastern Telecommunications Philippines の三社間で合意した。

1980年マーガレット・サッチャー民営化方針が打ち出され、翌年に政府が保有株の半分を売却した。このときフェランティがケーブル・アンド・ワイヤレスの株式を取得するのをロスチャイルドがサポートした。

1982年2月、BTグループの対抗馬として、政府はマーキュリー・コミュニケーションズに通信事業をライセンスした。同社はケーブル・アンド・ワイヤレスとバークレイズとBPの合弁事業であった[2]

1984年、ケーブル・アンド・ワイヤレスがバークレイズと郵政庁保有のマーキュリー株を買い戻した。1987年ごろ、マーキュリーがTDX Systems を完全買収した。1989年4月から翌年3月のあいだ、ケーブル・アンド・ワイヤレスはイエメンセイシェルに子会社をつくった。1990年10月、会長にヤング(David Young, Baron Young of Graffham)が就任した[2]

C&W 継承戦争

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1997年初頭、ケーブル・アンド・ワイヤレスはドイツのフェバ社(VEBA)およびRWEとの提携関係を解消した。この年にパナマの電話公社を買収しようとしたり、スプリントとの合併が噂されたりした。翌1998年ワールドコムに再編されるMCI(MCI Inc.)のインターネット事業を買収した[2]

2000年、ケーブル・アンド・ワイヤレスがハイパーリンク・インタラクティブ(現・ウェブテクノロジーグループ)を買収。2001年、倒産したエクソダス(Exodus Communications)を買収。MP3.com も参照。

2004年3月、アメリカの国内事業を売却するが、国際通信ビジネスは継続。同年6月、ヴィヴェンディからモナコテレコム株55%を1億6200万ユーロで買収する合意を発表(モナコ#経済[2]。同年8月、資金決済システムにおけるスイフトネット独自の運用コードと協調稼動していたことをケーブル・アンド・ワイヤレス側が発表。スイフト側は、「こうした連携が産業での資金運用を分かりやすくしてくれるので、金融機関はスイフトネットを使った投資にレバレッジを一層かけやすくなる」とコメントした[10]。同年10月、日本法人であったC&W IDCは、国内事業部門のIDCをソフトバンクグループに売却した(現IDCフロンティア)。

2005年2月、日本法人をC&W UKとする。日本支店を千代田区大手町に置き、国際通信サービスを提供中。同年、子会社エネルギス(Energis)に5億9400万ポンドを投資。

2007年2月、ウェブテクノロジーグループなどを売却。

2010年、カリブ海ラテンアメリカ諸国事業を分離して、ケーブル&ワイヤレス・コミュニケーションズ(Cable & Wireless Communications/CWC)に移管、ケーブル&ワイヤレス・ワールドワイド(Cable & Wireless Worldwide/CWW)となったが、経営がうまくゆかず、結局CWWはボーダフォンに買収された。

2013年、CWCはマカオ事業を栄毅仁創立のシティック(CITIC Group)に売却した。2014年にはモナコテレコムをフランスのザヴィエル・ニール(Xavier Niel)に4億4500万ドルで売った。そしてBPのフィル・ベントレー(Phil Bentley)がCEOとなった。

2015年、リバティ・グローバルが82億ドルでCWCに買収を申し出た。リバティ・グローバルの会長ジョン・マローンJohn C. Malone)は、2013年にCWCがコロンブス・インターナショナルを買収するのに資金を出しており、そのときに相当数のCWC株を取得している。この案件は2016年4月20日、CWCの株主総会で賛成を得た[2]

名称の推移と子会社

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  • British and Irish Magnetic (BIM、1857) - British Telegraph Company (1852)、English and Irish Magnetic Telegraph Company (1853)が統合
    • Atlantic Telegraph Company (大西洋電信会社、1856 - 1868)
      • Telegraph Construction and Maintenance Company (1864) - Gutta Percha Company、Glass, Elliot & Coが統合。電気通信法が施行(Telegraph Act、1963)。
      • Anglo-American Telegraph Company (1865)
  • Eastern Telegraph Company (大東、1872)- グループ4社が統合
    • Eastern and South African Telegraph Company (1879)
    • African Direct Telegraph Company (1885)
    • West African Telegraph Company (1885)
    • Western Telegraph Company (西部電信、1899) - Brazilian Submarine Telegraph Company (1873)、Western and Brazilian Telegraph (1873)を統合
    • Commercial Pacific Cable Company(商業太平洋ケーブル会社、1901)- 大東・大北の合弁。1905年に日本政府と共同事業契約。
  • Imperial and International Communications(IIC、1929)- 大東、マルコーニ社、英国通信事業が合併
  • Cable and Wireless (1934)
  • Cable and Wireless (1945) - 国有化
  • Cable and Wireless (1984) - 民営化


関連項目

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脚注

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  1. ^ Browning, Jonathan; Campbell, Matthew (23 April 2012). “Vodafone Agrees to Buy Cable & Wireless for $1.7 Billion”. Bloomberg. http://www.bloomberg.com/news/2012-04-23/vodafone-agrees-to-buy-cable-wireless-for-1-7-billion.html 9 June 2012閲覧。 
    同日付の日本語版では削られている。ブルームバーグ 英ボーダフォン、C&W買収で合意-1360億円規模 英ボーダフ 2012/04/23
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n International Directory of Company Histories, Vol. 182.
  3. ^ Charles Bright "The Extension of Submarine Telegraphy in a Quarter-Century" Engineering Magazine December 1898, pp.417-420
  4. ^ 括弧内は設立年。Anglo-Mediterranean Telegraph Company (1868); Falmouth, Malta, Gibraltar Telegraph Company (1869); British Indian Submarine Telegraph Company (1869); Marseilles, Algiers and Malta Telegraph Company (1870); GLOBE TELEGRAPH AND TRUST COMPANY LIMITED (The holding company, 1873)
  5. ^ London-Platino Brazilian Telegraph Company
  6. ^ Eastern and South African Telegraph Company (1879); African Direct Telegraph Company (1885); West African Telegraph Company (1885) 社史から。
  7. ^ Brazilian Submarine Telegraph Company (1873); Western and Brazilian Telegraph (1873)
  8. ^ 社史、14頁
  9. ^ A Century of Service Cable and Wireless Ltd. 1868-1968, Bournehall Press, London
  10. ^ Finextra Cable & Wireless goes live with Swift operating code for Real Time Nostro service 25 August 2004

外部リンク

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