シカゴ・ソウル
シカゴ・ソウル(Chicago soul)は、ソウルミュージックの地域別スタイルの一つ。1960年代にシカゴで発展した。1960年代のデトロイト(モータウン)やメンフィス(スタックス)と並び、シカゴは1960年代、1970年代のソウル全盛期の拠点となった。
概要
[編集]ゴスペルやブルースの豊かな土壌の影響を受けたサザン・ソウルと同じく、シカゴ・サウンドも明らかにゴスペルを音楽要素としてふくむが、多少ソフトに洗練されているという特徴を持つ。シカゴのR&Bボーカル・グループは、リードボーカリストに、甘く落ち着いたコーラス・ハーモニーを添えてきた。
管楽器に強いジョニー・ペイト[注 1]や、カール・デイビスなどの編曲家が洗練されたオーケストレーションを行った。ゴスペルの要素が強く激しい南部ソウルに比べ、北部のシカゴ・ソウルは洗練された傾向がある。
主要レーベル
[編集]主に1960年代・1970年代に活発に活動したレーベルを記載。
ヴィージェイ (Vee-Jay)
[編集]1952年シカゴで設立された。後にインディアナ州ゲイリーへ移転している[1]1958年、シカゴでの最初のソウル・ヒットと目されるジェリー・バトラー&インプレッションズ『For Your Precious Love』を録音。A&R担当のカルビン・カーターが多くの歌手を育てあげ、バトラー『He Will Break Your Heart』、ベティ・エヴェレット『The Shoop Shoop Song (It's in His Kiss)』、Dee Clark『レインドロップス』、ジーン・チャンドラー『デューク・オブ・アール』[注 2]などがヒットした。
1962年にビートルズがアメリカで最初に契約したレーベルとしても有名である。1963年7月にビートルズの米国初アルバム『イントロデューシング・ザ・ビートルズ』を発売。資金繰りがきつくプロモーションもできなかったのでビートルズを手放すことになり、1966年に破産処理した。
チェス (Chess Records)
[編集]チェス・レコードはかつてブルースを専門に扱っていたが、A&Rのロッケル・ビリー・デイビスが
- ザ・デルズ("en:Stay in My Corner")、
- the Radiants ("Voice Your Choice")、
- ジャン・ブラッドレー("Mama Didn’t Lie")、
- フォンテラ・バス("Rescue Me")、
- ビリー・スチュアート(“I Do Love You”)
などを育てた。エタ・ジェイムスはバラードの『At Last』、ソウルフルな『Tell Mama』を歌った。
オーケー (OKeh)
[編集]コロムビア・レコード傘下にあるこのレーベルは、古くはルイ・アームストロングの1920年代の初期音源で知られる。A&Rはカール・デイヴィス。カーティス・メイフィールドが多くの曲を書き、シカゴ・ソウルの象徴となった。メジャー・ランス(『モンキー・タイム』)、Walter Jackson ("It’s All Over")、ジェリーの弟ビリー・バトラー ("Right Track")、Artistics ("Get My Hands on Some Lovin'")などがヒット。
ABCパラマウント (ABC-Paramount)
[編集]ギター・作曲のカーティスが率いたインプレッションズが所属。後にボビー・ウォーマックらがカバーした"ジプシー・ウーマン"、ロッド・スチュアート、ボブ・マーリーらがカバーした"People Get Ready"などがヒット。ほかにマーベロウズ ("I Do")がいた。
マーキュリー (Mercury)
[編集]1946年にアーヴィン・グリーン、バール・アダムスらが、シカゴで設立したレーベルである[2]。インディーズとしてスタートした後、プラターズの大ヒットなどで、メジャー・レーベルに成長した。所属した音楽家としては、ジェリー・バトラー(シカゴ出身)、オハイオ・プレイヤーズ、バーケイズ、コンファンクシャン、カメオらがいる。白人ポップ・グループのペイパー・レイスは「ザ・ナイト・シカゴ・ダイド」(1974)のヒットをはなっている。
コンステレーション (Constellation Records)
[編集]1963年8月にエワート・アブナー、Bill "Bunky" Sheppard、Art Sheridanが設立。アブナーはヴィージェイから飛び出した人物で、プロデューサーのBill "Bunky" Sheppardと、ジーン・チャンドラーとディー・クラークを引き抜いていた。Art Sheridanは1950年代初頭にチャンス・レコードを経営していて、ヴィージェイに投資していた。
チャンドラーは次の3年で飛躍し、"Just Be True"や"Nothing Can Stop Me"が全国ヒットになった。一方、ディー・クラークは"Warm Summer Breezes"や"Heartbreak"の地元ヒットに終わった。
ワン・ダーフル (One-derful)
[編集]One-derful, M-Pac, Mar-V-lus, Midasの四つのレーベルの複合体で、はげしいゴスペル的スタイルを取った。オーティス・クレイ [注 3]("That’s How It Is"), Harold Burrage("Got to Find A Way")、マッキニー・ミッチェル ("The Town I Live In")、ハロルド・バラージュ ("Shake a Tail Feather")などがいた。アルビン・キャッシュとthe Crawlersの"Twine Time"がダンス・ヒット。
ブランズウィック (Brunswick)
[編集]若いころのビリー・ホリデーの音源で有名な、ニューヨークが本拠のレーベル。A&RのCarl Davisがシカゴで活躍し、シカゴ・サウンドの大きな部分となった。
まずは1966年にジャッキー・ウィルソンが録音を開始し、『ハイヤー・アンド・ハイヤー』といったヒット曲を世に送った。
ほかにシャイ・ライツ(『オー・ガール』『have you seen her』)[3]、アーティスティックス ("I'm Gonna Miss You")、バーバラ・アクリン ("Love Makes A Woman")、タイロン・デイビス ("Turn Back the Hands of Time")、ジーン・チャンドラー ("The Girl Don't Care")がいた。
カートム (Curtom)
[編集]カーティス・メイフィールドのレーベル。1968年録音開始。ポスト・ソウル時代にファンク、ディスコ音楽をつくり、黒人映画音楽の主要な制作者となった。メイフィールドはこのレーベルでソロ活動を開始し、映画『スーパーフライ』のサウンドトラック (1972年)が最も売れた。
他にLinda Clifford ("Runaway Love")、the Natural Four ("Can This Be Real"『count on me』)、Staple Singers ("Let's Do It Again")などがヒット。メイフィールドはカートム以前にWindy C (Five Stairsteps, Holly Maxwell, June Conquest)、Mayfield (Fascinations, The Mayfield Singers)を経営しており、Mayfieldには後のスター:ダニー・ハサウェイとリロイ・ハトソンがいた。
1980年にメイフィールドはカートムを閉鎖しアトランタへ引っ越した。ほどなくしてブランズウィックも閉鎖。時代はディスコ全盛で、シカゴ・ソウルは次第に終焉していった。
シャイサウンド (Chi-Sound)
[編集]ふたたびカール・デイヴィスの会社。シャイ・ライツ、デルズ、チャンドラーなどのほか、1976年から1982年までにウィンディ・シティ、エボニー・リズム・ファンク・キャンペーン、マグナム・フォース、シドニー・ジョー・クォールズ、マンチャイルドらがディスコ・ヒットを量産した。
主なミュージシャン
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脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 「R&Bの死」ネルソン・ジョージ著、p.75、早川書房
- ^ “Mecury Records co-founder Berle Adams dies”. Variety. 2022年1月12日閲覧。
- ^ “The Chi-Lites R&B Single Chart”. Billboard. 7 December 2021閲覧。
- ^ Wynn, Ron (1955年3月29日). “Willie Clayton - Music Biography, Credits and Discography”. AllMusic. 2013年3月27日閲覧。
関連項目
[編集]洋書
[編集]- Pruter, Robert (1991). Chicago Soul. Urbana, IL: University of Illinois Press.