タケデンバード
タケデンバード | |
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品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
生誕 | 1969年4月25日 |
死没 | 不明 |
父 | アドミラルバード |
母 | エリースコット |
生国 | 日本(北海道新冠町) |
生産者 | 新冠橋本牧場 |
馬主 | 武市伝一 |
調教師 | 稲葉秀男(中山) |
競走成績 | |
生涯成績 | 26戦6勝 |
獲得賞金 | 5025万0400円 |
タケデンバードは日本の競走馬。中央競馬の重賞であるクモハタ記念(東京1800メートル)と高松宮杯(中京2000メートル)に優勝したが、どちらも(さらに初めての特別戦勝ちも)いわく付きの勝ち鞍であり、魔性の馬・死神などと揶揄された。
なお、クラシックではランドプリンス(皐月賞)・ロングエース(日本ダービー)・イシノヒカル(菊花賞・有馬記念)・タイテエム(天皇賞(春))などのいる「最強世代」と呼ばれた1972年世代の一頭である。
戦績
[編集]1971年9月18日に中山でデビューしたタケデンバードは、当レースを5着の結果で終わった。
その後は、5ヶ月の休暇を挟んでの4戦目の未勝利戦で初勝利を挙げた。この時点では、『単なる遅れて来た最強世代の凡庸な一頭』位の評価でしかなかった。
この評価が一転するのが、1972年7月9日に開催されたダービー[1]出走への足掛かりとなった特別戦・みずばしょう特別であった。4頭もの落馬事故が発生した当レースを、不利を受けず、タケデンバードは圧勝している[2]。
ダービーを11着と言う結果に終わったタケデンバードは、10月22日の条件戦を勝ちオープン馬となった。次のカブトヤマ記念を2番人気で挑んだものの、ハクホオショウに完敗の9着に終わった。次走のクモハタ記念では野平祐二騎手が鞍上となった。
こうして始まったクモハタ記念[3]は、先導役と目されたトーヨーアサヒの出遅れと言う波乱のスタートとなった。断然の1番人気・ハクホオショウは先行集団の前の定位置に付け、タケデンバードはハクホオショウをマークすべくその外に位置していた。レースが動いたのは、直線に入ってからで、タケデンバードはラファールと共に抜け出す。ハクホオショウは馬群を抜け出すのに手間取ったものの、直線坂上でタケデンバードを捉えた。タケデンバードは二の足を使い逃げ込みを図るものの、ゴール前でハクホオショウにクビ差交わされた様にも見えていた。ところが、決勝判定写真の不備[4]で結果的に誤審となる形で優勝馬とされた。この誤審疑惑は当時は相当な物議を醸し、これ以降は写真判定が義務付けられる事になった(タケデンバード事件)[2]。
更に、翌1973年の高松宮杯では、逃げる2番人気のハマノパレード[5]が直線で落馬転倒し競走中止した。このため、離されていた2番手を走っていた同馬が、何の不利も受けずに1着入線[2]。1番人気のベルワイドが3着止まりだった事もあり万馬券決着となった。馬主、調教師は共に不在で、鞍上も今回初騎乗の蓑田早人であった。
翌年連覇を狙って参戦した高松宮杯では、ハイセイコーに完敗。以降は引退迄の2戦共に惨敗。京王杯オータムハンデキャップは落馬競走中止、ラストランとなった毎日王冠は離された殿負けに終わった。
血統表
[編集]タケデンバードの血統(ネアルコ系 / Pharos(Fairway)3×4・5=21.88%、Spearmint5×5=6.25%(父内)) | (血統表の出典) | |||
父 *アドミラルバード Admiral Byrd 1952 黒鹿毛 |
父の父 Nearco1935 黒鹿毛 |
Pharos | Phalaris | |
Scapa Flow | ||||
Nogara | Havresac | |||
Catnip | ||||
父の母 Woodlark1944 鹿毛 |
Bois Roussel | Vatout | ||
Plucky Liege | ||||
Aurora | Hyperion | |||
Rose Red | ||||
母 エリースコット 1962 黒鹿毛 |
*スコット Scot 1954 鹿毛 |
Souverain | Maravedis | |
Jolie Reine | ||||
Dissenter | Cameronian | |||
Lady Juror | ||||
母の母 *フエリー1950 鹿毛 |
Channel Swell | Fairway | ||
Papilla | ||||
Mavida | Marconigram | |||
Roseflight F-No.1-m |
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 競走馬成績と情報 JBISサーチ