デイビッド・レズリー
デイビッド・レズリー David Leslie | |
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2003年撮影 | |
基本情報 | |
国籍 | イギリス |
生年月日 | 1953年11月9日 |
出身地 | ダンフリーズ, スコットランド |
死没日 | 2008年3月30日(54歳没) |
死没地 | ファンバーラ, イングランド |
デイビッド・レズリー(David Leslie、1953年11月9日 ー 2008年3月30日)は、スコットランド出身のレーシングドライバー。
1980年代から2000年代まで主にル・マン24時間レースやイギリスツーリングカー選手権等で活躍した[1][2]。レスリーと表記される場合もある。
経歴
[編集]1977年にレースデビュー。イギリスのフォーミュラ・フォードやフォーミュラ・アトランティックに参戦。アトランティックのタイトルを1980年に獲得した。その後もイギリスF3やヨーロッパF3などにも参戦し、イギリスF3では、アイルトン・セナやマーティン・ブランドルらとも対戦した。
スポーツカー世界選手権でも1985年から活躍。ル・マン24時間レースにおいても1988年には、マツダスピードからマツダ・767で参戦。マルク・デュエツと片山義美と共にクラス2位を獲得している。
イギリスツーリングカー選手権(BTCC)には、1987年にフォード・シエラで参戦を開始し、その後もインディペンデント(プライベーター)チームのBMW・M3で参戦した。
1992年からはワークスチームから参戦し、レイマロック・リミテッド(RML)が運営するボクスホール(オペル)チームに移籍。翌93年には1勝を挙げてシリーズ8位となる。
1994年は2年間在籍した、ボクスホールを離れてマツダのセミワークスチームに移籍し、マツダ・クセドス6(日本名マツダ・ユーノス500)をドライブする。しかし、チームの資金不足やチームメイトのマット・ニールがシルバーストーンで大きなクラッシュに見舞われてしまい、以降のレースを欠場することになるなど様々な問題もあり、チームはシリーズ半ばで撤退することになった。
1995年はこの年から参戦を始めたホンダに移籍。チームメイトのジェームズ・ケイと共にホンダ・アコードをドライブした。この年はやや厳しいシーズンを送るが、1996年シーズンは3勝をマークし、シリーズ4位を獲得した。
1997年は一時参戦を休止していた日産が、RMLとニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)とのジョイントで参戦する事になり、レズリーはホンダから日産に移籍。チームメイトのアンソニー・レイドと共に日産・プリメーラをドライブした。この年は3位入賞を3回果たし、ランキング8位でシリーズを終えている。翌年日産チームは合計9勝。レズリーも2勝を挙げ、日産のチームタイトルとマニファクチャータイトル獲得に貢献した[3]。1999年はレイドがフォードに移籍することになったが、引き続き日産のドライバーとして残留し、新しくチームに加入したローレン・アイエロとドライバータイトルを争い、シリーズ2位を獲得。日産は2年連続でチームタイトルとマニファクチャータイトル獲得を達成し、ドライバータイトルを含めた3冠を達成した。(インディペンデント部門のマット・ニールのタイトルを含めると4冠。)レズリーはこの年も3勝を挙げ、2位9回と3位を1回記録する好成績を残している。
2000年は日産ワークスがBTCCから撤退。レズリーもこの年のBTCC参戦はジェイムス・トンプソンの代役としてスラクストン戦でホンダからスポット参戦するのみの予定だったが、インディペンデントチームとして日産からプリメーラの供給を受け参戦していた、プロ・モータースポーツのコリン・ブレアの後任ドライバーに選ばれ、シーズン後半のいくつかのレースに出場。この年同チームからスウェーデンツーリングカー選手権 (STCC)にもスポット参戦した。
2001年はBTCCに出場せず、2002年シーズンからはプロトンからフル参戦。この年も優勝こそなかったが表彰台に数回上がり、ランキング7位となった。翌年も引き続きプロトンから参戦したが、この年をもってBTCC参戦を終了した。
BTCC引退後もイギリス国内の耐久レースに時折参戦した他、大学でモータースポーツ・マネジメントの講義を行ったり、世界ツーリングカー選手権の解説者を務めるなど精力的に活動していたが、2008年の3月30日、元レーシングドライバーのリチャード・ロイド率いるアペックス・モータースポーツのマシンテストの為、ロイドらチーム関係者と共にフランス・ノガロ・サーキットに向かう途中、同乗していたセスナ機が墜落。54歳で亡くなった。
この事故は関係者の間に衝撃を与え、特にレズリーと親しくしていた元F1ドライバーのデビッド・クルサードは大きなショックを受けたという[4]。同じく、元F1ドライバーのデビッド・ブラバムもコメントを発表した。レズリーの死後世界ツーリングカー選手権の解説者は同じスコットランド出身で、BTCCで長年ライバルの1人だったジョン・クレランドが引き継いだ。
イギリス国内では、彼の追悼イベントとして「デイビッド・レズリー・スーパーツーリングカー・フェスティバル」が毎年開かれており、クレランドやガブリエル・タルキーニ、フランク・ビエラなどBTCCに参戦したドライバーが多数参加している。同イベントでは、レズリーがドライブしたプリメーラやアコードも出走し、チームメイトだったアンソニー・レイドらがドライブした。
レース成績
[編集]イギリス・フォーミュラ3選手権
[編集]年 | チーム | シャシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | ホープ・スコット・ガレージ | ラルト・RT3 | トヨタ・2TG | SIL | THR | SIL 6 |
MAR 4 |
THR 2 |
THR 3 |
SNE 4 |
SIL 5 |
CAD 5 |
SIL | SIL | BRH | SIL 10 |
MAR 7 |
OUL 4 |
SIL 16 |
OUL 4 |
SIL 7 |
SNE DNS |
THR 12 |
5位 | 27 |
1982年 | ロビンソン・モータースポーツ | マグナム・823 | SIL | THR | SIL | THR | MAR | SNE | SIL 12 |
SIL 20* |
CAD 5 |
SIL 6 |
BRH 13 |
MAR Ret |
OUL | BRH | SIL Ret |
SNE | OUL 5 |
SIL 15 |
BRH 13 |
THR | 12位 | 5 | |
1983年 | ロビンソン・モータースポーツ | マグナム・833 | SIL 7 |
THR 4 |
SIL 5 |
DON 6 |
THR Ret |
SIL 6 |
THR 5 |
BRH 6 |
SIL Ret |
SIL Ret |
CAD | SNE Ret |
SIL 8 |
DON 6 |
OUL 4 |
SIL Ret |
OUL 3 |
THR 4 |
SIL 6 |
THR | 7位 | 22 |
- * : ヨーロッパF3との合同レース。
イギリスツーリングカー選手権
[編集]‡ エンデュランスドライバーの為、ポイント獲得の対象外。
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1984年 | エキュリー・エコッセ | マイク・ワイルズ デビッド・ダフィールド |
エコッセ・C284-フォード コスワース | C2 | 36 | DNF | DNF |
1985年 | マイク・ワイルズ レイ・マロック |
エコッセ・C285-フォード コスワース | C2 | 45 | DNF | DNF | |
1986年 | マイク・ワイルズ レイ・マロック |
エコッセ・C286-オースティン・ローバー | C2 | 181 | DSQ | DSQ | |
1987年 | レイ・マロック マルク・デュエツ |
エコッセ・C287-フォード コスワース | C2 | 308 | 8位 | 2位 | |
1988年 | マツダスピード | マルク・デュエツ 片山義美 |
マツダ・767 | GTP | 330 | 17位 | 2位 |
1989年 | アストンマーティン エキュリー・エコッセ |
デイビット・シアーズ レイ・マロック |
アストンマーティン・AMR1 | C1 | 153 | DNF | DNF |
1990年 | シルクカット・ジャガー トム・ウォーキンショー・レーシング |
マーティン・ブランドル アラン・フェルテ |
ジャガー・XJR-12 | C1 | 220 | DNF | DNF |
1991年 | トム・ウォーキンショー・レーシング サンテック・ジャガー |
マウロ・マルティニ ジェフ・クロスノフ |
C2 | 183 | DNF | DNF | |
1993年 | TWR・ジャガー・レーシング | アルミン・ハーネ ウィン・パーシー |
ジャガー・XJ220 | GT | 6 | DNF | DNF |
1995年 | チーム・マルコス | クリス・マルシュ フランソワ・ミゴール |
マルコス・LM600 | LMGT2 | 184 | NC | NC |
スパ・フランコルシャン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1993年 | エキュリー・エコックス・ボクスホール | フィリップ・アダムス ベルナール・ドライバー |
ボクスホール・キャバリエ | Pro 2L |
101 | DNF | DNF |
1998年 | 日産ベルギー・ターボ・チーム | ディアク・ショイスマン グレゴール・デ・メビウス |
日産・プリメーラ | SP | 471 | 7位 | 7位 |
2000年 | ELR&バウエル・モータースポーツ | ジェームズ・ケイ マーク・レーマ |
ホンダ・アコード | SP | DNF | DNF |
脚注
[編集]- ^ “David Leslie | Racing career profile | Driver Database”. www.driverdb.com. 2019年11月17日閲覧。
- ^ “David Leslie” (英語). Super Touring Register. 2019年11月19日閲覧。
- ^ “ニッサン、日本車初の1998年BTCCチャンピオン獲得。”. global.nissannews.com. 2020年4月1日閲覧。
- ^ “クルサード、レーシングの恩師(デイヴィッド・レスリー)を追悼”. F1通信. 2020年2月27日閲覧。