ナンギャダイ
ナンギャダイ(モンゴル語: Nangγiyadai、中国語: 嚢加歹、? - 1311年)は、大元ウルスの将軍の一人で、ナイマン部の出身。5代皇帝クビライから6代テムルにかけての主要な戦役(帝位継承戦争、南宋侵攻、カイドゥの乱)に参加し、いずれにおいても武功を残した有力な将軍であった。
『元史』などの漢文史料では嚢加歹(nángjiādǎi)、『集史』などのペルシア語史料ではننكیادای(nankiyādāī)と記される。
概要
[編集]生い立ち
[編集]ナンギャダイの一族は元来ナイマン・ウルスに属しており、ナンギャダイの祖父のブラン・ベク(Bulan beg)はナイマンの群臣の筆頭であったという。その息子のカジル(Qajir)はナイマンのカン(王)の親衛軍を率い、国政にも携わり、「太師」にも任じられた有力な将軍であった。 しかし1206年にチンギス・カンがナイマン・ウルスを平定すると、カジルの息子のマチャ(Mača)はモンゴル帝国に投降し、以後マチャ家は代々モンゴル帝国に仕えるようになる[1]。マチャは第2代皇帝オゴデイの時代に「蒙古・漢軍」を統べるよう命じられ、1260年にクビライとアリクブケとの帝位争い(帝位継承戦争)が起こると、この「蒙古・漢軍」を率いてクビライに味方し、この内戦で最大の激戦となったシムルトゥ・ノールの戦いでも活躍した。1262年には王族のカビチとともに李璮の乱鎮圧にも活躍し、これらの功によってクビライの建設した大元ウルスにおいてマチャ家は功臣の家系として厚遇されるようになる[2]。
南宋遠征
[編集]マチャの息子のナンギャダイは幼い頃から父に従って戦場を経験し、長じて都元帥に任じられた。大元ウルスによる南宋侵攻が始まると、ナンギャダイはアジュの率いる軍団に属して襄陽包囲に加わり、襄陽が陥落すると漢軍千戸に住じられた。襄陽の陥落後はバヤンを総指令とする本格的な南宋領侵攻が始まり、ナンギャダイもこれに加わって風波湖の戦いでは敵軍を打ち破る功績を挙げた。その後、軍を2つに分けてアジュ率いる北軍が漢陽を、バヤン率いる南軍が鄂州をそれぞれ攻めると、ナンギャダイは別動隊を率いて南宋水軍の軍船3000艘を壊滅させたため、授軍の望みを絶たれた両城は遂に投降したという。バヤン軍が安慶に駐屯すると、丞相の賈似道が南宋最後の防衛線として大軍を率いて長江を攻めあがってきたが、賈似道は決戦を避けるべく講和の使者を派遣した。使者の対応はナンギャダイが行ったがバヤンは講和案を一蹴し、丁家洲の戦いで賈似道軍を破った。賈似道との講和交渉を受け持ったナンギャダイは続けて南宋の首都の臨安に降伏勧告を行う使者にも選ばれ、追い詰められたことを覚った南宋朝廷は玉璽を奉じてナンギャダイに投降の意を告げた。バヤンは南宋から得た玉璽をそのままクビライに献上するよう命じ、南宋遠征における功績を賞してナンギャダイは懐遠大将軍・安撫司ダルガチに任じられた[3]。
日本・雲南遠征
[編集]臨安陥落後、アラカンや董文炳とともに浙江・福建地方の平定に従事し、蒙古軍副都万戸・江東道宣慰使に昇格した。1281年(至元18年)には「都元帥」に任じられ、日本遠征(弘安の役)を命じられたが、何らかの理由で日本には到着せず「未だ至らずして帰った」という[4]。日本遠征の失敗後、雲南行省参知政事に任じられて金歯・ビルマの討伐に従事していたが、病にかかったために一度中央に戻った。改めて河南道宣慰使に任じられ、また特に父のかつての職「蒙古軍都万戸」を継ぐよう命じられた[5]。
カイドゥ・ウルスとの戦い
[編集]クビライが崩御しテムルが新たに即位する(オルジェイトゥ・カアン)と、ナンギャダイは北西部においてカイドゥ・ウルスとの戦いに従事することになった。『集史』には「バヤン・グユクチの息子のナンギャダイ」という人物がモンゴリア西部に駐屯していたことが記されており、この人物が『元史』の「嚢加歹」と同一人物ではないかと考えられている[6] 『集史』によると、テムル時代のモンゴリアにはカイドゥ・ウルスとの国境線上に北から高唐王コルギス、チョンウル、ナンギャダイ、寧遠王ココチュという4名の将軍が駐屯していたと記されており、この内ナンギャダイは現モンゴル国のトンヒル郡一帯に駐屯していたとみられる[7]。
これらの駐屯軍は1298年(大徳2年)に宴会中、カイドゥ・ウルスに属するドゥアの奇襲を受けて大敗し、唯一抗戦したコルギスが捕虜となる失態を犯した。そのためココチュは更迭され、代わりに抜擢されたのがクビライの孫に当たるカイシャンであった。カイシャンは息子のいないテムルの最も有力な後継者候補であるがために皇后ブルガンから疎まれ、左遷に近い形でモンゴリアに派遣されたが、諸将の支持を得てカイドゥ軍と互角にわたりあった。1301年(大徳5年)にカイドゥ自ら軍を率いてのモンゴリア侵攻が始まると、ナンギャダイもカイシャンの指揮下に入ってこれを迎え撃った。この時、ナンギャダイ軍は包囲されかかったが力戦して逃れ、カイシャン軍と合流した。合流を果たしたカイシャン軍は退却を始め、ナンギャダイが殿を務めたが、これを阻止するべくカイドゥ軍が追撃してきた。この時、ナンギャダイは精鋭千名を率いてこれを防ぎ、カイシャン軍はチンカイ・バルガスンを経て晋王軍と合流することができた。帝国史上最大の会戦となったこの戦役(テケリクの戦い)においてナンギャダイは激戦を潜り抜けたが病にかかり、一時中央に帰還した[8]。
大徳11年の政変とカイシャンの即位
[編集]1300年代末、テムルの病態が悪化する中で次代のカアン位が注目されていたが、本来帝位に最も近いはずのカイシャン/アユルバルワダ兄弟は中央から左遷され、皇后ブルガンは安西王アナンダを帝位につける計画を進めていた。これを察知したアユルバルワダとその母ダギは中央に戻っていたナンギャダイ、ブリルギテイ、トイン・ブカらにブルガン勢力へのクーデターの協力を要請し、ナンギャダイらはこれに応えて一行は大都を目指した。大都の宮中ではチャガタイ家の王族トレがクーデターへの協力を表明しており、ナンギャダイは先行してトレと合流し、計画を練ったうえでアユルバルワダの下に戻った。アユルバルワダは未だクーデターの決行に逮巡していたが、ナンギャダイが一刻も早く決行するょう説得し、遂にクーデターは成功した[9]。
しかし、その後カイシャンがモンゴリア駐屯軍を率いて南下してきたため、最終的に帝位はカイシャンのものとなり、クーデター時の功績によりナンギャダイは七宝束帯・鞍轡・衣甲・弓矢・黄金五十両などを与えられ、蘄県万戸府ダルガチに、次いで同知枢密院事に任じられた。カイシャンが1311年(至大4年)に亡くなりアユルバルワダが即位する(ブヤント・カアン)と、ナンギャダイは河南に家を有していたことから特に河南江北行省平章政事に任ぜられ、この地位のままナンギャダイは亡くなった。アユルバルワダは後にクーデターの時のことを振り返って「我と太后(ダギ)は成功を疑っていたが、ナンギャダイの言葉で覚悟を定め決行することができた。かつて周の文王には太公望という優れた臣下がいたというが、ナンギャダイはまさに予にとっての太公望である」と語ったという。ナンギャダイの死後、その地位は息子のジャファル(教化)、孫のトゴン(脱堅)が継承した[10][11]。
ナイマン部マチャ家
[編集]- ブラン・ベク(Bulan beg >不蘭伯/bùlánbǎi)
- 太師カジル(Qajir >合折児/hézhéér)
- マチャ(Mača >麻察/máchá)
- 蒙古軍都万戸ナンギャダイ(Nangγiyadai >嚢加歹/nángjiādǎi,ننكیادای/nankiyādāī)
- 蒙古軍副都万戸ジャファル(Jaʿfar >教化/jiàohuà)
- 大都督トゴン(Toγon >脱堅/tuōjiān)
- 河南江北行省平章ジルワダイ(J̌ilwadai >執礼和台/zhílǐhétái)
- 蒙古軍副都万戸ジャファル(Jaʿfar >教化/jiàohuà)
- 蒙古軍都万戸ナンギャダイ(Nangγiyadai >嚢加歹/nángjiādǎi,ننكیادای/nankiyādāī)
- マチャ(Mača >麻察/máchá)
- 太師カジル(Qajir >合折児/hézhéér)
脚注
[編集]- ^ 堤1992,44頁
- ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝「嚢加歹、乃蛮人。曾祖不蘭伯、仕其国、位群臣之右。祖合折児、管帳前軍、兼統国政、仕至太師。太祖平乃蛮、父麻察来帰。太宗命与察剌同総管蒙古・漢軍、由是従世祖伐宋、破阿里不哥於失門禿、従諸王哈必赤及闊闊歹平李璮、皆有功、賞賚甚厚、賜金符。後以子貴、贈太傅、追封梁国公、諡桓武」
- ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝「嚢加歹幼従麻察習戦陣、有謀略、佩金符、為都元帥府経歴。従阿朮囲襄陽、襄陽降、以功授漢軍千戸。従丞相伯顔攻復州、与宋人戦、敗宋兵於風波湖。渡江後、伯顔南攻鄂州、阿朮北攻漢陽、分戦艦五十、嚢加歹与張弘範等焚其蒙衝三千艘、両城大恐、皆出降。伯顔軍次安慶。賈似道督師江上、遣宋京来請和。軍至池州、遣嚢加歹偕宋京報似道。似道復遣阮思聡偕嚢加歹至軍中、仍請議和。時暑雨方漲、世祖慮士卒不習水土、遣使令緩師。伯顔・阿朮与諸将議、乗勢径前、遂進軍至丁家洲、似道師潰、大軍次建康。帝聞嚢加歹親与賈似道語、召赴闕、具陳其説、遣還諭旨於伯顔、以北辺未靖、勿軽入敵境、而大軍已入平江矣。宋使柳岳・夏士林・呂師孟・劉岊等踵至、皆命嚢加歹同往報之。師逼臨安、復遣嚢加歹入取降表・玉璽、徴宋将相文武百官出迎王師。宋主乃遣賈餘慶等同嚢加歹以降表・玉璽至皋亭山、伯顔遣嚢加歹馳献世祖。還伝密旨、遷宋君臣北上。賜金符、授懐遠大将軍・安撫司達魯花赤」
- ^ 堤1992,45頁
- ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝「与阿剌罕・董文炳等取台・温・福州、尋領蒙古軍副都万戸・江東道宣慰使、佩金虎符如故。擢江東道按察使、復為本道宣慰使、領万戸如故。召為都元帥、管領通事軍馬、東征日本、未至而還。詔以元管出役軍与孛羅迷児見管軍合為一翼、充万戸、守建康。改賜三珠虎符、拜雲南行省参知政事、討金歯・緬国、得疾、召還京師。授南京等路宣慰使、改河南道宣慰使、特旨命襲父職為蒙古軍都万戸」
- ^ ただし、『集史』の記す「バヤン・グユクチ」はカンクリ部のミンガンの兄弟ではないかと考えられており、父の名が「マチャ」であるとされる『元史』の「嚢加歹」と同一人物かどうか、確証がないとする説もある(松田1982,9/12頁)(杉山2004,353頁)
- ^ ナンギャダイの駐屯地を示す史料が存在するわけではないが、チョンウルの駐屯地が「アライ峠」(現在のウランダヴァー一帯)、ココチュの駐屯地がチンカイ・バルガスンと判明しており、その中間地点としてはアルタイ越えの要衝トンヒル郡が駐屯地として最も適していると考えられるため(村岡2016,93頁)
- ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝「武宗在潜邸、嚢加歹嘗従北征、与海都戦於帖堅古。明日又戦、海都囲之山上、嚢加歹力戦決囲而出、与大軍会。武宗還師、嚢加歹殿、海都遮道不得過、嚢加歹選勇敢千人直前衝之、海都披靡、国兵乃由旭哥耳温・称海与晋王軍合。是役也、嚢加歹戦為多、以疾而帰」
- ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝「成宗崩、昭献元聖太后与仁宗在懐州、太后召嚢加歹・不憐吉歹・脱因不花・八思台等諭之曰『今宮車晏駕、皇后欲立安西王阿難答、爾等當毋忘世祖・裕宗在天之霊、尽力奉二皇子』。嚢加歹頓首曰『臣等雖砕身、不能仰報両朝之恩、願効死力』。既至京師、仁宗遣嚢加歹与八思台詣諸王禿剌議事宜。時内外洶洶、猶豫莫敢言、嚢加歹独賛禿剌、定計先発。帰白仁宗、意猶遲疑、固問可否、対曰『事貴速成、後将受制於人矣』。太后与仁宗意乃決。内難既平、仁宗監国、命同知枢密院事」
- ^ 堤1992,46頁
- ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝「武宗即位、真拜同知枢密事、階資徳大夫、賜以七宝束帯・鞍轡・衣甲・弓矢・黄金五十両、以旌其定策之功。尋授蘄県万戸府達魯花赤、仍同知枢密院事。仁宗嘗語近臣曰『今春之事、吾与太后疑不能主、頼嚢加歹一語而定。吾聞周文王有姜太公、嚢加歹亦予家姜太公也』。其見称許如此。尋以老病乞骸骨、不允。仁宗即位、以其家河南、特授河南江北行省平章政事、佩金虎符、終其身。封浚都王。子教化、山東河北蒙古軍副都万戸、執礼和台、河南江北行省平章政事。孫脱堅、山東河北軍大都督、世襲有位」
参考文献
[編集]- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 堤一昭「元代華北のモンゴル軍団長の家系」『史林』75号、1992年
- 村岡倫「モンゴル西部におけるチンギス・カンの軍事拠点」『龍谷史壇』第119・120合併号、2003年
- 村岡倫「チンカイ・バルガスと元朝アルタイ方面軍」『13-14世紀モンゴル史研究』第1号、2016年