ペクサン砲
ペクサン砲 (仏語Canon Paixhans) | |
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海軍用ペクサン砲、フランス国立海軍博物館(Musée de la Marine) | |
種類 | 艦砲 |
原開発国 | フランス復古王政期 |
運用史 | |
配備先 | フランス、米国、ロシア帝国、英国 |
関連戦争・紛争 | ラプラタ川閉塞戦、米墨戦争、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、クリミア戦争、アロー戦争、南北戦争 |
開発史 | |
開発者 | アンリ=ジョセフ・ペクサン(Henri-Joseph Paixhans ) |
開発期間 | 1823 |
諸元 | |
重量 | 7,400ポンド |
全長 | 9フィート4インチ[1] |
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砲弾 | 30 kg (59 lb.) shell |
口径 | 22 cm (8.7-inch)[1] |
初速 | 400 m/s (1,200 ft/s) |
ペクサン砲 (ペクサンほう、英:Paixhans gun、仏:Canon Paixhans)は、炸裂弾を発射できるように設計された最初の艦砲である。1822年から1823年にかけてフランスの砲兵将校アンリ=ジョセフ・ペクサン(Henri-Joseph Paixhans)によって開発された。
背景
[編集]19世紀初頭、すでに陸戦において榴弾砲や臼砲で炸裂弾は使用されていたが、それらは大角度かつ低初速での使用に限られていた。炸裂砲弾は取り扱いが危険であり、高初速の平射砲で炸裂弾を使用する技術的な見通しは立っていなかった。
しかしながら現在のような正確な光学あるいはレーダー照準技術が確立する以前は、海戦においては曲射弾道による射撃は実用的ではなかった。双方が移動する海上での砲戦でまともな命中率を得るには、直接照準による平射が必須であった。このため数世紀に渡って艦砲の砲弾としては実体弾が使われており、木造艦艇に対してさえも限定的な損害を与えられるに過ぎなかった[2]。
機構
[編集]ペクサンは海戦において平射砲で炸裂弾を使用することを1822年の自身の著作(Nouvelle force maritime et artillerie)で主張した。[3]
ペクサンは、炸裂弾が高初速の平射砲から発射できるように史上初の遅延機構を開発した。炸裂弾が木製の船体に深く侵入してから炸裂すれば、破滅的な損害を与えられる。ペクサンは1824年に戦列艦パシフィカトゥール(Pacificateur)を使った実験で、船体をみごとに破壊して炸裂弾の威力を証明した[2]。この試験のために、1823年と1824年に2門の砲が試作された。ペクサンはその結果を「フランス海軍の実施した新型兵器についての実験(Experiences faites sur une arme nouvelle)」に記している[3]。砲弾には、発射の衝撃で自動的に作動する信管がしくまれていた。砲弾は柔らかい木製の船体に深く侵入し、その一瞬後に爆発する。
"ブレストで1821年と1824年に行われた実験で、砲弾は廃艦となったパシフィカトゥールを激しく破壊した。フランス海軍の砲弾システムはこの成果を基に作られているが、この砲弾には特殊な信管がしくまれ、砲内の発射薬の爆発によって作動し、その予想飛翔時間よりやや遅れて炸裂するように設定することにより、敵艦船に対して他のいかなる砲弾よりも高い効果を発揮する。" — 艦砲に関する論文(A treatise on naval gunnery by Sir Howard Douglas)[4]
フランス海軍のための最初のペクサン砲が鋳造されたのは1841年であった。砲身重量は約10,000ポンド(4,530kg)であり、有効な射程は約2マイル(3.2km)であった。1840年代には、フランスに加え、英国、ロシアおよび米国において艦砲として採用された。
その威力が実戦で証明されたのは1849年の第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争のエッケンフェルデにおいてであり、クリミア戦争のシノープの海戦では特にその効果が明らかであった。
1858年版のペニー・サイクロペディア(Penny Cyclopaedia) 事典には以下の記述がある:
ペクサン将軍は重砲の製造、砲弾、砲架、その運用に関する重要な改良を行った。ペクサン砲は炸裂弾と中空砲弾の発射に特化したもので、1824年ごろにフランス海軍に採用された。同様の砲は英国でも採用された。ペクサン砲は艦砲としても、また沿岸防衛用の要塞砲としても適していた。最初のモデルは、長さが9フィート4インチ、重さは約74ハンドレッドウェイト(3.8トン)、口径は22cm(約8インチ)であった。適切な冶金術により薬室は非常に堅牢に作られており、86ないし88ポンドの実体弾、または60ポンドの中空砲弾を発射できた。装薬量は10ポンド12オンスから18ポンドである。ペクサン将軍は、同一径の銃砲から発射した場合、球形弾よりも円筒・円錐弾の方が、空気抵抗が少なく、弾道が直線に近づき、撃速も大きくなるとして、早くから円筒・円錐弾を推奨した一人である。大きな軍艦、特に3層艦はかなりの距離からでも外しようがないほどの的であり、木製の船体は厚く頑丈であるため、水平に発射した砲弾は艦体を(炸裂せずに)突き抜けてしまう心配がない。そこで起きる炸裂は船体内部で爆薬を使った場合と同じ破壊力を持ち、大仰角で投射する衝撃信管付の砲弾よりもはるかに威力がある。 — Penny cyclopedia[1]
採用
[編集]フランス
[編集]何隻かの艦艇がペクサン砲を搭載したが、その武装の一部に採用されただけであった。1856年に完成した当時としてはフランス最大の3層戦列艦であるブルターニュ(Bretagne)は130門の砲を搭載したが、内36門が22cmのペクサン砲であった。
米国
[編集]アメリカ海軍も1845年に何隻かの艦艇に8インチペクサン砲を採用し、その後10インチ砲を採用した。コンスティチューションは1842年に4門のペクサン砲を搭載し、マシュー・ペリーの日本遠征時に率いたミシシッピには10門。サスケハナには6門のペクサン砲が搭載されていた。[5][6]
1849年にジョン・ダールグレン(John A. Dahlgren)がダールグレン砲を開発すると、ペクサン砲はそれにとって代わられた。
ペクサン砲は、艦上で炸裂弾を発射する砲の威力について海軍軍人を納得させ、正式採用に至っているが、炸裂に重点を置きすぎた設計であったため、精度と射程が犠牲になっていた。…ペクサンのシステムと私(ダルグレン)のシステムとの違いは、ペクサン砲は炸裂弾専用であって、実体弾の発射や遠距離での貫通力および精度に欠けている点であった。それはつまり、実体弾を発射する砲の補助的な存在であった。結局他の砲と合わせて搭載する必要があり、それを嫌うものも多く、フランスにおいても大規模には採用されなかった。これに対して私のアイデアは、炸裂弾を遠くに正確に飛ばすことができ、必要に応じて実体弾も発射できる砲を作るということである。同時に、装備する砲もすべてこの種の砲ですむ。 — Admiral John A. Dahlgren.[7]
ロシア
[編集]ロシア海軍は、ペクサン砲を大量に戦闘に使用した最初の海軍である。1853年のシノープの海戦において、ロシア海軍の艦艇はそのペクサン砲の炸裂弾でトルコ艦隊を攻撃、撃滅した。砲弾はトルコ艦艇の木製外板を貫通し艦内で爆発し、火災を起こさせた[2]。
日本
[編集]ペクサンの著した「フランス海軍の実施した新型兵器についての実験」はオランダ語に翻訳され日本にも輸入された。それを入手した武雄領主鍋島茂義(高島秋帆に弟子入りしていた)はさっそく日本語に翻訳し、1848年(嘉永元年)に佐賀藩主鍋島直正に献上している。1851年(嘉永4年)に会津藩が江戸湾(富津台場)の防備を命じられると、江川英龍に150ポンド(17貫300目)ペクサン砲の鋳造を依頼している。当時は音をとって「伯苦斬刪砲」、またはその特徴から「暴母加納」(ボム・カノン)と呼ばれていた。
1853年(嘉永6年)のペリー来航の際、ペクサン砲を搭載した米国軍艦に乗り込んだ浦賀奉行所与力中島三郎助は、その大砲がペクサン砲であることを見抜いたとされている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Penny cyclopaedia of the Society for the diffusion of useful knowledge, second suppplent (1858)
- Robert L. O'Connell: "Of Arms and Men: A History of War, Weapons, and Aggression", Reprint (Oxford Univ Pr on DemandApril 19, 1990. ISBN 978-0195053609)
- Jeff Kinard and Spencer C. Tucker: "Artillery: An Illustrated History Of Its Impact (Weapons and Warfare)", ABC-Clio Inc (2007/3/30). ISBN 978-1851095568
- Howard Douglas: "A Treatise On Naval Gunnery", Reprint (Kessinger Publishing, LLC (May 23, 2010). ISBN 978-1161625288
- Walter Millis: "Arms and Men: A Study in America Military History", Rutgers Univ Pr (1981/09). ISBN 978-0813509310
- Arthur Walworth: "Black Ships Off Japan: The Story of Commodore Perry's Expedition", Walworth Press (2008/11/30). ISBN 978-1443728508
- Clarence Stewart Peterson, John Adolphus Bernard Dahlgren: "Admiral John A. Dahlgren: Father of United States Naval Ordance", 1945
- 淺川道夫著『江戸湾海防史』錦正社(2010/12/9)。ISBN 978-4764603325
- 有利浩一郎『日本の近代化は肥前武雄から始まった(下)』。ファイナンス(2006年)、42巻3号、106〜117ページ