レン・カスパラビッチ
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ハワイ準州 |
生年月日 | 1919年7月21日 |
没年月日 | 1994年3月1日(74歳没) |
身長 体重 |
181 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1953年 |
初出場 | 1953年 |
最終出場 | 1954年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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レオナルド・レオニド・カスパラビッチ(Leonard Leonide Kasparovitch、1919年7月21日 - 1994年3月1日[1])は、アメリカ合衆国・ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
来歴・人物
[編集]1953年5月にハワイ・レッドソックスからチームメイトの渡部満とともに近鉄パールスに入団[2]。来日時に、近鉄は首位につけており、カスパラビッチも勢いに乗って2連勝する[3]。しかし、チーム成績の下降とともに勝ち運に見放され、6勝10敗と大きく負け越した。なお、カスパラビッチの先発登板時には渡部とバッテリーを組み3勝を記録している[4]。同年限りで渡部が帰国すると、翌1954年は防御率は2.04だったが、援護に恵まれず1勝もあげられないままこの年限りで退団した。武器はドロップ、カーブ、シンカー、シュート。
真珠湾攻撃を体験していたため、日本行きは複雑な心境だったといわれている[5]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1953 | 近鉄 | 26 | 17 | 5 | 0 | 0 | 6 | 10 | -- | -- | .375 | 611 | 144.0 | 140 | 6 | 57 | -- | 4 | 51 | 5 | 0 | 65 | 46 | 2.88 | 1.36 |
1954 | 25 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | -- | -- | .000 | 373 | 96.2 | 80 | 1 | 26 | -- | 1 | 51 | 4 | 0 | 25 | 22 | 2.04 | 1.10 | |
NPB:2年 | 51 | 26 | 5 | 0 | 0 | 6 | 15 | -- | -- | .286 | 984 | 240.2 | 220 | 7 | 83 | -- | 5 | 102 | 9 | 0 | 90 | 68 | 2.54 | 1.26 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 「-」は記録なし
背番号
[編集]- 4 (1953年 - 1954年)
脚注
[編集]- ^ Leonard Kasparovitch - Death Record
- ^ 『ベースボールマガジン』(ベースボール・マガジン社)2000年秋季号、93頁「カスパラビッチ」の項目
- ^ 『決定版日本プロ野球外国人選手大鑑』91頁
- ^ 『ベースボールマガジン』2000年秋季号、129頁「渡部満」の項目
- ^ 『別冊宝島1616 プロ野球「助っ人」伝説』(宝島社)、p.117の「カスパラビッチ」の項目を参照。
参考文献
[編集]- 『決定版日本プロ野球外国人選手大鑑 (BBmook―スポーツシリーズ 224)』ベースボールマガジン社、2002年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 レン・カスパラビッチ - NPB.jp 日本野球機構