ヴァドヴィツェ
ヴァドヴィツェ | ||
---|---|---|
Aerial view of Main Square | ||
| ||
北緯49度53分 東経19度30分 / 北緯49.883度 東経19.500度 | ||
Country | ポーランド | |
県 | マウォポルスカ県 | |
郡 | ヴァドヴィツェ郡 | |
Gmina | Gmina Wadowice | |
Established | 14世紀 | |
Town rights | 1430 | |
政府 | ||
• 市長 | Bartosz Kaliński | |
面積 | ||
• 合計 | 12.98 km2 | |
最高標高 | 318 m | |
最低標高 | 250 m | |
人口 (2007) | ||
• 合計 | 19,149人 | |
• 密度 | 1,500人/km2 | |
等時帯 | UTC+1 (CET) | |
• 夏時間 | UTC+2 (CEST) | |
Postal code |
34–100 | |
市外局番 | +48 33 | |
Car plates | KWA | |
ウェブサイト | http://www.wadowice.pl |
ヴァドヴィツェ(Wadowice [vadɔˈvʲit͡sɛ], ドイツ語:Wadowitz)は、ポーランド中南部、現在はマウォポルスカ県西端のヴァドヴィツェ郡に位置する町。シロンスク高原上、スカワ川(ヴィスワ川の支流)流域にある。古都クラクフからは50km離れている。ヴァドヴィツェ郡の行政中心地であり、クラクフとチェシン(Cieszyn)を結ぶ国際道路沿いに位置する。
歴史
[編集]ヴァドヴィツェについての最も古い記述は1327年のものである。オシフィエンチム公ヤン1世スホラスティクがボヘミア王ヨハンに送った封土台帳にWadowiczの綴りで書かれている。
1430年に大火災によって町は一旦焼滅したものの復興し、オシフィエンチム公カジミェシュ1世により、市町の特権を与えられた。1482年にザトル公ヴワディスワフによって彼の死(1489年)までヴァドヴィツェ公国の首都となる。
16世紀には、家内工業と商業の中心地であった。この時期に特筆すべき出身者にマルチン・ヴァドヴィタ(Marcin Wadwita)がいる。彼は、クラクフのヤギェウォ大学の神学者・哲学者・助祭であり、またヴァドヴィツェに病院と初等教育学校を設立した。
1819年、オーストリア帝国に併合されたヴァドヴィツェの地域は広がり、3380平方キロメートルに亘り、10の町、2の市場の集落、340の村を抱え、人口は35万人を数えた。初代予備軍隊長ルドヴィク・ド・セルト(Ludwik de Sertes)の頃には、ヴァドヴィツェの町には2,500人の人口があった。
1867年から1975年までヴァドヴィツェのコミュニティーの管理の所在地であった。
出身者
[編集]上述したマルチン・ヴァドヴィタ(Marcin Wadwita)、のちにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世となったカロル・ヴォイティワ、そして、ゴドウィン・ブルモフスキ(Godwin Brumowski)が知られている。
ブルモフスキはオーストリアのパイロットであり、オーストリア=ハンガリー帝国軍の戦闘機のエースパイロットとして第一次世界大戦中に活躍した。
哲学者のエーミール・ラスクも知られている。