一条房通
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正6年(1509年) |
死没 | 弘治2年10月30日(1556年12月1日) |
官位 | 従一位、関白、左大臣、内覧 |
主君 | 後柏原天皇→後奈良天皇 |
氏族 | 一条家 |
父母 | 父:一条房家、養父:一条冬良 |
兄弟 | 房冬、房通、尊快、房忠、教行、兼朝、盛岳、教快、西園寺公宣室、津野基高室、町顕冬室 |
妻 | 一条冬良の娘 |
子 |
兼冬、内基 養子:兼定 |
一条 房通(いちじょう ふさみち)は、戦国時代の公卿。土佐一条氏2代当主・一条房家の次男。大叔父の一条冬良の婿養子になった。一条家11代当主。官位は従一位・関白、左大臣、内覧。
経歴
[編集]永正14年(1517年)4月30日に9歳で元服。正五位に叙せられる。同年に従四位上、右少将・左中将に叙せられ、翌永正15年(1518年)には従三位に叙任。
天文14年(1545年)6月2日には養父・冬良と同じく関白にもなった(-天文17年(1548年)12月27日)。土佐一条氏からの関白就任は、冬良の兄、そして房通自身にとって祖父でもある初代当主教房以来2度目である。
天文15年(1546年)、細川氏綱の命で京都を占領・支配していた細川国慶が軍費の確保のために強引に京都の市中から地子銭を徴収しようとした際には、中御門宣胤や山科言継と共に武力をもって抗議しようと計画し、これに同調した室町幕府の奉公衆や民衆も房通に味方する動きを見せたため、国慶は強制的な徴収を断念に追い込まれている[1][2]。
また、実家の土佐一条氏では一条房基、兼定と幼い当主が続いたために、天文12年(1543年)土佐国に下向して当主代理として政務を執ったこともある[3]。
系譜
[編集]- 父:一条房家(1475/1477-1539)
- 母:家女房 - 源惟氏の娘
- 養父:一条冬良(1464-1514)
- 妻:一条冬良の娘
- 男子:一条兼冬(1529-1554)
- 生母不明の子女
- 次男:一条内基(1548-1611)
- 養子
脚注
[編集]- ^ 『言継卿記』天文16年正月10日-14日各日条。
- ^ 馬部隆弘「細川国慶の上洛戦と京都支配」(初出:『日本史研究』第623号(2011年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6)2018年、P615-616.
- ^ 『一揆と戦国大名』年表。
出典
[編集]- 久留島典子『一揆と戦国大名』(講談社、2001年)