上野精三
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基本情報 | |
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没年月日 | 1987年5月6日 |
選手情報 | |
ポジション | 投手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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上野 精三(うえの せいぞう、? - 1987年5月6日[1])元慶應義塾大学、日本石油野球部監督。1926年(大正15年)、夏の選手権優勝投手(静岡中学)。大学(慶應義塾)、都市対抗(全京城)で投手として活躍。左腕。
来歴・人物
[編集]静岡安西尋常小学校時代に投手経験があり1926年春の選抜からエースで甲子園に出場したが、広陵中学に大敗。静岡中学では、夏へ向けた6月の合宿に、明治大学野球部監督岡田源三郎を招聘[2]し猛練習を重ねた。大会前の下馬評では早実、神港商、高松中、和歌山中、大連商(満州)の評価が高かった。準々決勝では前橋中学との延長19回の接戦を制し、全国大会46イニングを一人で投げ切って、チームを優勝に導いた(優勝時の部員は11人)。静中卒業後は慶大に進学、水原茂、宮武三郎らの強力打線の援護もあり、昭和初期の全盛期の一翼を担った。1931年には、全慶大選手として日米野球に出場[3]。慶大卒業後、全京城に入り都市対抗で活躍。指導者としての才もあり、1947年(昭和22年)慶大監督。その後、日本石油監督。プロ野球界においても活躍の場を広げた。
脚注
[編集]- ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 57頁。
- ^ 明治大学とは1918年(大正7年)ごろから関わりが深く指導を仰いでいた。静岡中学のユニフォームの胸の筆記体表記 ” Seichu “ (新制高校になってからは “Shizuoka “)は、明大野球部の “Meiji “ に由来する。
- ^ 1931年の日米野球と野球統制令 ① 読売新聞社の東京六大学への食い込み
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 高校野球名門校シリーズ8 静岡高校野球部 誇り高き文武両道 Since1896 16,17頁