亘理元宗
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄3年(1530年) |
死没 | 文禄3年6月19日(1594年8月5日) |
改名 | 伊達乙松丸(幼名)、亘理元宗 |
別名 | 元安斎(号) |
戒名 | 洛浦院泰岳元安大居士 |
墓所 | 宮城県大崎市田尻大貫山王山の日枝神社 |
官位 | 従五位下兵庫頭 |
主君 | 伊達稙宗、晴宗、輝宗、政宗 |
氏族 | 伊達氏、亘理氏 |
父母 |
伊達稙宗、亘理宗隆娘 亘理宗隆 |
兄弟 |
屋形御前、蘆名盛氏正室、伊達晴宗、 大崎義宣、伊達実元、二階堂照行室、 田村隆顕室、伊達宗澄、懸田俊宗室、 桑折宗貞、葛西晴清、梁川宗清、 村田宗殖、極楽院宗栄、綱宗、元宗、 大有康甫、越河御前ら |
妻 | 国分盛氏娘・月光院 |
子 | 重宗、黒川義康正室 |
亘理 元宗(わたり もとむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊達氏の重臣。亘理氏17代当主。陸奥国亘理郡亘理城主。官位は従五位下・兵庫頭。
生涯
[編集]天文12年(1543年)3月、外祖父・亘理宗隆の養嗣子となっていた同母兄・綱宗が討死したため、亘理氏の跡取りとなり、天文の乱終結後に家督を相続した。この頃の所領は亘理郡の20か村、伊具郡の6か村(藤田村、島田村、枝野村、尾山村、坂津田村、平貫村)、名取郡の長谷村であった[1]。それまでの亘理氏の居城であった小堤城の北東に、新たに亘理城を築いて移った。
天文21年(1552年)には、長兄・伊達晴宗の命を受けて上洛した。この折に武田信虎の知遇を得て、佩刀「綱広」を贈られた。永禄13年(1570年)4月、甥の輝宗が中野宗時を討伐した際には、逃げ延びる宗時らを刈田郡宮河原で迎撃した。名取郡の小川村と笠島村、伊具郡の小田村、長井(置賜郡)の河原津村の4か村を加増された[2]。天正2年(1574年)、輝宗が天正最上の乱に最上義守方として参戦すると、最上領に通じる篠谷口へと出陣。9月には和平交渉のため最上氏重臣・氏家守棟と会談し、同月10日に和睦が成立した。天正6年(1578年)、輝宗が越後国への介入を開始すると、相馬盛胤との戦の指揮を一任された。
輝宗の子・政宗の代にも人取橋の戦い・葛西大崎一揆鎮圧等に従軍するなど、伊達一門の重鎮として軍事・外交面で引き続き活躍した。天正19年(1591年)、伊達家の岩出山移封に伴い、遠田郡涌谷城に移され885貫5文(8850石)を領した[3]。
文禄3年(1594年)6月19日、遠田郡大貫にて病死した。享年65。
子孫は仙台藩の一門である涌谷伊達家となる。
系譜
[編集]蘆名盛高━━女 ┣━━━━伊達晴宗 伊達稙宗 ┃ ┏━亘理綱宗 ┣━━┫ ┃ ┗━亘理元宗 亘理宗隆━━女
脚注
[編集]出典
[編集]- 仙台藩「御知行被下置御帳」、延宝7年(1679年)。佐々久・監修『仙台藩家臣録』として歴史図書社から1978年刊行。
- 歴史群像編集部編『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年) ISBN 4054042902
- 「亘理元宗」の項目(伊達宗弘執筆)