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亘理元宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
亘理元宗
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄3年(1530年
死没 文禄3年6月19日1594年8月5日
改名 伊達乙松丸(幼名)、亘理元宗
別名 元安斎(号)
戒名 洛浦院泰岳元安大居士
墓所 宮城県大崎市田尻大貫山王山の日枝神社
官位 従五位下兵庫頭
主君 伊達稙宗晴宗輝宗政宗
氏族 伊達氏亘理氏
父母 伊達稙宗亘理宗隆
亘理宗隆
兄弟 屋形御前、蘆名盛氏正室、伊達晴宗
大崎義宣伊達実元二階堂照行室、
田村隆顕室、伊達宗澄懸田俊宗室、
桑折宗貞葛西晴清梁川宗清
村田宗殖極楽院宗栄綱宗元宗
大有康甫、越河御前
国分盛氏娘・月光院
重宗黒川義康正室
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亘理 元宗(わたり もとむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将伊達氏の重臣。亘理氏17代当主。陸奥国亘理郡亘理城主。官位従五位下兵庫頭

生涯

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享禄3年(1530年)、伊達稙宗の十二男として誕生。

天文12年(1543年)3月、外祖父・亘理宗隆の養嗣子となっていた同母兄・綱宗が討死したため、亘理氏の跡取りとなり、天文の乱終結後に家督を相続した。この頃の所領は亘理郡の20か村、伊具郡の6か村(藤田村、島田村、枝野村、尾山村、坂津田村、平貫村)、名取郡の長谷村であった[1]。それまでの亘理氏の居城であった小堤城の北東に、新たに亘理城を築いて移った。

天文21年(1552年)には、長兄・伊達晴宗の命を受けて上洛した。この折に武田信虎の知遇を得て、佩刀「綱広」を贈られた。永禄13年(1570年)4月、甥の輝宗中野宗時を討伐した際には、逃げ延びる宗時らを刈田郡宮河原で迎撃した。名取郡の小川村と笠島村、伊具郡の小田村、長井(置賜郡)の河原津村の4か村を加増された[2]天正2年(1574年)、輝宗が天正最上の乱最上義守方として参戦すると、最上領に通じる篠谷口へと出陣。9月には和平交渉のため最上氏重臣・氏家守棟と会談し、同月10日に和睦が成立した。天正6年(1578年)、輝宗が越後国への介入を開始すると、相馬盛胤との戦の指揮を一任された。

輝宗の子・政宗の代にも人取橋の戦い葛西大崎一揆鎮圧等に従軍するなど、伊達一門の重鎮として軍事・外交面で引き続き活躍した。天正19年(1591年)、伊達家の岩出山移封に伴い、遠田郡涌谷城に移され885貫5文(8850石)を領した[3]

文禄3年(1594年)6月19日、遠田郡大貫にて病死した。享年65。

子孫は仙台藩の一門である涌谷伊達家となる。

系譜

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蘆名盛高━━女
      ┣━━━━伊達晴宗
     伊達稙宗
      ┃ ┏━亘理綱宗  
      ┣━━┫      
      ┃ ┗━亘理元宗
亘理宗隆━━女

脚注

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  1. ^ 「御知行被下置御帳」(『仙台藩家臣録』第1巻5頁)。
  2. ^ 「御知行被下置御帳」(『仙台藩家臣録』第1巻5-6頁)。
  3. ^ 「御知行被下置御帳」(『仙台藩家臣録』第1巻6頁)。

出典

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  • 仙台藩「御知行被下置御帳」、延宝7年(1679年)。佐々久・監修『仙台藩家臣録』として歴史図書社から1978年刊行。
  • 歴史群像編集部編『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年) ISBN 4054042902
    • 「亘理元宗」の項目(伊達宗弘執筆)

登場作品

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