他阿
他阿弥陀仏 | |
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嘉禎3年 - 文保3年1月27日 (1237年 - 1319年2月17日〈新暦〉) | |
号 | 他阿弥陀仏 |
諱 | 真教 |
尊称 | 他阿上人、真教上人、遊行上人、大聖 |
生地 | 豊後国もしくは京都 |
没地 | 相模国 |
宗旨 | 時宗 |
師 | 一遍 |
弟子 | 他阿智得、呑海、浄阿 |
著作 | 『他阿上人法語』、『道場誓文』、『大鏡集』 |
廟 | 無量光寺 |
他阿(たあ)は、鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人2世。正しくは他阿弥陀仏と称し、他阿と略する。法諱は真教(ただし同時代史料にはみえず、初出は『本朝高僧伝』。燈心文庫に真教と署名のある文書があり、他阿に同定する説あり)。俗姓は源氏久我家ともいわれる。
概要
[編集]生まれは豊後国(現・大分県)とも京都ともされるが、前半生は不明である。
弘安元年(1278年)、九州で時宗の祖一遍に師事して以来、一遍の諸国遊行に従う。正応2年(1289年)、一遍が亡くなった後に、一旦解散した時衆を再結成して集団組織化し、越前国、加賀国、越中国、越後国、関東、東海道を中心として遊行を続けた。嘉元2年(1304年)、遊行を3世量阿(他阿智得。のち他阿号を世襲)に譲り、自らは相模国に草庵(後の当麻道場金光院無量光寺)を建立して独住(定住)し、83歳で示寂。同寺の境内に、一遍らと並んで墓塔の宝篋印塔がある。主な門弟に量阿のほか、有阿(恵永または恵光、のち他阿呑海。藤沢道場清浄光寺を開く)、京都四条道場金蓮寺・浄阿(真観)がいる。
膨大な消息はのちに『他阿上人法語』8巻にまとめられた他、『道場誓文』を作成している。歌人としても京都の貴人たちと交わり、歌集に『大鏡集』がある。また伝記として『一遍上人縁起絵』がある。全10巻のうち前半4巻は一遍の業績が、そして後半6巻に他阿の業績が述べられている。
他阿の肖像としては、長崎称念寺(福井県坂井市)蔵の画像や東山長楽寺(京都市東山区)蔵の木造椅像、および黒駒称願寺(山梨県笛吹市)・国府津蓮台寺(神奈川県小田原市)・常称寺(広島県尾道市)蔵の木造座像が有名で、いずれも重要文化財。晩年に患った中風によって口許がゆがんでいるのが特徴である。
一遍は、肉親ともいわれる弟子聖戒を後継者と看做していたと考えられ、一遍入寂の後は信奉者は各地に散って自然消滅している。それを他阿が再結成し、再興を成し遂げた。
他阿はバラバラであった時衆を統制するために、一般の信徒に対して僧(善知識)を「仏の御使い」と位置付け、これに絶対服従させる知識帰命の説を取り入れた。さらに「時衆制誡」「道場制文」などを定め、『時衆過去帳』を作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。この頃、消息の中で配下の道場(寺院)は百余と述べている。こうして他阿は時衆を整備された教団として構成し直し、教義を伝える組織確立のうえで大きな功績を残した。
現在ある時宗教団は、他阿真教の系統である藤沢道場清浄光寺(遊行寺)が、過程として他の一向俊聖などによる念仏聖の流派・教団(時宗十二派)を吸収し合流することで近世に成立した[1]。歴代の時宗の法主は「他阿」を称する。『一遍上人縁起絵(遊行上人縁起絵)』における冊数の割合などを考慮対象とした上で、初代他阿である他阿真教こそが時宗の実質的な開祖である、とする見解がある。
宗祖一遍とならぶ「二祖上人」と通称され、多くの時宗寺院で、その像が一遍と対になって荘厳されている。そしてその功績を偲び、他阿を「大聖(おおひじり)」と呼んでいる。
脚注
[編集]- ^ 自然に合流した派もあるがなにより、江戸時代初期に幕府の命により、他の「踊念仏」の宗派が全て遊行寺の管轄とされたことが大きい。すなわち強制的な経緯であり、他派閥はしばし独立運動を起こしている。一向俊聖を祖とする一向宗・天童派も、明治時代になって分離し、浄土宗の傘下に移籍している。
参考文献
[編集]- 関連文献(各・現代語訳)
- 『現代語訳 他阿上人法語』同 現代語訳研究会編(法藏館、2022年)
- 『現代語訳 一遍上人縁起絵(遊行上人縁起絵)全十巻』同 現代語訳研究会編(法藏館、2022年)
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