仲田伝之じょう
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仲田 伝之𨱛 包利(なかた でんのじょう[1] かねとし/ でんのしょう[2]かねとし、1871年3月20日(明治4年1月30日[1][2][3])- 1941年(昭和16年)4月20日[1][2][4])は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧名・林太郎[5]、名・包利(かねとし)[1]。
経歴
[編集]伊予国温泉郡松山府中町(現愛媛県松山市木屋町)で[1][2]、素封家・仲田伝之𨱛包直(かねなお)の長男として生まれる[1][5]。慶應義塾を卒業した[1][2]。
父の設立した興産会社に勤務[1][2]。1902年(明治35年)松山興産銀行(興産会社の後身)の役員、松山貯蓄銀行の役員に就任[1][2]。1909年(明治42年)10月、父の死去に伴い家督を相続して伝之𨱛を襲名し[3][5]、仲田銀行(松山興産銀行の後身)頭取、松山貯蓄銀行頭取となる[1][2]。1916年(大正5年)愛媛県農工銀行頭取を兼務し、1923年(大正12年)松山商業会議所初代会頭に就任した[1][2]。その他、伊予鉄道電気(現伊予鉄道)取締役、松山紡績取締役、貯蓄銀行協会理事などを務めた[2][4][3]。
1932年(昭和7年)貴族院多額納税者議員に無投票で当選し[1]、同年9月29日から[6] 1939年(昭和14年)9月28日まで在任した[4]。在任中は研究会に所属した[4]。
また、松山慈恵会理事長となり、孤児の救済などの社会事業にも尽力した[1][2]。
親族
[編集]- 長男 仲田包寛(かねひろ)(伊予合同銀行副頭取・愛媛慈恵会理事長・松山市福祉協議会会長)[2][7]
- 川喜田半泥子 長男包寛に川喜田半泥子長女 秋子が嫁す
- 父 仲田伝之𨱛包直(かねなお)興産銀行・仲田銀行の初代頭取、松山紡績(現倉敷紡績)初代社長、伊予水力電気会社(現伊予鉄道)初代社長、松山商業会議所初代会頭ほか。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
- 『愛媛県百科大事典』下、愛媛新聞社、1985年。
- 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。