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伊予湯岡碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊予湯岡碑(レプリカ)

伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)は、かつて伊予国道後温泉愛媛県松山市)に存在したとされる飛鳥時代。「伊予道後温湯碑(いよどうごおんとうひ)」・「伊予温湯碑」・「道後温湯碑」などとも。

碑自体は現存しないが、碑文は後世史料の引用文によって知られる。

概要

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飛鳥時代推古天皇4年(596年)に、道後温泉を訪れた聖徳太子(厩戸皇子)らにより建立されたと伝わる碑である[1]。碑文は古代金石文の1つになるが、原碑は早くに失われ現在は文献上でのみ知られる[2]。中国の温泉賦や温湯碑に倣い設置されたものと見られ、碑文には推古天皇期の古色が指摘される[1]

碑の設置経緯ならびに碑文内容は『伊予国風土記』(完本は非現存)に採録され、その風土記の逸文が『釈日本紀』巻14または『万葉集註釈』巻3に収録されている。それら逸文によれば、伊予温泉(現在の道後温泉)には天皇などの行幸が5回あり、第3回目で聖徳太子が高麗僧の恵慈や葛城臣(葛城烏那羅[2])らとともに訪れた際に太子は「湯の岡」のほとりに碑を建て、その地は「伊社邇波岡(いさにわのおか、伊佐邇波岡)」と称されるようになったとし、続けてその碑文(後述)を掲載する[1][3]

なお、上記の「伊社邇波岡」に関連する式内社としては伊佐爾波神社(松山市桜谷町)が知られる[1]。ただし同社の現鎮座地は湯築城築城に伴い遷座したもので、遷座以前は現在の湯築城跡の地に鎮座していたという[1]。それとは別に、愛媛県松山市来住町の久米官衙遺跡群に温湯宮(石湯行宮)の存在可能性があり、それとの関連を指摘する説もある[2]。なお原碑については、天武天皇13年(684年)10月の白鳳地震で埋もれたと推測する説がある[2]

碑文

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法興六年[注 1]十月、歳在丙辰、我法王大王[注 2]与恵慈法師[注 3]及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以[注 4]妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異于寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽[注 5]。窺望山岳之巖崿、反冀平子[注 6]之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢[注 7]、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊[注 8]、豈悟洪灌霄庭意歟[注 9]
才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。 — 『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文より[2]
注釈
  1. ^ 「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  2. ^ 「法王大王」は聖徳太子を指す (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  3. ^ 底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  4. ^ 底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  5. ^ 底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  6. ^ 底本では「子平」であるが、「平子」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  7. ^ 底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  8. ^ 底本に「以」は無いが、意補 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
  9. ^ 底本では「与」であるが、「歟」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。

脚注

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参考文献

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  • 新編日本古典文学全集 5 風土記(ジャパンナレッジ版)』小学館、2003年、504-510頁。 
  • 関晃「伊予湯岡碑」『国史大辞典吉川弘文館 
  • 「道後温泉」『日本歴史地名大系 39 愛媛県の地名』平凡社、1980年。ISBN 978-4582490398 
  • 寺内浩「道後温泉」『日本古代史大辞典』大和書房、2006年。ISBN 978-4479840657 

関連項目

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