保科武子
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保科 武子 (武子女王) | |
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北白川宮家、飯野保科家 | |
続柄 | 北白川宮能久親王第3王女子 |
身位 | 女王 →(降嫁) |
敬称 | 殿下 →(降嫁) |
出生 |
1890年3月28日 |
死去 |
1977年3月18日(86歳没) |
埋葬 | 日本・東京都港区、青山霊園 |
配偶者 | 保科正昭 |
子女 | 保科光正 |
父親 | 北白川宮能久親王 |
母親 | 申橋幸子 |
栄典 |
勲二等宝冠章 |
役職 | 宮内庁侍従職女官長 |
保科 武子(ほしな たけこ、1890年〈明治23年〉3月28日[1] - 1977年〈昭和52年〉3月18日)は、元皇族、宮内庁女官長。保科正昭子爵の妻。皇族としての名と身位は武子女王(たけこじょおう)、敬称は殿下。
生涯
[編集]北白川宮能久親王と側室の申橋幸子の娘として生まれる。1895年(明治28年)10月28日、父能久親王と死別。
当初、藤堂高紹と内約しており、1908年(明治41年)12月12日には明治天皇から結婚の勅許も下りていた[2]。ところが、納采の儀直後に高紹の重婚が発覚し、破談(北白川宮家側からの申し入れにより、藤堂家から婚約を辞退)となった[3](詳細は藤堂高紹の項目を参照)。
学習院女学部を経て、1909年(明治42年)3月に同国文学専修科を最優等で卒業し、皇族初の卒業生総代となった[3]。
1911年(明治44年)4月8日付で新たな結婚の勅許が下り[4]、同年4月11日付で、勲二等宝冠章を受章[5]。4月17日、保科正昭子爵に降嫁[6]。1914年(大正3年)10月7日、嫡男正虎(のちの光正)を出産。
長男の光正が東京帝大を卒業した翌年1938年(昭和13年)に香淳皇后の女官長に就任。1945年(昭和20年)4月1日、阿波丸事件により光正が殉職。 1947年(昭和22年)10月11日、夫・正昭とも死別。
1967年(昭和42年)3月22日まで女官長を務めた。この間、皇太子妃となる正田美智子に宮中儀礼を講義した[7]。
1977年(昭和52年)3月18日、死去。享年86。墓所は東京都港区南青山の青山霊園。
血縁
[編集]- 兄弟:
- (異母)北白川宮成久王、小松輝久侯爵、二荒芳之伯爵、上野正雄伯爵ほか
- (同母)竹田宮恒久王ほか
- 夫:保科正昭
- 義姉:岩崎寧子 - 岩崎久弥男爵夫人[8]
- 義姉:佐野尚子 - 佐野常羽伯爵夫人[8]
栄典
[編集]参考文献
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『纂輯御系圖』(松成堂、1903年)、p.202(NDLJP:1085748/121)
- ^ 『官報』第7641号「宮廷録事」、明治41年12月14日(NDLJP:2950990/11)
- ^ a b 中村 1909 p.40(NDLJP:853217/34)
- ^ 『官報』第8336号「宮廷録事」、明治44年4月10日(NDLJP:2950990/11)
- ^ a b 『官報』第8338号「叙任及辞令」、明治44年4月12日(NDLJP:2951694/3)
- ^ 明治44年宮内省告示第7号(『官報』号外、明治44年4月17日)(NDLJP:2951699/14)
- ^ 「完全版天皇・皇室FILE」(不二龍彦、学研プラス、2010年)
- ^ a b c 『人事興信録』第8版(1928年7月)、「保科正昭」の項
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。