兒玉久子
兒玉 久子(こだま ひさこ、天保13年(1842年)[注 1] - 昭和12年(1937年)1月19日)は、幕末から昭和にかけての人物。父は長州藩の支藩・徳山藩の中級武士(100石)である児玉半九郎。夫は徳山七士の一人である児玉次郎彦。弟に明治時代の軍人・児玉源太郎、妹に児玉信子がいる。
生涯
[編集]天保13年(1842年)、徳山藩士・児玉半九郎の長女として周防国都濃郡徳山の横本町[注 2]で生まれる。
安政3年(1856年)10月19日に父・半九郎が死去。久子の弟で児玉家嫡男の源太郎はまだ5歳と幼かったため、母・元子は半九郎の友人の漢学者であった島田蕃根と相談し、同じく徳山藩士である浅見栄三郎の次男で、弘化2年(1845年)に半九郎の養子となっていた次郎彦を久子と娶せ、次郎彦が婿養子として児玉家の家督を相続することとなった[1][2]。
しかし、元治元年(1864年)8月12日に夫・次郎彦が佐幕派によって暗殺され、児玉家は家禄と宅地を没収され家名は断絶となった。児玉家には久子、母・元子、妹の信子、弟の源太郎、そして次郎彦と久子の間の子・文太郎が残され、遠縁を頼って雨露をしのぎ、母や妹と共に裁縫や機織り等の賃仕事を始めたが、生活は困窮した。しかし、母・元子は家名を辱めないように努めつつ、久子や源太郎らの教育を怠らず、事あるごとに『曽我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)6月29日に藩主・毛利元蕃から児玉次郎彦に対する赦免状が交付された。これに対し、児玉家の親類一同は7月3日に源太郎の家督相続を願い出て許可され、源太郎は中小姓に取り立てられて25石の禄を与えられた。これにより児玉家の家名は再興された[3]。また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻り役に任じられ、禄も100石へ戻されている[4]。
その後、久子は子弟の教育と仏道に帰依して報謝の生活を送り、昭和3年(1928年)6月22日には八十六節婦として緑綬褒章を受章[5]。これを記念して「兒玉久子褒章記念碑」が周南市の児玉神社内に建てられた。
昭和12年(1937年)1月19日に死去[6]。享年95。墓所は山口県周南市の興元寺の墓地である通称・隠居山墓地の一角の児玉家墓所にある。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 徳山市役所『徳山市史史料 下』徳山市役所、1968年3月。
- 小川宣『周南風土記』文芸社、2006年8月。ISBN 978-4-28601-631-3。
- 小林道彦『ミネルヴァ日本評伝選「児玉源太郎」』ミネルヴァ書房、2012年2月。ISBN 978-4-62306-283-6。