前田茂勝
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正10年(1582年) |
死没 | 元和7年(1621年) |
別名 | 彦四郎、主膳(通称)、秀利 |
霊名 | リアン(レアン)[1]のちに、コンスタンチノ[1] |
官位 | 従五位下主膳正 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
藩 | 丹波亀山藩主→丹波八上藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田玄以、母:不詳 |
兄弟 | 秀以、三条西実条正室、長松院、石川忠総継室、一瀬仁左衛門室、正勝、茂勝、稲葉貞通継々室 |
前田 茂勝(まえだ しげかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。丹波国亀山藩主、のち八上藩主。前田玄以の三男(次男とも)。
生涯
[編集]天正10年(1582年)、前田玄以の3男(次男とも)として誕生した。
文禄4年(1595年)にキリシタンとなる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、東軍方の細川幽斎が守る丹後国田辺城を攻め、開城の使者も務めた。その後、関ヶ原の戦いは西軍の敗北で終わるが、父・玄以が持つ朝廷とのパイプなどを考慮されて、戦後、父の所領・丹波亀山藩は安堵された。
慶長7年(1602年)、父・玄以が死去したために家督を継ぎ、丹波八上に移封され八上藩主となった。次第にキリスト教と距離を置き、教会にも通わなくなったとされる[2]。藩政を省みずに放蕩に耽り、終には発狂したという。諫言する家臣・尾池清左衛門父子を始めとする多くの家臣を切腹させたため、慶長13年(1608年)6月16日、幕府から改易を申し渡され、出雲国松江藩主、堀尾忠晴に身柄を預けられた。改易後、自らのつまずきに気づくと、茂勝は司祭のもとを訪れ、自らの過ちを告白し、これまでの快楽とは縁を切り、堅実なキリシタンの婦人と暮らしたとされる[2]。
参考文献
[編集]- 挟間芳樹「前田秀則・茂勝」(五野井隆史監修『キリシタン大名―布教・政策・信仰の実相―』宮帯出版社、2017年)