大友義乗
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正5年(1577年) |
死没 | 慶長17年7月12日(1612年8月8日) |
改名 | 塩法師/鹽法師丸[1](幼名)、能述→能延→義延→義乗 |
別名 |
能述、能延、義延 義述、能乗[2] 通称:惣五郎[3](宗五郎) |
戒名 | 松聲院香巌真馨信居士[3] |
霊名 | フルゼンシオ |
官位 | 従五位下[1]、侍従[1]、左兵衛督 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
藩 | 旗本 |
氏族 | 大友氏[4] |
父母 | 父:大友義統、母:尊寿院(吉弘鑑理の娘) |
兄弟 | 義乗、貞勝(夭折)[5]、女(一尾通春室)、佐古局、松野正照、女(伊藤氏室) |
妻 | 高橋紹運の娘[6]または退清院[7][8](立花宗茂の娘)[9][10] |
子 | 義政[11]、義親[異説あり][10]、女(上杉長員室)、女(畠山親元室) |
大友 義乗(おおとも よしのり)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の旗本。大友氏第23代当主。
父は大友義統(吉統)、母は大友氏家臣・吉弘鑑理(高橋紹運の父)の娘・菊姫。幼名は塩法師、通称は惣五郎。諱は初め能述(よしのぶ)、その後に能延さらに義延(読みは同じ)、次いで義乗と改名した。義述、能乗とも[2]。
略歴
[編集]イエズス会に伝わる資料では、1587年3月に義統の嫡子が受洗し「フルゼンシオ」という洗礼名を受けたとある。
天正16年(1588年)3月7日、秀吉の奏請で昇殿を許された義統は、従五位下に叙され、参内して太刀と白銀を献じた。秀吉の「吉」を一字拝領して吉統と改名し、羽柴の名字と豊臣姓を下賜された[12]。また吉統は朝廷より侍従に叙任された。
天正17年(1589年)3月、吉統は嫡子の塩法師丸(義乗)を聚楽第に出仕させて秀吉に謁見させた。秀吉は(吉統と対立していた)志賀親次にも出頭を命じてその武功を褒めて、義乗と親次に食事を供した[13]。秀吉は親次がキリシタンであることを責めなかったが、親次が豊後に帰ってから手紙で棄教を命じている[13]。(※親次は断っている。義統は棄教していた。)
天正20年(1592年)2月11日、朝鮮へと渡海する父・吉統より、大友氏の家督を譲られた[14][15]。新たに築かれた家島館にて父に代わり政務を執る。
文禄2年(1593年)、文禄の役で父である吉統が、平壌城で明軍に包囲されていた小西行長ら諸隊を見捨てて敵前逃亡をしたと失態を讒言されたことで、秀吉の逆鱗に触れた。吉統の処分はすぐには発表されなかったので、大友勢は各地で奮戦し、義乗も朝鮮に出陣して少しでも心証を良くしようとしたが、吉統には「臆病者」という厳しい裁定が下され、大友氏は豊後領を改易されることとなった[16]。吉統は勘当となって毛利輝元の預とされた[15]。家臣の杵築城主の木付統直は豊後除封を恥じて朝鮮からの帰途の門司沖で入水自殺し、その父の鎮直は城を清めてから妻と共に自害した[15]。
出征中の義乗は、幼少より秀吉の小姓として近侍していたことをもって、肥後の加藤清正の預託となり[17]、500人扶持を与えられた[18]。義乗は清正に従ってこの年は朝鮮で越年し、翌年、預け先が武蔵の徳川家康へと変わった[19]。そのまま家康に仕えて常陸国筑波郡内で3000石、武蔵国牛込で300石を与えられ、牢人衆に列した[1]。
この頃、佐竹義述と名が通じるため、能乗と改名した[20]。
慶長4年(1599年)閏3月、水戸の配所にいた父・宗巌(吉統)は恩赦によって幽閉の身を解かれた[21]。この恩赦は後陽成天皇の乳母として仕えていた継室(少納言、伊東掃部頭の娘)とその母(大弐)が天皇に願い出たためという[22]。これに伴って義乗の処分も解除されたが大坂には上らず江戸の徳川家に与力した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、義乗は徳川軍の一員として下野の宇都宮に進軍し、小山で家康に父と共に豊後に戻り東軍に加勢し旧領回復すれば「豊後一国」の恩賞を与えると言い含められて西行しようとするが、すでに父は西軍の毛利家に属して豊後に下向し蜂起してしまっており、石垣原の戦いで東軍に敗れた末に投降していた。
戦後、義統が秋田実季の預に転じて常陸国宍戸に幽閉された一方で、義乗は家康に与えられた知行とと併せて3,300石の扶持を与えられて、大身旗本に列せられたので豊後以来の旧臣を幾分かは呼び戻せた。江戸幕府では寄合(旗本寄合席)に属したという。
慶長17年7月12日、死去[1]。36歳[1](または26歳[3])。法名は真馨[1]。
長男の義政は既に早世しており、次男[10]の義親が跡を継いだ。断絶後、再興し、高家として徳川氏に仕えた。
家族
[編集]○出典:『寛政重修諸家譜』[23]
偏諱を与えた人物
[編集]- 能述時代
- 能延・義延時代
- 義乗時代
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 堀田 1922, p. 697.
- ^ a b 大分県教育委員会 1981, p. 3.
- ^ a b c d 国書刊行会 1915, p. 139.
- ^ 後年、しばしば立花氏も称す
- ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
- ^ 『寛政重修諸家譜』には名前などに関する記述がなく、院号なども不明。しかし義親の母とされている。他の子供について、生母は記されていない[1]。
- ^ 梅月春香禅定尼[3]。
- ^ 退清院殿梅月春香禅定尼。旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
- ^ a b c d 塙保己一 1973, p.368
- ^ a b c 『群書系図部集』によると、退清院は立花左近の娘で義親の母[9]。同時代には立花左近と称する者は立花鑑載・立花宗茂・立花忠茂の3名がいるが、貞勝の母を「立花左近統虎女」[9]と、義親を「貞勝弟」[9]していることから、左近は宗茂をさし、貞勝とは同腹という内容である。父については特に記述がなく五男とあるだけで、義乗が父義統の側室を自分の妻にしたという意味にもとれ、義親は子もしくは弟との二つの解釈が成り立つほか、『寛政重修諸家譜』とは異なる内容である。 ただし、立花家の系譜によれば宗茂と三人の妻の間でも実女が持っていなく幾人の養女も義統や義乗の室ではない。また、大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
- ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝・天正19年豊後に生まれて慶長13年正月11日没・18歳、号は真如院道性と記載されている。
- ^ 渡辺 1978, p. 336.
- ^ a b 渡辺 1978, p. 337.
- ^ 大分県総務部総務課 1987, pp. 306–307.
- ^ a b c 渡辺 1978, p. 338.
- ^ 渡辺 1978, pp. 342–343.
- ^ 中野等「国立国会図書館デジタルコレクション 論文 豊臣政権期の豊後」『九州史学 (108)』九州史学研究会、1993年、46頁 。
- ^ 渡辺 1978, p. 346.
- ^ 渡辺 1978, p. 348.
- ^ 大分県教育委員会 1981, p. 5.
- ^ 渡辺 1978, p. 361.
- ^ 渡辺 1978, p. 362.
- ^ 堀田 1922, pp. 697–698.
参考文献
[編集]- 大分県総務部総務課 編『大分県史』《中世篇III》大分県、1987年3月31日 。(要登録)
- 大分県教育委員会 編『大分県史料』 第三十四巻《大友家文書録(4)》、大分県教育委員会、1981年10月20日 。(要登録)
- 大分市, 大分市教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大分市教育史』大分市、1929年 。
- 国書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 系図綜覧. 第二』国書刊行会刊行書、1915年 。
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 大友氏」『寛政重脩諸家譜 第1輯』國民圖書、1922年 。
- 塙保己一 編「大友系図」『群書系図部集4, 第3巻』八木書店、1973年、368頁。ISBN 4797102764。
- 渡辺澄夫『国立国会図書館デジタルコレクション 大分の歴史 第4巻 本編』大分合同新聞社、1978年 。
外部リンク
[編集]- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『大友義乗』 - コトバンク
- 大友義延書状(幸甚左衛門宛) - 文化遺産オンライン(文化庁)