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太田康資

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

太田 康資(おおた やすすけ、1531年享禄4年) - 1581年11月8日天正9年10月12日)?[注釈 1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将太田資高嫡男(次男)。母は北条氏綱の娘・浄心院。兄(資高の庶長子)に太田景資、弟に太田輝資太田駒千代太田重正の父とされる。母方の伯父にあたる北条氏康から偏諱を賜って康資と名乗り、またその養女を妻に迎えた。年齢が近く行動を共にしていた同族の太田資正太田資清(太田道灌の父)を共通の高祖父とする8親等離れた親族である。

経歴

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天文17年(1547年)ごろに父資高が死去すると家督を継ぎ、江戸城代となる。康資の妻は遠山綱景の娘(法性院)であるとされ、一旦北条氏康の養女となったのちに嫁いでいる。また、康資の所領は約2千貫(うち直轄領は半分弱)であったが、これは北条氏家臣では第6位の貫高に相当する。これらの配慮から、氏康は康資の待遇をかなり高い位置に置いていたとも見られる。しかし、所領役帳には格式の高い国衆には「殿」が付けられているのだが[注釈 2]、康資の本領は931貫384文であるにも拘らず、彼の名前の後には付けられていない。ゆえに家臣化していて、江戸地域において影響力は低下していたものとも考えられる。

康資は武勇に優れていたと伝えられ、天文23年(1554年)に北条氏が駿河国甲斐武田氏と戦った際には原虎胤の隊を撃退するなどの活躍を見せている。しかし、与えられた恩賞が少なかったことなどから不満を抱き(一説には曽祖父道灌が築城した江戸城の城主になれなかったことを不満に思っていたともされる[注釈 3])、1562年、同族の太田資正を通じて上杉家への寝返りを画策する。この寝返りは、北条方の資料には、資正や里見氏が進めた寝返りであるともいう。しかし、この寝返りは失敗し、同年10月に彼は資正の元に逃亡する。これに対して翌年に入ると氏康が武蔵松山城を攻略し、その勢いに乗じて資正・康資攻撃を計画したため、上杉謙信は自身側についている数少ない武蔵国人である両名の救出を、安房、上総、下総の領主である里見氏に要請、里見家当主であった里見義堯はこれに応じ、嫡男義弘を総大将とする大軍を派遣、義弘は国府台城に入る。

1564年初頭、北条と里見、太田連合軍は激突。第二次国府台合戦であるが、北条に大敗。康資はそのまま里見氏の庇護を頼り安房に逃亡。その後も北条と戦い続けるも、1581年の里見氏の家督争いのさいに起こった正木憲時の反乱に巻き込まれ、正木憲時に加担したということでともに小田喜城自害したとも言う。一説には資正とともに佐竹氏に逃げたとも言われ、国府台以降の経歴は曖昧である。

なお、徳川家康が寵愛した側室である英勝院は、康資の娘とする説がある。また、1591年に佐竹氏に追われて逃げた江戸重通の娘が、康資の養女となったという説もある。この説だと、先ほどの1581年没説はおかしいということになる。そして、江戸時代に5万石を領した太田氏は、英勝院の親類であるという。つまり、太田氏の流れはここで不明となる。太田氏の家系図は信憑性が低いとされているものが多く、太田資宗の代に改竄があった可能性が高いとされている。

その他

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  • 関東古戦録』巻六の記述では、「身丈6以上、筋骨は太く、見るものは大人と呼ぶ。声は太く、雷が震えるようで、普通の男が30人程で持ち上げる岩を1人で軽々と持ち上げる強力でもある」と説明されている。同様に『小田原北条記』巻五「鵠台合戦」でも、「30人かかって動かす大石を1人で軽く持ち上げてしまった」と記述される。

脚注

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注釈

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  1. ^ 通説や太田氏の系図では天正16年(1588年)に死去したともされるが、『本土寺過去帳』や安房小湊(現在の鴨川市)の誕生寺にある彼の墓碑[1]では、正木憲時の反乱時である天正9年(1581年)に死去した事になっている。
  2. ^ 信頼の置ける扱いであるからこそ、他所他所しい「殿」をつけなかったという見方もある。他にも重臣クラスの他国衆で「殿」を付けられていない人物は多い。
  3. ^ 当時、江戸城には本丸に富永氏富永直勝)、二の丸に遠山氏(遠山綱景)が寄っており、康資は三の丸に寄る、城代3人のうちの一人でしかなかったからである。

出典

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  1. ^ 31.太田新六郎康資の石塔”. 誕生寺. 2019年1月5日閲覧。
先代
太田資高
江戸太田家当主
太田康資
次代
断絶(太田重正