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奥山政敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥山 政敬
おくやま まさよし
生年月日 (1845-04-16) 1845年4月16日弘化2年3月10日
没年月日 (1916-07-18) 1916年7月18日(71歳没)
死没地 東京府東京市小石川区(現:東京都文京区
称号 従三位勲二等
配偶者 乙女(市川兼恭次女)
子女 嘉一(長男)、レキ(長女・山田寅之助妻)、アイ(次女・仁井田益太郎妻)、敬(三女・田所美治妻)、五六(次男)
親族 藤九郎(兄)

選挙区勅選議員
在任期間 1901年5月31日 - 1916年7月18日
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奥山 政敬(おくやま まさよし[1]1845年4月16日弘化2年3月10日) - 1916年大正5年)7月18日)は明治時代の日本司法官文部官僚。旧薩摩藩士。明治初年までの名は嘉一郎[2]

官立大阪英語学校京都大学の前身の一つ)および官立大阪師範学校の校長、松山名古屋大阪地方裁判所長、広島控訴院長、貴族院議員を歴任した。

来歴

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弘化2年3月10日1845年4月16日)、薩摩藩士奥山政恒の次男として生まれる[3]。薩摩藩開成所で学んだのち、明治元年(1868年)に英学者何礼之大阪私塾を開くと同藩の鮫島武之助らとともに入塾した[4][5]

翌明治2年(1869年)9月、同年7月に新政府が設立した大学校(同年12月に大学と改称)の少得業生兼少寮長となり、次いで中寮長兼中得業生、大得業生兼大舎長に昇任[6]。明治3年(1870年)9月には大学出仕となり、翌10月から大阪開成所分局・理学所の管理者を務めている[7]。明治4年(1871年)7月に文部省が設置されると文部省出仕(のち文部省七等出仕)となり、本省書籍課・用度課(博物局・天文局を含む)の事務を担当[8]。翌年9月に出仕を免じられたが、11月には再び文部省七等出仕となり、第四大学区第一番中学の学長に就任した。以後、明治6年(1873年)4月に校名が第三大学区第一番中学と改められ、さらに同月に開明学校、翌年4月に大阪外国語学校、同10月に大阪英語学校と移り変わる中、出仕を免じられる明治8年(1875年)10月まで校長(明治6年11月に学長から改称)として在職[9]。この間、明治6年8月に設けられた大阪師範学校の校長(明治6年11月までは学長)も明治8年3月まで兼務した[10]

免出仕後は裁判官に転じ、明治9年(1876年)3月に七等判事に就任(翌年6月、判事に更任)。東京裁判所在勤となり、11月に千葉裁判所が東京裁判所千葉支庁に改組されると支庁長を命じられた[11]。明治13年(1880年)11月からは松山裁判所長(のち松山始審裁判所長)を務め、明治17年(1884年)12月に大審院在勤(のち大審院評定官に更任)となったのち、明治23年(1890年)8月から名古屋始審裁判所長を、同年10月から大阪地方裁判所長を務めた[12]。明治24年(1891年)12月、函館控訴院検事長に転じ、大審院検事、広島控訴院検事長を経て明治26年(1893年)12月に広島控訴院長に就任[13]。明治34年(1901年)5月には貴族院議員に勅選され、翌6月に判事を退職した[14]

退職後は貴族院議員を務めたほか、明治42年(1909年)7月に中村元嘉、安楽兼道らとともに田川炭坑株式会社を設立。取締役社長に就任している[3][15]大正5年(1916年7月18日東京小石川御殿山の自邸で死去[16]

親族

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栄典

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位階
勲章等

著作

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脚注

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出典

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  1. ^ 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』
  2. ^ 『大阪中学校一覧 明治十四年十五年』 2頁
  3. ^ a b c d 『現代人名辞典』
  4. ^ 田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷(第二部 蘭学の地域的展開と交流)」『国立歴史民俗博物館研究報告』第116巻、国立歴史民俗博物館、2004年2月、209-234頁、doi:10.15024/00001268ISSN 02867400NAID 120005748461  p.226 より
  5. ^ 許海華「長崎唐通事何礼之の英語習得」『関西大学東西学術研究所紀要』第44巻、関西大学東西学術研究所、2011年4月、297-318頁、ISSN 02878151NAID 120005686612  p.314 より
  6. ^ 国立公文書館所蔵「大学南校 職務進退部類」己巳九月十日条、同九月晦日条。『職員録』明治3年6月、86丁裏。倉沢剛著『学制の研究』講談社、1973年3月、58頁、45-46頁。
  7. ^ 『特定研究「日本近代化」資料 任解日録』東京教育大学特定研究「日本近代化」研究組織、1970年4月、130頁。前掲 『大阪中学校一覧 明治十四年十五年』 2-3頁 神陵史資料研究会編『史料 神陵史:舎密局から三高まで』神陵史資料研究会、1994年8月、121-133頁。
  8. ^ 前掲 『学制の研究』269-271頁。明治5年2月11日文部省達(内閣記録局編輯 『法規分類大全第一編 官職門十四』 1891年2月、62頁
  9. ^ 『太政官日誌』明治5年第69号、2丁表-裏 同誌明治5年第106号、6頁 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 116丁裏 『太政官日誌』明治8年第127号、2頁 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 554丁表 前掲『史料 神陵史:舎密局から三高まで』201頁、213-214頁、259-260頁、277-278頁、328頁。
  10. ^ 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 211丁裏244丁裏554丁表。橋本美保著『明治初期におけるアメリカ教育情報受容の研究』風間書房、1998年3月、ISBN 475991076X、199頁。「大阪師範学校」(『大阪府教育百年史 第一巻 概説編』大阪府教育委員会、1973年3月)
  11. ^ 『太政官日誌』明治9年第38号、9頁東京日日新聞』第1680号、1877年7月10日、1面。『司法省日誌』明治9年第33号、19頁 内閣記録局編輯 『法規分類大全第一編 官職門十三』 1890年7月、256頁
  12. ^ 井尻常吉編纂『歴代顕官録』朝陽会、1925年12月、672頁 『官報』第447号、1884年12月22日、6頁 同誌第856号、1886年5月12日、115頁 同誌第2137号、1890年8月13日、151頁 同誌第2205号、1890年11月4日、24頁
  13. ^ 『官報』第2551号、1892年1月4日、8頁 同誌第2691号、1892年6月18日、178頁 同誌第2766号、1892年9月14日、133頁 同誌第3154号、1894年1月6日、18頁
  14. ^ 『官報』第5372号、1901年6月1日、18頁 同誌第5381号、1901年6月12日、211頁
  15. ^ 筑豊石炭礦業史年表編纂委員会編纂『筑豊石炭礦業史年表』 西日本文化協会、1973年11月、223-224頁。
  16. ^ 『大正過去帳』
  17. ^ a b c d 『第四版 人事興信録』
  18. ^ 原平三講演 『市川兼恭』 温知会〈温知会講演速記録〉、1941年5月、95-97頁
  19. ^ 『官報』第6913号、1906年7月16日、437頁同誌第8392号、1911年6月14日、277頁 同誌第174号、1913年3月1日、9頁 同誌第312号、1913年8月13日、227頁
  20. ^ 仁井田益太郎」(谷元二著『第十四版 大衆人事録 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年10月)
  21. ^ 田所美治」(前掲『第十四版 大衆人事録 東京篇』)
  22. ^ 『太政官日誌』明治9年第39号、4頁
  23. ^ 『官報』第322号、1884年7月24日、2頁
  24. ^ 『官報』第907号、1886年7月10日、105頁
  25. ^ 『官報』第2547号、1891年12月24日、305頁
  26. ^ 『官報』第2553号、1892年1月7日、33頁
  27. ^ 『官報』第4113号、1897年3月23日、294頁
  28. ^ 『官報』第5398号、1901年7月2日、27頁
  29. ^ 『官報』第1191号、1916年7月20日、465頁
  30. ^ 『東京日日新聞』第3419号、1883年5月8日、1面。
  31. ^ 『官報』第1650号、1888年12月27日、287頁
  32. ^ 『官報』第2855号、1893年1月7日、33頁
  33. ^ 『官報』第4051号、1896年12月28日、433頁
  34. ^ 『官報』第7272号、1907年9月23日、461頁
  35. ^ 『官報』第205号附録、1913年4月9日、3頁
  36. ^ 『官報』第1310号附録、1916年12月13日、5頁
  37. ^ 『官報』第1218号、1916年8月21日、453頁

参考文献

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  • 奥山政敬君」(古林亀治郎編輯『現代人名辞典』中央通信社、1912年6月)
  • 奥山政敬」(内尾直二編輯『第四版 人事興信録』人事興信所、1915年1月)
  • 「奥山政敬」(衆議院参議院編『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』1960年12月)
    • 衆議院、参議院編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』1990年11月
    • 芳賀登ほか編『日本人物情報大系 30 憲政編10』皓星社、2000年1月、ISBN 4774402745
  • 「奥山政敬」(稲村徹元ほか編『大正過去帳』東京美術、1973年5月)

関連文献

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外部リンク

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公職
先代
牟田口通照
日本の旗 広島控訴院
1893年 - 1901年
次代
一瀬勇三郎
先代
春木義彰
日本の旗 広島控訴院検事長
1892年 - 1893年
次代
野崎啓造
先代
富永冬樹
日本の旗 函館控訴院検事長
1891年 - 1892年
次代
渥美友成
先代
(新設)
日本の旗 大阪師範学校
1873年 - 1875年
学長
1873年
次代
諸葛信澄