完顔盈歌
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盈歌(インコ、重熙22年(1053年) - 乾統3年10月29日(1103年12月12日))は、女真(ジュシェン)の首長。記録には9代目と記されており、金の景祖烏古廼(ウクナイ)の末子。金の建国者である太祖阿骨打(アクダ)の叔父にあたる[1]。漢民族の記録には揚割(ようかつ)、高麗人の記録では延蓋と記される[1][注釈 1]。
経歴
[編集]史書には、始祖とされる函普以下、徳帝烏魯・安帝跋海・献祖綏可・昭祖石魯・景祖烏古廼まで父子相続がなされたと記されるが、東洋史学者の池内宏の詳細な研究によれば、始祖から昭祖までの五代の事績は、歴史的事実とは認めがたいという[2]。『遼史』・『金史』によれば、首長権は景祖烏古廼から、その次男の世祖劾里鉢(ヘリンボ)、そして、四男の粛宗頗剌淑(ポラシェ)を経て末子の盈歌(インコ)に引き継がれた。この間の相続は兄弟間でなされた。契丹(キタン)人の遊牧民王朝の遼は盈歌(インコ)に生女真節度使の職に任じた[1][2]。なお、阿骨打(アクダ)は劾里鉢(ヘリンボ)の次男。
乾統3年(1103年)10月29日に51歳で没した。その後は甥の烏雅束(ウヤス)がその跡を継いだ。
金の第3代皇帝熙宗合剌(ホラ)は即位後、盈歌(インコ)を孝平皇帝と追諡、廟号を穆宗とした。皇統4年(1144年)、埋葬地は献陵と改称され、また、章順孝平皇帝と増諡された。
宗室
[編集]子女
[編集]孫
[編集]関連系図
[編集](追)昭祖 石魯(シル) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景祖 烏古廼(ウクナイ) | 烏骨出(ウクチュ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劾者(ヘテェ) | (追)世祖 劾里鉢(ヘリンボ) | 劾孫(ヘスン) | (追)粛宗 頗剌淑(ポラシェ) | 阿離合懣 | (追)穆宗 盈歌(インコ) | 習不失 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
撒改(サガイ) | (追)康宗 烏雅束(ウヤス) | (1)太祖 阿骨打(アクダ) 完顔旻 | (2)太宗 呉乞買(ウキマイ) 完顔晟 | 斜也(シエ) 完顔杲 | 撻懶(ダラン) 完顔昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
粘没喝(ネメガ) 完顔宗翰 | 謀良虎 完顔宗雄 | (追)徳宗 斡本(オベン) 完顔宗幹 | 斡離不(オリブ) 完顔宗望 | (追)徽宗 繩果(ジェンガ) 完顔宗峻 | 斡啜(オジュ) 完顔宗弼 | (追)睿宗 訛里朶(オリド) 完顏宗輔 | 訛魯観(オルゴン) 完顔宗雋 | 蒲魯虎(ブルフ) 完顔宗磐 | 阿魯補 完顔宗偉 | 阿魯(アル) 完顔宗本 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
設野馬 | (4)海陵王 迪古乃(テクナイ) 完顔亮 | (3)熙宗 合剌(ホラ) 完顔亶 | (5)世宗 烏禄(ウル) 完顔雍 | 烏帯(ウタイ) 完顔宗言 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乙卒 完顔秉徳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 内藤(2015)pp.183-184
- ^ a b 河内(1970)pp.41-44
参考文献
[編集]- 河内良弘「内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造」『岩波講座 世界歴史9 中世3』岩波書店、1970年2月。
- 内藤湖南『中国近世史』岩波書店〈岩波文庫〉、2015年7月。ISBN 978-4-00-381171-9。