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小倉恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小倉 恒
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 栃木県鹿沼市
生年月日 (1970-08-10) 1970年8月10日(54歳)
身長
体重
180 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1992年 ドラフト7位
初出場 1993年10月17日
最終出場 2008年7月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

小倉 恒(おぐら ひさし、1970年8月10日 - )は、栃木県鹿沼市出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

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プロ入り前

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小学校低学年から野球を始め、「さつきが丘スポーツ少年団」でプレー。4年生の頃からずっと投手だった[1]。鹿沼東中学校、県立鹿沼商工高等学校(旧校名:鹿沼農商)へ進学[1]。甲子園を目指したが、出場は果たせなかった[1]

社会人でも野球を続けたかったがどこからも声がかからず、地元の野球クラブチーム「全足利クラブ」に所属する[1]足利市役所の体育・文化振興会の職員として働きながら、勤務後に野球の練習を続けた[1]

1992年富士重工業の補強選手に選ばれ都市対抗野球大会に出場する[1]。都市対抗野球に富士重工業・日立製作所住友金属(日本製鉄)鹿島以外の北関東地区チームから出場した(補強選手に選ばれた)選手は2014年に全足利クラブが都市対抗野球に出場するまで20年以上現れなかった。

その後、1992年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから7位指名を受けて入団[1]クラブチーム所属選手が指名を受けるのは、ドラフト会議史上初のことだった。

プロ入り後

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ヤクルト時代

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1993年は10月17日の阪神タイガース戦でプロ初登板初先発を果たすも2回4失点で敗戦投手となった。同年はこの1試合の登板で終わった。

1994年中継ぎとして13試合に登板したが、精彩を欠いた。

1995年も7試合の登板に終わった。

1996年はさらに減り、2試合にとどまった。

1997年は開幕から一軍登板できず、シーズン途中に馬場敏史岩崎久則との交換トレード広永益隆と共にオリックス・ブルーウェーブへ移籍[1]

オリックス時代

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仰木彬監督に見出され、移籍後は中継ぎで起用され、7月20日の日本ハムファイターズ戦でプロ初勝利を挙げた。同年は防御率4.45と安定感を欠いたものの、22試合に登板した。

1998年は12試合の登板に終わった。

1999年は48試合に登板し、5勝11S、防御率2.17の成績を残した。特にこの年の8月27日から9月10日まで連続5セーブを挙げ「小倉大明神」と呼ばれていたことがあった[2]

2000年にはオールスターゲーム初出場を果たした。シーズンでは9勝5敗10S、防御率2.98の記録を残した。

2001年には先発へ転向。4月28日の日本ハム戦(神戸)では初完投を初完封勝利で飾った。7月1日には函館オーシャンスタジアムで優勝した近鉄戦でも完封勝利を挙げた(同年、近鉄戦での完封は他に山田秋親のみ)。また、自身初の2桁勝利(10勝)を挙げ初の規定投球回到達し防御率はパ・リーグ4位。一方、一発病はなおらず、26試合に先発し両リーグ最多の27被本塁打を浴びた。この年は同じ先発の加藤伸一も2桁勝利を挙げたが、チームは2002年から2004年まで最下位に沈み、2004年オフに近鉄と合併。その間2桁勝利投手がいなかったことから加藤と共にブルーウェーブ時代最後の2桁勝利投手となった。

2002年は開幕に出遅れるものの、後半戦勝ち星を重ねて7勝をあげた。

2003年は精彩を欠き、4勝13敗を喫し期待に応えられなかった。一方でリリーフでも登板して抑えでは7セーブを挙げるなど全体では51試合に登板したが防御率4.52と不安定さが目立った。そしてこの年のチーム防御率は5.95と6点近くもあり投壊の要因になった。

2004年は34試合に登板するも4勝5敗、防御率5.83と前年より防御率が悪化。先発での登板は10試合だったが、先発での登板はこの年が最後となった。11月選手分配ドラフト東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。

楽天時代

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2005年は中継ぎで15試合に登板したものの、1勝2敗で防御率7.79の絶不調に終わった。9月下旬に球団から戦力外通告を受けた。現役続行を希望し、11月12球団合同トライアウトを受験。それが次期監督就任が決まっていたヤクルト時代の指揮官だった野村克也の目に止まる。息子でもある捕手・カツノリ(野村克則)の進言もあり、野村は以前にも教え子だった小倉を再生させることを決意し、球団に再契約を迫る。球団側は当初難色を示すも最終的には野村の熱意に根負けし、再契約を受諾。小倉は大幅に年俸が下げられたものの再度楽天でプレーできることになった。

2006年は開幕当時に抑えとして期待された小山伸一郎が不振であったため、代わって抑えを任されたものの結果は芳しくなく抑え投手の座は福盛和男に明け渡し中継ぎ投手に回った。すると安定した投球を見せセットアッパーに定着した。しかし8月に福盛が乱調となると再び抑えの座に復帰した。8月17日にシーズン初セーブをあげる。このようにシーズン通じて中継ぎ、抑えと大車輪の活躍で楽天投手陣の中では最多の58試合に登板し、6勝7敗4セーブ15ホールド・防御率2.18というチーム最高の成績を収めた。6月30日の日本ハム戦(札幌ドーム)では、9回裏に左投手河本育之のワンポイント登板のため、一時的に一塁守備に就いた。この作戦は功を奏し、この9回裏のピンチはしのいだものの、延長10回に田中賢介からサヨナラ本塁打を被弾し敗戦投手となってしまった。オフにはイオン日米野球2006の代表に監督推薦選手として選ばれたが、メッツホセ・レイエスに最終戦でサヨナラ満塁本塁打を献上し、全米の全勝でシリーズを終了させた。

2007年はキャンプで出遅れた。それでも福盛に繋ぐセットアッパーとして定着して前半はなんとか抑えていたが、シーズン後半になると打ち込まれる試合が目立ち、2度二軍へ降格するなど調子を落とした。結局39試合の登板にとどまりホールドも11に終わり防御率も前年より悪化し、5.76で終わった。

2008年は前年の抑えだった福盛がテキサス・レンジャーズへ移籍したためリリーフ陣が手薄になり、経験ある投手陣の1人として小倉の復活の期待がかかったが開幕当初から調子が上がらず、一軍登録を抹消されるとその間にこの年からリリーフへ転向した青山浩二、前年の大半を二軍で過ごした川岸強らが台頭したため大半を二軍で過ごした。結局小倉の一軍での登板はわずか8試合のみであった。10月1日現役引退を発表。チーム最終戦当日の10月7日に一軍へ昇格、最後の登板を行う予定であったが、この最終試合がチームが対戦相手のソフトバンクとの5位争いを決する試合でもあり、かつその試合が延長にまでもつれ込む接戦だったこともあり登板機会はなく、そのまま16年間の現役生活に終止符を打った。

引退後

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2009年オリックス・バファローズと契約を結び、打撃投手として転身。

選手としての特徴

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パッと思いつく変化球は一通り投げられると言われる[要出典]ほど多種多様な球種を持つ選手で、ナックルボールも投げられるという話だが実戦ではあまり投げない。

速球にも力があり、サイドスロー(楽天時代はスリークォーター)から常時140km/h近い球速を出せ、最速では150km/h弱になる。速球とスライダーが、実戦の投球の大部分を占めている。

また、実戦で投げる球種はどれも制球力が非常に高く、2006年に記録した四球は62回を投げてわずか13。イニングの約5分の1とこれだけでも少ないと言えるのだが、この内の10は故意四球である。欠点としては、多くのシーズンで被本塁打が多いことが挙げられる。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1993 ヤクルト 1 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 13 2.0 6 1 1 0 0 0 0 0 4 4 18.00 3.50
1994 13 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 83 19.1 21 4 5 0 1 16 0 0 9 9 4.19 1.34
1995 7 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 48 11.0 11 2 4 0 0 4 0 0 9 7 5.73 1.36
1996 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 2.0 3 0 1 0 1 0 0 0 3 3 13.50 2.00
1997 オリックス 22 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 137 32.1 36 2 8 0 1 24 1 0 16 16 4.45 1.36
1998 12 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 81 18.2 18 2 8 2 0 10 0 0 10 9 4.34 1.39
1999 48 2 0 0 0 5 2 11 -- .714 411 103.2 86 5 25 3 3 84 1 0 25 25 2.17 1.07
2000 48 3 0 0 0 9 5 10 -- .643 419 105.2 87 11 22 3 1 72 1 0 36 35 2.98 1.03
2001 26 26 4 2 3 10 7 0 -- .588 659 164.0 156 27 26 1 1 128 1 0 70 66 3.62 1.11
2002 17 15 1 1 0 7 4 0 -- .636 423 100.1 112 14 17 1 2 60 0 0 46 39 3.50 1.29
2003 51 13 1 0 0 4 13 7 -- .235 531 125.1 129 22 32 8 4 104 3 2 68 63 4.52 1.28
2004 34 10 0 0 0 4 5 0 -- .444 363 80.1 102 13 21 3 5 56 3 0 54 52 5.83 1.53
2005 楽天 15 0 0 0 0 1 2 0 2 .333 83 17.1 25 3 8 0 0 10 0 0 16 15 7.79 1.90
2006 58 0 0 0 0 6 7 4 15 .462 253 62.0 55 5 13 10 1 51 1 0 20 15 2.18 1.10
2007 39 0 0 0 0 2 1 0 11 .667 127 29.2 33 1 6 1 0 27 0 0 19 19 5.76 1.31
2008 8 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 37 7.2 11 4 1 0 2 10 0 0 8 8 9.39 1.57
通算:16年 401 70 6 3 3 50 48 32 29 .510 3678 881.1 891 116 198 32 22 656 11 2 413 385 3.93 1.24
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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投手記録
その他の記録

背番号

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  • 54 (1993年 - 1997年途中)
  • 58 (1997年途中 - 1998年)
  • 27 (1999年 - 2005年)
  • 13 (2006年 - 2008年)
  • 103 (2009年 - )※打撃投手

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、126ページ
  2. ^ 別冊ベースボール『よみがえる1990年代のプロ野球 PART6』(2021年6月30日刊)57頁

外部リンク

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