小山朝長
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 文治4年(1188年) |
死没 | 寛喜元年11月17日(1229年12月4日) |
改名 | 政義、朝長 |
別名 | 又四郎 |
官位 | 左衛門尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 小山氏 |
父母 | 父:小山朝政、母:中条宗長の娘 |
兄弟 | 朝長、薬師寺朝村 |
妻 | 中条家長の娘 |
子 | 長政、長村、長泰 |
小山 朝長(おやま ともなが)は、鎌倉時代の武将。下野国守護、小山城城主[1]。
生涯
[編集]文治4年(1188年)、小山朝政の嫡子として生まれる[2][1]。通称は又四郎[3]。官職は左衛門尉[2]。初名は政義[1]。弟の朝村(政村)は薬師寺郷を領して薬師寺氏の祖となった[4]。
建久4年(1193年)8月、鶴岡で奉納された流鏑馬の射手として史料に現れる[5]。
承久元年(1219年)1月、将軍・源実朝が殺され、同3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を諸国にくだした(承久の乱)[6]。朝長は、武田信光、小笠原長清、および叔父・結城朝光とともに東山道大将軍の一人として従軍した[7][2]。同年6月5日、東山道軍は大井戸の渡し(現・可児市)で京方を破り、東海道軍と合流し、同月15日入京した[8]。
乱後、幕府は、京方の公卿の中心人物を有力御家人に預け、鎌倉に護送させている[9]。同年7月、朝長は、命によって葉室宗行を駿河国藍沢原で斬首した[10][2]。
乱平定の恩賞として、尾張国海東荘を与えられたと推測される[11]。また、父から家督や所領を譲られている[3]。
寛喜元年(1229年)11月17日、父に先立ち42歳で死去した[3]。
同2年(1230年)2月20日、朝政は、朝長の子・長村に所領と所職を譲渡した[12]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 「小山朝長」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2023年3月12日閲覧。
- ^ a b c d 小山市史編さん委員会 1984, p. 462.
- ^ a b c 小山市史編さん委員会 1984, p. 463.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 474.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, pp. 462–463.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 371.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, pp. 371–373.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 373.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 374.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, pp. 374–375.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 492.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 481.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 473.
- ^ 荒川 2012, p. 118.
- ^ 荒川 2012, pp. 107–108.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 475.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 480.
参考文献
[編集]- 小山市史編さん委員会 編『小山市史』 通史編Ⅰ《自然 原始・古代 中世》、小山市、1984年11月10日。NDLJP:9643282。
- 甲府市市史編さん委員会 編『甲府市史』 通史編 第一巻《原始・古代・中世》、甲府市役所、1991年4月20日。NDLJP:9540836。(要登録)
- 荒川善夫 編著『下総結城氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年10月10日。ISBN 978-4-86403-069-4。