山内豊範
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 弘化3年4月17日(1846年5月12日) |
死没 | 明治19年(1886年)7月13日(40歳没) |
改名 | 幼名:熊五郎、鹿次郎、号:鵬洋 |
戒名 | 崇文院殿天常端誠大居士 |
墓所 | 高知県高知市天神町の真如寺 |
官位 | 正二位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 土佐藩主→高知藩知事 |
氏族 | 山内氏 |
父母 | 父:山内豊資、養父:山内豊信 |
兄弟 | 豊熈、豊惇、豊矩、豊範 |
妻 |
正室:毛利信順(毛利斉熙三男)の娘 継室:上杉斉憲の娘 |
子 | 豊景、豊静、豊中、寿子、娘(大関増輝正室) |
山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名、明治前期の日本の華族、実業家。位階爵位は正二位侯爵。
土佐藩第16代(最後)藩主で、同藩初代(最後)藩知事。三条実美の従弟にあたる。
経歴
[編集]第12代藩主・山内豊資の十一男として生まれる。嘉永元年(1848年)に兄の豊熈(第13代藩主)、豊惇(第14代藩主)が相次いで死去したため後継者と目されたが、わずか3歳だったため、家督は分家出身の豊信(容堂)が継承することとなった。安政6年(1859年)2月26日、豊信が安政の大獄で隠居処分となったため、家督を継承した。
しかし文久2年(1862年)に豊信の隠居が解かれると、実権は豊信に握られることとなり、豊範の主体性は薄かった。同年、朝廷から京都警護の内勅を受ける。明治2年(1869年)には薩摩藩、長州藩などと共に連名で版籍奉還を行なった。また、義父・上杉斉憲の米沢藩が戊辰戦争によって官軍の追討を受けると、その赦免に奔走した。
明治4年(1871年)の廃藩置県後は、鉄道事業や銀行事業などの成立に寄与している。明治19年(1886年)7月13日、41歳で死去した。跡を長男の豊景が継いだ。
栄典
[編集]系譜
[編集]- 父:山内豊資(1794年 - 1872年)
- 母:不詳
- 養父:山内豊信(1827年 - 1872年)
- 正室:毛利信順(毛利斉熙三男)の娘
- 継室:上杉斉憲の娘
- 室:喜以
- 四男:山内豊中(1885年 - 1952年)
- 生母不明の子女
豊範の主要家臣
[編集]- 家老
- 深尾内記、山内主馬、山内下総(酒井勝作)、深尾蕃顕(弘人)、五藤内蔵助、桐間蔵人、福岡宮内、山内昇之助、柴田備後、深尾丹波、山内藤馬
- 中老
- 山内右近、山内掃部、山内八郎、松下一学、寺村主水、安田斎、渡辺玄蕃、西野丹下、村田仁右衛門、孕石主税
- 仕置役
- 吉田元吉、朝比奈泰平、真辺正心(榮三郎)
- 用人
- 寺村左膳、由比猪内、渡辺弥久馬(定府)、坂井与次右衛門、仙石寅治、葛目楠吉、下田七郎、神山左多衛、間左平
- 城使
- 宮井駿蔵(定府)、若尾直馬(定府)
主治医
[編集]登場作品
[編集]脚注
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
侯爵 (高知)山内家初代 1884年 - 1886年 |
次代 山内豊景 |