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岩原謙三

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岩原謙三

岩原 謙三 (いわはら けんぞう、1863年12月1日文久3年10月21日[1])- 1936年昭和11年)7月12日)は、明治から昭和初期の実業家三井物産時代にヴィッカーズ事件で有罪となるも、その後足利紡績芝浦製作所社長、日本放送協会会長など多くの重役を務めた。

経歴

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加賀国大聖寺藩(現在の石川県加賀市大聖寺錦町)の藩士・岩原孝興の長男として誕生[1][2]

金沢石川県啓明学校にて学業を始め、1878年(明治11年)に卒業し[1]大阪に出立して旧制大阪英語学校を経て東京旧制東京商船学校を卒業[3]

1883年(明治16年)東京商船学校を卒業すると共同運輸会社(現在の日本郵船)へ入社[4]。その後、三井物産(旧社)に転職する[5]。三井物産ではロンドン支店、ニューヨーク支店と海外勤務を経験し、神戸支店長、ニューヨーク支店長[1]を務めて1906年(明治39年)に三井物産常務取締役に就任した[3][5]

1914年(大正3年)、岩原は自社(三井物産)が総代理店を請け負っていたヴィッカース造船所(イギリス)が、大日本帝国海軍戦艦金剛の建造を受注出来るよう、海軍高官に贈賄を行ったことにより逮捕される(シーメンス・ヴィッカース事件)。同年7月18日、東京地方裁判所にて岩原に贈賄罪で懲役2年の実刑判決[6]。これにより勲六等を褫奪された[7]

また1910年(明治43年)に芝浦製作所取締役に就任し、1920年(大正9年)に芝浦製作所社長に就任した[3][5]。また浅野総一郎が中心となって1924年(大正14年)に設立された鶴見臨港鉄道に発起人として参画し、取締役を務めた[8]。その他にも足利紡績社長、小野田セメント台湾製糖日本無線電話京浜運河東京電気王子製紙などで取締役をそれぞれ務めた[3][9]

1924年(大正13年)11月29日に設立された社団法人東京放送局設立に際しては、後藤新平総裁の下で理事長に就任。1926年(大正15年)8月6日に東京名古屋大阪の三放送局合同により結成された日本放送協会では、逓信大臣安達謙蔵の指名により初代となる会長に就任した。日本放送協会会長就任後も足利紡績や日本無線電話で代表取締役社長を務めた[9]

1936年昭和11年)7月12日日本放送協会会長在任のまま狭心症により東京市芝区葺手町(現在の東京都港区虎ノ門)の自邸にて死去[9]。74歳没。墓所は護国寺と加賀市の蓮光寺に在り、2014年に蓮光寺に岩原謙三顕彰御堂が建立された[10]

家族

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脚注

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  1. ^ a b c d 『東京社会辞彙』イ2-3頁。
  2. ^ 平成25年第5回教育委員会議事録 (PDF) 石川県加賀市教育委員会
  3. ^ a b c d 『大正人名辞典』上巻82頁 日本図書センター
  4. ^ 岩原謙三君【28頁】 『財界の名士とはこんなもの?』 湯本城川 著 第1巻(事業と人物社) 1924(大正13年) - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ a b c 『明治大正人物事典 1(政治・軍事・産業篇)』 86頁 日外アソシエーツ 2011年
  6. ^ 三井物産会社の贈賄事件(海軍収賄)(ウィッカーズ事件) 其二【大阪朝日新聞 1914年7月19日】 神戸大学デジタルアーカイブ
  7. ^ 官報 1915年6月24日 五七九頁
  8. ^ 設立 鶴見臨港鉄道株式会社
  9. ^ a b c 岩原謙三氏訃報 東京朝日新聞 1936年7月14日付夕刊 2面
  10. ^ 岩原謙三氏 御堂入魂 加賀 市長ら功績たたえる 共同通信 2014年6月21日付
  11. ^ 松本均『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

参考文献

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  • 毎日通信社編『東京社会辞彙』毎日通信社、1913年。
先代
三井高泰
芝浦製作所社長(旧会長)
1920年 - 1930年
次代
平田篤次郎