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嶋谷征四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嶋谷 征四郎
名前
カタカナ シマタニ セイシロウ
ラテン文字 SHIMATANI Seishiro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1938年11月6日
大日本帝国の旗 大日本帝国, 京都府京都市
没年月日 (2001-10-24) 2001年10月24日(62歳没)
日本の旗 日本, 京都市北区
選手情報
ポジション DF
ユース
1954-1956 日本の旗 山城高校
1957-1960 日本の旗 関西大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1961-1965 日本の旗 古河電気工業 8 (2)
日本の旗 京都紫光クラブ
通算 8 (2)
代表歴
1959 日本の旗 日本 1 (0)
監督歴
1972-1974 日本の旗 京都紫光クラブ
1977-1979 日本の旗 京都紫光クラブ
1994 日本の旗 京都パープルサンガ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

嶋谷 征四郎(しまたに せいしろう、1938年11月6日 - 2001年10月24日)は、京都府京都市出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表として国際Aマッチ1試合に出場した。

経歴

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京都の友禅の染色職人の家に生まれ、1957年に京都府立山城高等学校を卒業して関西大学へ入学。在学中はサッカー部に所属し、フルバック(今のセンターバック)の名手として活躍し、1959年に日本代表に選出された。大学卒業後の1961年より古河電気工業に入社。当時の同僚としては川淵三郎宮本征勝などがおり、長く親交があった。これらの親交が後に京都紫光クラブが京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)へと進化していく中でも生かされていたことは嶋谷を知る人の中では有名な話である。

その後京都へ戻り、家業の染色工場を引き継ぐ形でスポーツ用品店に衣替えし経営者に転身。京都紫光クラブの監督をはじめとしてクラブのマネジメントも引き受けるなど京都のサッカー界発展に寄与してきた。1994年にはプロ化後初の京都パープルサンガの監督に就任。ジャパンフットボールリーグで開幕9連勝を果たすも、天王山と言われた柏レイソル戦とセレッソ大阪戦に連敗してからチームは低迷。9月21日に「体調不良による休養」がサンガよりリリースされ[1]、事実上の解任となった。

翌年からは京都パープルサンガの取締役普及部長として与那城ジョージなどと地域への普及活動に専念。また、ファンとも積極的に接することなどから「シマさん」の愛称で多くのサンガファンに親しまれていた。

2001年10月26日、京都市北区肝硬変により死去した[2]。死去の知らせが報じられた後、自宅で執り行われた通夜・告別式共に多くのファンが弔問に訪れた。

選手歴

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個人成績

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日本サッカーリーグ成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 古河 JSL 8 2 -
通算 日本 JSL 8 2 -
総通算 8 2 -

代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(1959)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1959 1 0 4 0 5 0
1960 0 0 1 0 1 0
1961 0 0 1 0 1 0
通算 1 0 6 0 7 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1959年01月11日 シンガポールの旗シンガポール  シンガポール ●2-3 竹腰重丸 国際親善試合

指導者歴

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監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯
1972 JSL2部 京都紫光 5位 18 17 7 3 8 - 予選敗退
1973 7位 18 14 5 4 9 - 1回戦
1974 3位 18 22 9 4 5 - 予選敗退
1977 6位 18 31 5 4PK勝 3PK敗 6 予選敗退 予選敗退
1978 10位 18 8 1 1PK勝 2PK敗 14 予選敗退 予選敗退
1979 関西 5位 - 予選敗退
1994 旧JFL 京都 - - -

出典

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  1. ^ 「京都パープルサンガの嶋谷監督休養」 朝日新聞、1994年9月22日、2014年9月4日閲覧
  2. ^ 嶋谷征四郎氏死去”. 四国新聞 (2001年10月25日). 2014年9月4日閲覧。

外部リンク

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